第6話 春代と節
一人息子の“戦死”の知らせが、残された節の希望を儚くも砕いていったのだ。
戦死とは、国に奉公した証。“誇りこそあれども、涙そこに流れず”決して悲しんではならないのだ。“悲しむべきは粗末な我が身のいたらんところ”。身勝手な国の指標に囲まれて、個人感情は、慎むことを礼とされた。
お国のために立派に散って逝った。名誉の戦死だと尊び喜ばれた。葬儀に参列した者からは次々に、“お国の誉”との激励が寄せられた。
淡々と死を肯定する準備は、暇なく方々へと啓蒙されていった。
それにしても、春代の淡々とした、無神経とも思える節への対応は、如何なものだろう。
遠慮のない仲であったとしても、ここまで露骨でいいはずがない。
『ねえ節さん、わたしの為にも・・、来てくれない?。お願い・・』
『春ちゃん?、何か・・』
『いいの、今はいいの!。帰ってからちゃんと話すから・・。節さん、駄目かしら・・?』
『・・、お願いします。甘えます』
春代の思いがけない嘆願に、節は快諾した。春代の口にした、“わたしの為にも”との真意が、今は汲み取れていなかった。
多江子の家を出てしばらくは、会話を控えていたのか、節の前を歩いていた春代は鼻歌に興じていた。
相変わらず賑わう蝉しぐれに、たまらず節が声を上げた。
『蝉の一生って・・、儚いのねえ・・』
節の溜息交りのその言葉に、春代が立ち止まった。そして振り返りざまに口を開いた。
『わたしたちの一生も、似たようなものかしらね・・』
まるで吐き捨てるように、春代が言った。そして節の横に並んだ。
『ごめんね、つい、出ちゃった・・。辛抱が足りないのよ、わたし』
『春ちゃんも、辛いよね・・』
『そう、皆な辛いのよ。情けないくらい、辛いの!。いやんなっちゃう』
そう言い放った春代は、節の右肩に手をやり、その身体を引き寄せた。
『負けないわよ、わたし!。踏ん張ってやるんだから。だから、弱音は今日限りよ!』
『春ちゃん・・』
『さあ行くわよ、節さん。お肉が待ってる』
“ぽん”と、節の背中をはたいて、春代は威勢よく歩き始めた。手に提げた梅酒の瓶が、地面すれすれで揺れていた。
『ただいま!、四郎、早苗、いるの?』
『おかえり、おかあさん!。早苗、ちゃんとおるす番できたよ』
『そう、お母さん嬉しいわ。ありがとうね早苗』
『えへへ・・』
『ところで、お兄ちゃんはどうしたの?』
『欽ちゃんのおじちゃんと、おでかけだって・・。早苗も行きたかったのに・・』
『まあ、四郎も勝手ねえ・・。それで、何処に行くって言ってたの?』
『おおきなお魚もってかえるって、いってたよお』
『お魚?・・、釣りかしら』
釣りと言っても、近場には川しかない。そこで大物が釣れたなんて逸話も遠い昔だ。
『早苗ちゃん、こんにちは』
春代の背後から身を乗り出した節が、明るく早苗に声を掛けた。
『こんにちは・・。どうしたの、おばちゃん?』
『どうしたのって、おばちゃん来ちゃいけなかった?』
『ううん、おばちゃんの顔、なき虫になってるよ、どうしたの?』
『えっ・・・』
どんなに明るく振る舞っても、取り作って見せても、子供の感性は誤魔化せなかった。息子を奪われた悲しみを、見逃してはくれなかった。
『そう・・、判っちゃったかあ、早苗ちゃんには・・』
『早苗、おばちゃんと今晩、一緒にご飯食べるのよ、楽しいわねえ』
『そうなの?、おばちゃん。やったあ!』
『歓迎してくれてありがとう。おばちゃん泣き虫だから、慰めてちょうだいね、お願い早苗ちゃん』
『いいよ!、早苗もなき虫だけど、おばちゃんのこと、“よしよし”してあげる!』
『そう、ありがたいわあ』
泣き虫の節が、少し笑った。早苗の余りの無邪気さに、癒されたようだ。
