第7話 戦死の誤報
たおやかに過ぎて行く時間、やがて遅めの食事の後片付けが始まった。盛大だった宴もお開きとなった。
『四郎、そろそろ寝る支度しなさい。早苗もね、いい?』
『お母さんは?』
『もう少しおばちゃんとお話があるの、先に寝ててね』
『早苗、おかあさんと寝る!。ねえ、いいでしょ』
『・・・。早苗、こちらにいらっしゃい』
すり寄って来た早苗を、春代は懐に抱え入れ、早苗の額に頬を当てた。
『お人形さんみたい。可愛いね・・早苗は。あのね、おかあさんね、おばちゃんと大切なお話があるの、今晩はお兄ちゃんのそばで良い子できるかなあ?』
『うん、お人形さんみたいにじっとしてればいい?』
『そうよ、えらいわね早苗は』
『えへへ・・』
『おやすみなさい・・四郎、早苗』
襖を半分閉めて、ようやく子供たちを眠りに就かせた。
『節さん、梅酒いこうか!』
『うん!、いこう・・』
酒宴の始まりだ。母親と言う任務は、ほんの数時間、休業を申し入れた。
『節さん、付き合ってもらって感謝するわ』
『なに言ってんの、わたしの方こそ助かったわ、礼を言わなきゃ』
『湯呑みでいい?。気の効いた器なくてさ』
そう言って、湯呑みを取り出して節の前に並べた。
『えっ、三つ?』
『そう、篤くんの分』
『・・、あつし・・、の・・?』
『そう、篤くんの分よ。通夜・・、まだでしょ?』
『・・・。うん、まだだった・・』
卓袱台を仏壇に見立てて、湯呑みに梅酒をこぼれんばかりに入れた。春代の先導で、お題目が唱えられた。
数珠なんて用意されてはいない。線香もロウソクも無い。弔問客も無く、ただただ、注がれた小さな湯呑みに、懸命のお題目が献上された。
孤独を知る生活が節に準備された。ならば、彼女を守る術は一体、どこにあるのだろうか?。
『不思議ね・・。もっと悲しいのかと思った。死ぬほど切ないのかと、思っていたわ・・』
思いの外、ゆくりと節が心の内を語り始めた。
けれど、その言葉には嘘が優先されていた。そう、“死ぬほど切ないのかと”と、胸の奥底で騒いでいる本音が、悔しさが読み取れた。
『旦那が亡くなった時はね、まだ篤がいたから頑張れたの。強く生きなきゃってさ。必死だったわ、特に、うちだけに限ったことでもないでしょ?、春さんだって同じだもんね・・。子供を生き甲斐に、生きて行くしかないものね』
『そうね・・、辛いって言葉じゃ足りないわ。どんなに頑張っても、ぽっかりと空いてるの、身体の何処かが埋め合わせ出来ていないのよ。均衡がとれていない・・』
そう言いながら、春代が湯呑みの梅酒を、一気に口に含んだ。
『ふうっ・・、おいしい・・』
『わたしもいただこう!』
節も負けじと、立派に湯呑みを空にした。
『結構いけるのね、節さんも・・』
『相当いけるわよ!。と言っても、最近はさぼってたけどさ』
『さあ、おかわりどうぞ』
『ああ、ありがとう!。でも・・、何だか不謹慎じゃない?』
『何言ってるの、通夜の定番よ、遠慮なんていらないわ』
それから長い時間、息子の思い出話で二人、身体の均衡を整えていた。
『それより春ちゃん、次郎くんからは連絡あるの?』
『ついこの間ね、手紙届いたのよ・・。何だか取ってつけたような、立派なこと書いてあった・・。一端の兵隊さんって感じだったわ・・』
少し、節に遠慮気味に、春代が言葉を並べた。
『そう・・、よかった・・。元気でよかったわね・・』
しみじみと、深い慈愛が交差していた。互いの心境を察知したうえの、母親談義であった。
『でも、正直怖いの。実際のあの子の暮らしが判んないから・・。強がってるんでしょ、泣きたいんでしょって、つい思っちゃうんだ』
『当たり前よ、母親ってそういうものよ、それでいいじゃない!』
