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蝉しぐれ  作者: GUN
8/23

第8話 京子の死


異例の葬式辞退の声は、すぐさま町内を駆け抜けて行った。

公報への反逆が表沙汰にされたのならば、容赦なく追放の手が突き付けられる。非国民の汚名を着せられてしまうことは必至だ。


『誤報だなんて・・、大きな声で言えないわね。しばらくは他言は無理ね』

春代のそっと言い含めた言葉に、節は軽く頷いただけであった。

希望はあるのだ。我が子の帰還を待つ事ほど、幸せな時間なんて他に無い。節の目が、春代の逞しく結ばれた口元に注がれていた。

事実、戦死を告げた誤報は、例を待たずして巷に拡がっていた。

我が息子が還って来てから、遅れて二年後に、死亡告知書が届いたと言う、実に浅はかな事例も、少なくはなかった。

その逆、戦死の事実を知らされず、戦後、数年間を息子の帰還を待つことだけに費やした、悲しい母親の余生を物語る逸話も、数を留めなかった。


やがて季節の訪れは、加速度を増して木々に迫り寄った。

青々として茂っていたいた葉の群れも、少しずつ落ち始め。痩せこけた枝の全貌をあらわにしていく。

蝉もトンボも、いつの間にか姿を、声を失くした。夜になると秋の風情が、あちらこちらで耳を楽しませてくれた。

紅葉の季節を過ごし、北風に備える衣類の数々が、早坂家の物干しに吊るされていた。


『四郎、早苗のセーター取ってくれない。そこ、手前にあるでしょ?』

『あった、赤いやつね!』

『そう、ありがとう。悪いけどここまでお願いね』

『でも、穴開いてるよ、母さん。ほら、お腹のところ』

『いいのよ、去年もそうだったから。仕方ないわ、我慢して着てもらわないとね』

着るものと言えば、お下がりの品ばかり。新しい洋服なんて流通さえしていない。寒さを凌げるだけでいい。“贅沢は敵”とは、よく言ったものだ。

『お母さん。次郎兄ちゃんのものは・・、どうするの?』

『・・、ああ、そうね・・。もちろん干しておくわ、困るもの、突然還って来たら慌てるでしょ!』

『でも・・、お兄ちゃん、かえって来れるのかなあ・・』

『・・・』

『ねえ、お母さん・・?』

『四郎!。つまんないこと考えてないで、さっさとしてよ。時間ないんだから!』

春代らしくのない荒げた言葉が、四郎に向けられた。無言のまま、衣類は物干しに艶やかに並べられた。


『四郎、ごめんね・・。怒った・・?』

『ううん、おれの方こそ・・、つまんないこと聞いてさ・・』

『誰だって心配してるの。家族のことだもの、情けないくらい心配なのね・・』

『お母さん!、見てほら。お兄ちゃんのセーターが、早苗の服をだっこしてるよ!』

風に煽られて、揺ら揺らと戯れているように仲の良い兄と妹。


『ほんとだ、次郎も、早苗のことが可愛くて仕方ないのね』

小春日和の穏やかな陽だまりの下、親子団欒の束の間の休息であった。

この頃からついに、東京の街にも戦火が及び始めることとなる。何も知らない民衆は、悪夢の入り口でただ膝を抱えているばかりだった。



昭和十九年十一月二十四日、北多摩郡武蔵野にある飛行機製作所に、初の戦略爆撃としての空襲が行われた。

百十一機のB―29が東京の空を旋回していたのだ。

貧弱な防空体制が露わになった都市の危機を、ただ指をくわえて、傍らでやり過ごすしかないのだろう。

この空襲を皮切りに、幾度となく小刻みな攻撃が繰り返された。軍需工場を目標とした日中からの爆撃は、容赦なく民衆の失意を煽っていった。

春代の住む足立荒川以北地区は、幸いにも、まだ被害から逃れていた。


『おーい、居るかあ?。春さん!』

『はーい、いますぐ・・』

遠くから春代が応えた。

『政さん?、どうかしたの・・』

『いやあ、米が調達出来てよ。それと、ろくでもねえ部位だけど、肉だ!。大した量じゃなくて悪いんだけど』

『いつもありがとう。政さん』

『いいんだよ、俺に出来ることってさ、これ位のことだもんな。しかしよ、あちらこちらで工場が壊されてよ、民家だって焼き払われてるのを見るとなあ・・、本格的に本土決戦が近付いているんだって、恐ろしい気がするぜ』

『空襲警報に、怯える子供たちも多いってね・・』

『子供だけに限ったことじゃねえさ、若い衆のいない家なんてよ、物騒で寝られねえってよ!』

『どうなるのかしらねえ・・、この先・・?』

『長引きそうな気がするぜ、往生際が悪いんだよ、この国のお偉いさん達はよ!。そもそも気合だけで勝負出来る時代は、とうに終わっちまってるんだよ。今や軍事力の差が、兵器の差が歴然なんだよなあ・・。しかし、よく耐えてるよなあ俺たちも・・』