『さあ、支度しなきゃね。節さんも手伝ってね、何たってご馳走よ!』
『はい、はい。任せて、何でも言ってよね春ちゃん』
台所は女の戦場だ。二人の絶妙な掛けあいが、幸せの闘いを醸し出していた。
『おーい!、居るのかい?、春さんよ!』
『辰三さん?、待ってたわよ!、釣れたの?』
『よいしょォ!』
玄関先でどうやら大きな荷物を置いた様子だ。欽ちゃんの親父の辰三が、自慢げに入って来た。
『春さん、これ!』
辰三の差出した袋を、怪訝そうに見つめる春代と節。
『おやあ?、亀山の節っちゃんじゃないか、どうした?』
『へへ・・、今晩お邪魔しようと思ってね、来ちゃった』
『丁度いいやあ、ほれ、これ、岩ガキさ。たんまりあるぜ!』
『岩ガキ?・・、何処で獲ったの?』
『浦安まで走ったよ、けどね、魚が上がんねえんだよ、仕方なくさ子供らを泳がしたんだ、そしたらどうだい、岩にへばりついた大きなカキがよ、獲ってくださいとばかりに待っててくれたんだよ!』
『そうなの・・。で、子供たちはまだなの?』
『ご近所廻りさ、欽も四郎も岩ガキ持って、ご機嫌伺ってるぜ。日ごろの迷惑の埋め合わせってね』
『なんだ、そうなの。で、辰三さんは、うちへの埋め合わせって訳ね』
『おっとォ・・、春さん、それは言わない約束だろう・・』
『約束なんてしてないわ、京子さんに訊いてみようかしら・・』
『それは勘弁だよお!、うちの奴は抜きにしてくれよ、なあ、ほら、カキ全部喰っていいからさ』
『冗談よ、辰三さん。お世話になってるのは、うちの四郎の方なんだから。それより、京子さん、風邪治ったの?、長引いてるみたいだけど』
『ああ・・、今年の風邪はしつこいみたいだよ。春ちゃんも気を付けるんだよ!』
『わたしは大丈夫よ。それより早く帰ってあげてね。わたしに構ってる暇があったら、京子さんの傍にいてあげてよ。我が家の埋め合わせが一番でしょ?』
『あ痛いてて・・、それは承知の助だって・・。くれぐれも穏便に頼んだよ、春さん』
『いいわよ、政さんにも穏便にって伝えておくわ』
『それが余計なんだよ!、政のことは内緒だって・・、ホント』
政男と辰三も、旧知の仲であった。悪さにかけては始末の負えないほど散々であった。
その仲介に、春代の亭主の一郎が、いつも身を置いたものだ。
『俺帰るから、四郎によろしくな!、あいつが頑張ってくれたお陰で、大漁さ。沢山食べさせてやってくれよ』
冷や汗の辰三が、そそくさと出て行った。政男と言い、辰三と言い、まったく、やんちゃな性質は変わってはいない。
残念なのは、ここには一郎が居ないこと。もし、一郎が同席したのなら何と言い訳したであろうか、弁明の言は正当であったのか?。いささか想像に暇ない。
『春ちゃん・・、かけがえのない、いい関係ね』
『あの人の置き土産だわ・・。退屈しないのはありがたいけど、あの二人見てると、つい、色々と考えちゃうのよ・・。いけない!、弱音は今日限りって約束したから、節さん、見逃してね!』
『いいのよ、存分に吐いてよ、わたしだってその方が楽ってもんよ・・』
『格好つけちゃったね・・、やっぱり辛抱、足りないなあ』
辛抱が足りない。そう思えることが、辛抱を貫いている証しなのだろう。
“ドンッ!、バタッ!”。突然、激しい物音が乱れ込んだ。
『帰ったーっ!、もーう持てないーっ!』
『四郎?、おかえり!』
『お母さん!、見て、見て!。ねえ、見てよ!』
玄関に座り込んだ四郎が、両手に大きな包みを持ち上げて、上機嫌に笑っていた。
『まあ、どうしたの?、大きなお土産ね』
『へへへ・・。何だか判る、お母さん』
四郎が得意げに荷物を開いて、春代に見せつけた。
『まあ、どうしたの?、こんなに。岩ガキが沢山!。節さん、早苗、見て、見て!』
『わあ、すごい数ね!。四郎ちゃんが全部獲ったの?』