『そうかしら・・?、そうよねえ!。我が子だもの、どう思おうが勝手だよね』
『元気で還って来れたらいいね、次郎くん・・』
『それが望ましいと思う。そうであって欲しいわ・・。でもね、期待しちゃうと辛いから、余り考えないようにしてるの』
『そうか・・。そうだよね・・、確かに辛いわよね・・』
強気だった節が、やはり言葉を濁した。
『節さん、こんなこと言うの恥ずかしいんだけど。聞いてくれるかなあ?』
『何よ今更・・、いいわ、何でも言ってよね』
躊躇うように春代が喋り始めた。
『もうね・・、済ましたの。次郎の葬式。先に済ましたの・・。わたし一人で・・。あの子はもう、ここに還って来なくてもいいようにね・・、そう思って』
『・・・。春ちゃん・・、どうして・・?』
『期待すると、辛いでしょ?。待つって余計ほら・・、嫌じゃない。それに、お国に捧げた命なんだもの。わたしだけのものじゃ無いの』
淡々と喋っている春代の口元からは、悲壮感なんて皆無だった。覚悟を知った母親の姿が立派にそこに存在していた。
『バカね・・、あんた。ホント、バカなんだから・・』
春代の肩にすがり、しばらくは身動きの取れない節であった。我が息子の訃報の悲しみを受け入れ、春代の息子、次郎の安否さえ気遣う節の涙が、春代の心に沁み入っていた。
『・・、ありがとう節さん・・。ごめんね』
春代にしても、誰かに託したかったのだ。何を好き好んで、生きている息子の、葬式を済ませる母親がいるものか。
立派に“覚悟”する。春代の強さが、今夜、湯呑みの底に沈んでいた。
『あれ?、おばちゃんわあ』
目を覚ました四郎が、節の姿を探していた。
『節おばちゃん、ついさっき帰ったのよ。四郎と早苗にありがとうって。喜んでたわ』
『なんだあ・・、そうか』
『どうしたの?、四郎。何かあったの』
『・・、篤お兄ちゃん、死んだって。夕べ、安部のおばあちゃんが言ってた。戦死の手紙が来たんだ』
『そう・・、聞いたの』
『お母さん!、次郎兄ちゃん大丈夫だよね。生きて還るよね!』
『何心配してるの?、この間の手紙読んだじゃない。元気そうだったでしょ?、次郎兄ちゃん。四郎、人間ってねえ、結構しぶといのよ』
『そうだよね、次郎兄ちゃん還ってくるよね!』
この時代、日常の中に、つい心配事が潜んでいる。ある者は死にに行くようなものだと、そしてある者は、元気にその姿を見せてくれるよと・・。言う。
核心無き言葉を、ただ受け止めるのではない。核心を持って、その人を待つのだ。
篤の戦死公報は、すでに町内に広まっていた。お葬式の段取りを心配した年配者たちが、こぞって節の家に集まった。
多江子もその一員であった。
『節ちゃん、どうしたもんかねえ。勿論、遺体なんて還るはずもないしさ・・』
『おばちゃん、わたし、お葬式はやりません』
『えっ!?、じゃあどうすんのさ、格好つかないじゃないさ!』
『だって、篤はこの家を出て行ったのよ、お国に捧げた身なの。死んだんじゃないのよ、形が無くなっただけ。魂は、しっかりとあるのよ』
『ええっ・・?』
一同がきょとんと、目を丸くした。節の言葉を理解出来る者など居なかった。或いは、息子を失ったせいで正気を無くしたと、思われたに違いない。
『そうは言ったって、ねえ・・、何もしないのは、まずいでしょ?。あたしだって、“はいそうですか”じゃ、済まないのよ・・』
多江子が、懸命にこの場を取り繕うとした。
『おばちゃん、お気遣いありがとう。でも、わたしの意思を尊重してくれない?』
『でもねえ・・』
町内会の、しかも隣組の世話役にとっては、収拾がつかない場面であった。
『節さん、遅くなってごめんね!』