『へえ・・、よく知ってるのね、政さん。感心したわあ』

『いやあ・・、街で話してるのを、たまたま聞いたんだよ・・。誰かの受け入りさ。へへへ・・。』


政男の言葉でないにしても、素直に受け止めたい心境であった。大国アメリカを相手取っての戦は、無謀であったと思いたい。


『政さん、今晩どう、一緒にご飯』

『ああ・・、ありがたいんだけどさ、知り合いの工場の瓦礫撤去に、行かなきゃならねえんだよ。相当やられたみたいでさ』

『そう・・、残念ね。気を付けてよね』

『またゆっくり来させてもらうからよ、それじゃあ!』


空襲による爆撃によって、あちらこちらで破壊された建物が、どうしようもなく放置されていた。

東京の街で瓦礫の山を見上げることが、最近では珍しくなくなっていた。

空襲の続く不安な日々が、地域の絆を深めていく。困難とは、そうして心の拠り所を求め合うものなのだろう。

次第に近隣への愛着が、より一層、芽生え始めたていたのだ。


『おばちゃん、居るの?』

その日の午後、春代は多江子の家を訪ねた。政男からあり難く支給された食糧を、右腕に提げていた。

『ああっ・・?、なんだ春ちゃんかい』

多江子の旦那の喜代司が、台所で何やら支度をしている最中だった。


『おばちゃんは?、出かけてるの?』

『丁度さあ、婦人会の集まりだってよ。何でも、緊急らしいが・・、亭主の昼飯くらいは面倒見て欲しいもんだよな・・。はは・・』

『おじちゃん、何してるの?』

『いいやねえ、今朝もらった魚をさあ、捌いてはいるんだけどな・・。勝手が判んなくてよ、可哀そうな形になっちまってさ・・』

『見せてもらっていい?』

そう言って、台所に足を踏み入れた春代が、大きく溜息を漏らした。


『残酷な地獄絵図って感じね・・。殺生もここまでくると、犯罪かしら・・。ねえ、おじちゃん?』

『そう言うなよ・・。まあ・・、こんなもんだろうよ。へへ』

『包丁貸してちょうだい。わたしやるわ』

喜代司の後始末を引き受けたものの、悪戦苦闘の春代であった。

『このスズキどうしたの?』

『辰三がさ、今朝持って来たんだ。世話になってるからってよお』

『いつもお世話してるから・・?。だって、特別なことじゃないでしょ?』


『あのな春ちゃん・・、あんまり喋りたくはないんだけどな・・。結核らしい、辰三のとこの京子』

『ええっ・・?。ほんと、おじちゃん!』

『ああ・・、うちの奴もさあ、相当、気おくれしてんだよ。まだ若いのになあ京ちゃん・・』

『入院は・・?、病院は何処なの?』

『入院どころの騒ぎじゃないんだよ・・。空襲で痛めつけられた連中で、どこの病院も手いっぱいさ、悔しいけどさあ・・』

包丁を持つ春代の手が、少しだけ止まった。

風邪が長引いていたなんて、気軽に考えていた自分に、急に不安が射し込んだ。


『・・・。長くないの・・、京子さん』

『年内、もつかどうからしい・・』

『・・・・』

それでも捌いた魚を皿に盛り付け終えると、春代はゆっくりと、包丁を仕舞い込んだ。


『半身はお刺身にしたから、すぐに食べた方がいいわ。残りは焼いてもいいわねえ・・』

『ありがとさん・・。春ちゃん、気を落とさないようにな。いいな!』

『うん、大丈夫。わたし京子さんのところ、顔出してくるわ』

『そうかい・・、よろしく頼んだよ』

『ああ、それから、おばちゃん戻って来たら伝えておいてね。どんな事でもいいから、皆で分け合いましょうって。ね!』

苦しいことも、楽しいことも、皆で共有したい。こんな時代だからこそ声を掛け合って、それぞれの安否を確認したいのだ。

京子の本当の病を知って穏やかでいられない春代は、それでも笑顔を絶やさないでいた。鼻歌が漏れる口元からは、精一杯の強がりが滲んでいた。



『京子さん!、こんにちは、入っていい?』

『ああ・・、春代さん・・?。こほっ、こほっ・・』

『大丈夫・・、体調崩したって聞いて、心配して来てみたの。どう、具合の方?。ああ・・、寝てていいの。気を遣わないで』

薄暗い部屋に敷かれた布団に、丸くなって京子は、やっと息をしている様子だった。

『辰三さんは?、仕事なの?。自分の女房が調子悪いっていうのに、呑気な人ねえ』

『・・・。春代さん・・、いいのよ。あなたこそ・・、気を遣って・・、くれなくても』

『やだあ、なに遠慮してんのよ。京子さんらしくないわね』

『こほっ、んぐ、ごほっ!、くく・・っ』

肺結核に犯されると、死に至る確率は容赦なかった。しかも感染症さえ引き起こしてしまうのだ。通常であれば隔離病棟でその時期を向かえるまで、ベッドの上で廃人同様の生活を余儀なくされてしまう。