『もっといっぱいあったんだけどさ!、近所に分けないといけないからって、欽ちゃんのおじちゃんがさ。そんで、配って来たんだ、この倍はあったんだよ!。お母さん!』
『すごいわねえ、四郎のお陰で、今晩もご馳走ね!。なんて幸せなんでしょう』
『お兄ちゃんやったね!、ごちそうだね』
食べ切れないほどの食材が、皆の目の前で勝ち誇ったように並んでいる様は、実に圧巻であった。
『四郎!、疲れたでしょう、お風呂入っておいで。早苗もお願いね』
『うん、わかった!。早苗、おれと入るぞ、いいな!』
『えーっ、お兄ちゃんとお?。乱暴にしちゃ、やだからね・・』
『誰が乱暴だよ!、お母さん、早苗、またわがまま言ってるよ!』
『いいから、二人とも早く支度して。お母さんたち、ご馳走、先に食べちゃおうかな?』
『やだよ!、待ってて!。早く、早苗!』
食べ物の効果は有無を言わせず、子供たちを従わせた。
『仲が良いのね、二人・・』
『ああ見えて、結構大変なの。今日は節さんが居るから、特別なのよ。それよりこのカキ、焼こうかしら、それともこのまま食べようかな・・?』
『幾つかはそのまま生で食べましょうよ、後は焼いてから、ああ、残ったら酢で〆て、明日に残しましょう』
節が、機転の効いた調理法を指示した。
『うん、そうね。そうすれば明日も食べられる。ありがとう節さん。さすがお料理上手ね!』
『随分と工夫したのよ。篤なんて、好き嫌いが多くてね・・』
『そうそう、うちの次郎も大根が嫌だって。贅沢にも程があるわよ。ねえ、節さん』
『・・・・』
一瞬、節の反応が沈黙した。それを察した春代が謹んで声を掛けた。。
『お気の毒です・・。篤くん、よく頑張ったね・・』
『・・・、うん・・。・・うん・・』
それから少しの間、黙々と調理する二人に、言葉は必要なかった。同じ根を持つ母親同士、沈痛の思いを腹に仕舞い込んだ。
『ねえ、お母さん、おばちゃんと一緒にご飯食べるの?』
お風呂上がりの真っ赤な顔の四郎が、得意そうに訊いた。
『やだあ・・、四郎。下着無いの?、お行儀悪いわねえ』
『やっほう!、早苗もはだかだよ!』
続いてお嬢様のお出ましだ。あっけらかんと両手を拡げての大サービス。
『もーう、二人とも何してるの、おばちゃんに失礼でしょ?』
『いいの、いいのよ、お構いなく。なんだかおばちゃん、楽しくなっちゃった』
どこの家でもお馴染の光景。けれど、お調子ものの兄妹がつい、節の笑いを誘った。子供たちの茶目っ気は、充分過ぎるほどの演出であった。
『ごめんね節さん、いつもなの』
『・・、ありがとう。良い子たちね、羨ましいわ・・』
『さあ、二人とも上を着なさい。ご飯にするわよ』
『はーい』
四郎の手柄の岩ガキと、夕べの鶏肉が膳に並んだ。どれも贅沢の極みを見せていた。
『四郎ちゃん、いくつになったっけ』
『うん、9歳だよ!。どうして?』
『どうもしやしないけど・・、大きくなったわねえ!。ついこの前は、こんなに小さかったのよ』
節が左手を胸の当たりまで上げて、懐かしそうに四郎を見た。
『おばちゃん、早苗7さいになるんだよ!。えっと・・、らいねんは、2ねんせいだよ!』
『あら、もうそんなになるの?。ついこの前は、お母さんのお腹の中にいたのにねえ』
『節さん、極端よお。去年、集会所で会ったじゃないの』
『そうだったかしら、いやねえ!。わたし・・』
『おばちゃん、変なの・・』
『ごめんねえ。呆けちゃって。もう、おばあちゃんかしらね?』
『やだあ、節さん。そんなん事言わないでよ、わたしだってその部類なのよ!、もう・・』
賑やかに過ごす晩餐。かけがえのない家族。幸せの瞬間。疑いの無い事実。
今は確実にそう言える。明日もそう願う。そこに嘘などありはしないのだ。