春代が小走りに節の元に割り込んだ。そして集まった者に向けて言った。
『皆さん、御苦労さまです。村上篤くんの戦死の報が、昨日、母親の節さんに届きました。とても残念な気持ちでいっぱいです。それを心配してお集まりいただいて、感謝の念に堪えません』
節に代わって、何故か春代が説明を始めた。
『節さんがお葬式に踏み込めないのには、理由があるんです』
そう前置きをしてから、その根拠をゆっくりと喋り出した。
『今年の春前から、どうしたものか、誤報が相次いで届き始めました。戦死を知らせる公報が、正確に届けられていないんです。東京の街の至る処で、その事実が公になっています』
『春ちゃん、それは本当かい・・?』
つい堪らず、多江子が口をはさんだ。
『おばちゃん、事実なの。わたしも耳を疑ってたの、でも、確かに起きているの。篤くんがそうだって訳じゃないの、でも、間違いを信じたいの節さんは!、最期まで信じたいの。ねえ、判ってあげて』
戦死公報の正確さを、当時は疑う余地などなかった。全てを確かなものとして受け入れるしかなかったのだ。
しかし、戦死を告げられた母親の元に、相次いで元気な便りが届けられた例も少なくは無い。
異国の地での、正確な情報の掌握は至難とも言えただろう。
『それはそうだけどさあ・・。お役所を疑うわけには・・』
『おばちゃん、もう少し、時間をください。ねっ、事実確認が出来るまで、いいでしょ?』
『・・・。』
ざわついていた玄関先も、少しずつ静寂を取り戻していった。
『春ちゃん・・、あんた気をつけるんだよ、他所では、めったなこと言わないようにね!』
そう忠告して、多江子が去っていった。
『春ちゃんありがとう・・。助かった』
『いいの、お葬式なんてまだよ、縁起でもない・・』
春代の言った。”縁起でもない”は、果たして何を意味したのか?。
それは、夕べの酒宴の場で、節が取り出した、”死亡告知書”に、ある疑いが掛かったことから始まった。
『いつ見ても、忌々しいわね・・』
やたら大きい和紙に印刷された文字と、手書きで記された詳細が、その事実を告げていた。
『右は、昭和十九年三月十二日時刻不明、東南亜細亜ガダルカナル島に於いて戦死せられましたから御通知致します・・。だって・・、紙切れ一枚でお終いなのね・・』
節が寂しそうに告知書を読み上げた。
『南方戦線ね・・、次郎もそうだわ』
『暑かったろうね・・、篤』
『・・?、節さん!、ガダルカナルって言った?、その場所・・』
『そう書いてあるわ、ほら』
差出された死亡告知書の文字を、春代が指でなぞった。
『十九年三月・・・。えっ、どうして・・?』
『どうしたの春ちゃん、何かおかしい?』
『だって、政さんが戻って来たのもガダルカナルからよ・・。しかも去年の二月だったわ、十八年・・よね』
『やだあ、どうして政男さんの話がでるの?、もしかして春ちゃん・・』
『ううん、そんなんじゃないの、変なの。政さん負傷して還って来た時にね、言ってたの。ガダルカナルは全滅だって、撤退の準備してるって、悔しいって・・』
『だから・・?、何・・』
『去年死んだのなら判るのよ。だって全滅だもの・・。ねえ、篤くんいつ頃だった?、戦地に行ったの』
『確か・・、去年の十一月だったかしら・・』
『ガダルカナルへ?』
『そこまでは聞いてないわよ、南方ってだけよ・・』
春代の投げ掛けた疑問は、確かに的を得ていた。ガダルカナルの日本軍撤退は昭和十八年二月にほぼ決着していたのだ。確かに遺された兵はまだ大勢いたにしろ、その情報は闇へと葬られた。
捕虜になるくらいなら、”自決”。それが日本男子の覚悟でもあった。