『喋らなくていいから、じっとしていて』

『こほっ・・、春さん・・、うつるから・・、お願い・・』

『わたしは平気よ、なんたって風邪をひかないってのが自慢なの!』

『春さん・・、ごめ・・ん・・ね』

生気を失くした瞳は、ただ天井を見上げるので精一杯であった。


『帰ったぞ!、京子っ、良い薬もらって来たぞ!!』

そこに辰三が戻って来た。女房を見捨てて仕事どころじゃない。可愛い女房のために、街中を歩き回ったに違いない。そしてやっと薬を手に入れたのだろう。


『京子!、どうだ調子は・・?。・・、おや、春さん?』

『お邪魔してるわよ、辰三さん』

『ああ・・、そうか・・。いらっしゃい・・』

一瞬、目を伏せた辰三が、すぐに、慌てて春代の腕を掴み、玄関まで連れ出した。

『痛いっっ!、どうしたって言うの?。辰三さん』

『春さん・・、悪いけど、今日のとこは、帰ってくれないか・・。わざわざ来てくれて、申し訳ないけどよ・・』

『京子さんに会いたかっただけよ。顔を見たかったの・・』

『黙ってて悪かったな・・。いやっ、いつか言おうと思ってたんだけどさ・・、つい忙しくてなあ・・、ごめんなあ・・』

『悪いの・・、京子さん・・』

『あ、ああ・・。咳が止まらなくてなあ・・、可哀そうでよ・・。時々、背中さすってやるんだけど・・、もう・・、骨と皮だけになっちまってさあ・・』


被っていた帽子を胸の前で絞るように丸めて、辰三が歯がゆく立ち尽くしていた。

『感染するかも知れないから・・、春さん、帰ってくれよ。なあ、頼む・・。春さんに、もしもの事があったら、一郎に顔向け出来ねえよ、おれ・・』

『いいのよ、そんなこと。ところで欽ちゃんは、どうしてるの?』

『ああ・・、おれの田舎のばばあん所に預けてるんだ、その方が、なにかと安心だしな。また、いつ空襲がやって来るか判んねえしよ・・』

『おとう・・ちゃん・・』

京子の切なく掠れた声が、辰三を呼んだ。

『おお、なんだどうしたよ。苦しいのか?』

京子の寝間にすぐさま飛んで行った辰三は、なんとも優しく、頼りになる、“おとうちゃん”の姿であった。


暦は十二月も終わりを告げたころ、巷ではお正月の準備が厳かに進められていた。

大晦日を一日前にした、霜の降りた寒い朝。ついに京子は、静かに息を引き取った。

享年三十五歳の、惜しまれた人生であった。


人は常に、畳の上で死にたいと口癖のように語る。まさしくその願いが叶えられたのだ。しかし仮に、京子が病院のベッドの上だったとしたら、もう少し生き延びたはずだろう。

目の前に迫った新しい年を、迎えられていたことだろう。


正しい死に方なんて論じるに価しないが、せめて我が家の畳の上で絶命出来たことが、優しい“おとうちゃん”の胸に抱かれて逝ったことが、京子の幸せと言わずして、なんと言えようか。


葬儀の営まれた自宅の隅では、しゃがみ込んだ欣也が、小さく唄を呟いていた。


『あなあーたと呼べえばあー・・、あなあたーと答えるうー・・、山のこだあまあーのお・・、うれえしーさあよおー・・。あなあーたと呼べえば・・・』

『欽ちゃん、上手ねえ・・。どこで覚えたの?』

春代がそっと欣也の傍に立ちながら、問い掛けた。


『かあちゃんが、好きだったんだ・・。いっつも唄っていた・・。あんだけ聴かされたら、バカでも覚えるさ・・』

つまらなそうに赤い鼻の欣也が、口を尖らせて春代を見上げた。


『おばちゃん・・、おれ・・の、かあちゃん・・。死んじゃったよ・・』

『・・・・』

『とうちゃんがさ・・、男は簡単に泣くもんじゃないって・・。お前の代わりに、おれが泣いてやるって・・。だから、おれ・・、泣かないんだ』

『・・・。そう・・、そうね・・』

『口うるさい、かあちゃんだったけど・・。おばちゃんみたいに、きれいじゃなかったけどさ・・。おれ・・、好きだったから・・、かあちゃんのこと・・』

やっとの悲しみをこらえながら、こぼれ堕ちる鼻水をすすりながら欽也が、母親の最期の自慢話を語ってくれた。


罪の無いこんな少年に、なんて惨い事実を与えてしまったのだろうか。

しかしそれは、誰の責任でもない。確かに、人間の受け入れるべき真実なのだ。


『・・・。欽ちゃん、もう一度、唄おうか・・。母さんの・・、好きだった唄・・』

堪え切れず溢れ出す涙。そして欽也の、幼くも健気な男気。

春代は両手いっぱいに、かばうようにしっかりと、欽也を抱き寄せた。


『あなあたーと呼べえばー・・・。あなあたーと答えるうー・・・』

泣き虫の二重奏が、京子の好きだった唄を、せめて今夜、楽しく奏でるのであった。


その晩東京には、静かに雪が舞い降りていた。白々と埋めつくされた街は、まるで

街中の傷口を隠すかのように、薄化粧を施しているようだった。

やがて辺りはきらきらと、奇麗な光彩を放っていた。

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