つまり、十九年の三月には、ガダルカナル島に戦える日本兵は居なかった。例え戦死が事実であったとしても、伝える手段など物理的にあり得ないと言うことだ。
日本兵玉砕に至っては、個々の死亡の確認など及ばず。全滅との判断が事務的に処理されたに違いない。
『節さん・・、誤報だと思う。この告知書、間違いだわ!』
『春ちゃん・・、いいの。わたし、覚悟決めたんだから・・。今更、間違いだと聞かされても、如何しようもないの!』
この場に篤の声が届いたのなら、納得も出来よう。しかし、素人判断の疑惑だけで、気持ちの置き替えが出来るものだろうか。いいや、それは逆に、混乱を招いてしまうようなものだ。
『春ちゃん・・、そっとしておいて・・もらえない・・』
『・・・、節さん・・・。わたし、間違っていないと思う。だって、おかしいもの。この告知書、不自然だもの』
『やめて・・、もういいの・・。やめて・・、ね・・』
懇願するように節が、頭を垂れた。震える指先で春代の袖口を引いていた。
覚悟を決められた。息子の将来をやっと諦めた矢先の、残酷とも思える希望のひと雫が、じんわりと節の胸を締め付けていた。
『節さん・・。篤くんを、あきらめないで・・。あなたの唯一の子供なのよ』
『だって・・、死んだのよ・・。そう書いてあるのよ、ここに・・』
『誤報を信じましょ。辛いけど、篤くんの生存を信じましょうよ・・』
『篤は・・!、死んだのよ!!』
耐えきれず、節が咽るように叫んだ。ついさっきまで平静を装っていた母親に、やはり衝撃過ぎる困惑が覆いかぶさった。
“パチッッ!”、節の頬に電撃が走った。右の掌を見つめたまま、春代の唇が震えていた。
『・・・。節さん・・、何言ってんのよ。簡単に子供を・・、死なせるもんじゃないでしょ・・。あなた・・、それでも母親なの・・?』
『・・・・』
『無事を祈りましょ・・。篤くん・・、還ってくるわ・・』
春代の膝に顔を押し当てて、節が声を殺して泣いた。自由の効かない心を、しばらくは春代に預けていた。
ようやく泣きつかれた母親は、茫然と仰向けに身を構えた。
『ねえ、春ちゃん・・。篤が戻ったら、ここに来て・・、ご飯、甘えていいかな・・?』
『いいわよ、歓迎するわ・・』
白々と朝を迎える頃には、母親たちは、寄り添って寝息を奏でていた。
近づく秋の気配が、朝方に心地よい風を連れて来ていた。
『節さん、起きて。もう朝よ』
『う、うん・・?』
七輪にかかった、鍋蓋の跳ねる音が朝食の準備を進めていた。
『ああ・・、もうこんな時間・・』
『節さん、ご飯食べて帰って。もうすぐ出来上がるわ』
『・・・。ごめんね・・、あたし・・』
『さあ、今日も暑くなるわ。それに、町内会の長老たちが押し寄せるわよ。覚悟いいかしら?。節さん』
『えっ?・・、』
『篤くんの葬儀の心配よ、婦人会のお節介役は放っておかないわ・・』
『ああ・・、そうだった』
『いいのよ、わたしも行くから』
『春ちゃん、もう、いいのよ。これ以上あなたに迷惑掛けられないわ・・』
『迷惑だなんて、思ってはいないわ。大丈夫よ。それより・・、篤くんのこと諦めないでね。その覚悟・・、あるの?』
『うん・・、あなたの言葉が伝わったみたい。待つわ、篤のこと。いつまでも待つって決めた・・』
『そう・・。ありがとう』
『春ちゃんにお礼言ってもらっちゃあ、わたしが台無しじゃない!。そんなの駄目、ずるいわ・・』
『いやみじゃないのよ・・』
『判ってる・・。ありがとう春ちゃん』
『さあ、お味噌汁だけでも、どうぞ』
『はい、いただきます』
朝の眩しい太陽が、今日一日の無事を、真っ直ぐに包み込んでくれていた。
こんがりと灼けた大地には、人々の営みの足跡が、確かに残されていた。