第5話 息子の戦死
昭和十六年十二月八日、午前二時四十分。休日のハワイオアフ島真珠湾、奇襲攻撃せり。
(ハワイ時間、12月7日、午前7時10分)
攻撃開始に用いられた、“ニイタカヤマノボレ一二〇八”の合図は、後の我が国の末路など知る由もなかった。
日の丸戦闘機が、米軍の太平洋艦隊と基地を相次いで爆破。ついに我が国は、第二次世界大戦の泥沼へとはまった。
その時、米海軍航空隊は『真珠湾は攻撃された、これは演習ではない』と、警報を発した。
当初、日本軍が攻勢であった戦局も、次第に色褪せ始めていく。
翌、十七年六月五日。ミッドウェー海戦を転機として、日本軍にとって次第に不利な情勢となっていった。
同、八月七日。米軍はガダルカナル島を空襲。八月二十日、九月十二日には、上陸反撃し、逆にその攻勢を強めてきた。
翌、十八年五月十九日、広島の宇品港より、南方戦線東部のニューギニアへと、多数の兵が出征した。
南方戦線の過激化は、日本軍兵士の数を減少させていった。飢えと疲労で倒れゆく多くの若者は、祖国の地を二度と踏むことは無かった。
最愛の家族の待つ、玄関に届けられたものは、“戦死”を告げられた紙切れ一枚だけ。
悲しみと言う、“概念”は、そこには無い。あるのは唯一つ、曝け出した“無念”だけだったろう。
いったい誰の責任だと、叫べばいいのだろうか?。
お国のためと胸を張れば、気が済むのだろうか?。心癒えるのだろうか?。
押し殺した涙と、嗚咽にまみれた日々を、誰が掬ってくれるというのだ。
全く人間の仕業とは思えない、この、“戦争”とやらは・・。いったい何を欲しがり、何処に辿り着こうとしているのだろうか。
一夜明けた、平穏を装う暑い日差しに、悲しみの序曲は、容赦なく滑り出した。
この頃になると、赤紙は徐々に底を突き始めていた。届くべきものがあるとすれば、それは、“無念”の、便りを待つしか無いように思えた。
『春ちゃん!、ねえ、聞いた。タバコ屋の節っちゃんとこ・・』
いつもお節介で名の通った町内会婦人の多江子が、汗ばんだ面持ちで駆け込んできた。
『多江おばちゃん、どうしたの?』
多江子の直撃談は特に珍しくもなかった。些細な出来事であったとしても、電撃が彼女の恒例でもあった。
『・・・。篤くんが・・、戦死したって、今朝、届いたのよ・・』
『篤くんが・・、ほんと、おばちゃん?』
『ええ、たった今・・、節っちゃんから聞いたの。落ち着いた言葉でね、最初、冗談かと思ったんだけどさ・・、節っちゃん、うちの土間で急に座り込んで、それきり立てないで居るのよ。告知書をまるっきり離さないの』
手放せない手紙。他人には披露出来ない音信。困惑と絶望が押し寄せたのならば、どうして平常が保てるのだろう。
狂ってしまいたい。動転に甘えたい。直立などと言う綺麗事はいらない。
ただ還って来れない息子の怠慢に、母親は言葉を慎むだけなのだ。
そして、“御苦労さま”をただ繰り返しながら、心休まるまで泣き伏せるのだろう。
『わたし、節さんに会ってみる。おばちゃんいい?』
『あたしはいいけど・・、春ちゃんいいのかい?』
『うん、わたしは平気よ。かまわない』
『春ちゃん、あんた強いね・・、立派だよ!』
『おばちゃんには敵わないわよ、武くん・・、立派だったわ』
多江子の次男、武の訃報の知らせを受けたのは、丁度、一年前の蒸し暑い今頃であった。
長男も早くに徴兵され、異国の地で亡くしていた。
次男の武の形見の品は、多江子の縫いつけた、“たけし”の、文字の入った手拭だけだった。
『そうね・・。我が子ながら褒めてあげたいくらいよ!。お国のために頑張ったもの、うちのお父ちゃんも見習って欲しいくらいよ!、ホント』
『何言ってんの、おじちゃんだって立派じゃない。ご近所のお役に立ってるって、結構評判よ』
『ああ、あれね。たかが暇つぶしの大工仕事よ、世間様に自慢できるも代物じゃないよ!』
『おばちゃん・・、感謝しなくちゃね。おじちゃんに・・』
『やれやれ、春ちゃんにはいつも素直にさせられるわ。まるでお姉さんみたいだよ、あんた』
『ところで、節さん大丈夫なの?』
『うちのが付いてるから心配ないと思うけどさ。ねえ、春ちゃん見て来てくれるかい?』
『もちろんよ。だって、他人事じゃないでしょ?、うちの次郎だって、もし・・』
『春ちゃん!、あんた何言ってんの!。縁起でもないこと言わないで。次郎ちゃんはね、必ず還って来るんだよ!。この家に戻って来なきゃいけないんだよ!』
息子を失うことの絶望は、既に経験させてもらった。だからもう、誰にも悲しんでもらいたくはない。
多江子の強さが、今更、際立って見えた。
『そうよね・・。ごめん、おばちゃん、余計な心配させちゃったね。元気に戻って来る次郎を、楽しみに待ってるわ、わたし!』
『そうだよ、次郎ちゃん男前だから、そのうち彼女の心配でもしなきゃね!。はっは!』
『駄目ダメ。あの子色気ないから・・、それに、うちの人に似て素直じゃないのよ、変なとこだけ、もらっちゃってさあ・・』
『大丈夫よ、春ちゃんみたいなモノ好きがさ、この世から消えない限り、次郎ちゃんも安泰ってわけだね!』
『やっだあ、おばちゃん!。変に勘ぐらないでよお・・』
『あっはっは!。参ったねこりゃ』
笑い飛ばしてしまえ。少なくとも今は、悲しみに負けないくらい、とことん笑ってしまえ。
泣くことは容易いのだ。そこには努力なんて微塵もいらないのだから。
『あのね・・、おばちゃんさ・・。』
『どうしたの?、えらく遠慮気味だねえ。いつもの春ちゃんらしくないけど、何かあったのかい?』
『・・。親にね・・、母親になんて、どうしてなったんだろうって、考えたの・・。だって・・、ほんと、辛いんだもん』
『・・。おや、いけないねえ。母親放棄かい?』
『そんなんじゃないの。可愛いのよ。だって、子供って生き甲斐だもの!』
『春ちゃん・・、余計な事は考えないの。あたしら母親はね、何があっても、“お母さん”なんだよ。しっかりと生き甲斐を身籠った。最高の、“母親”なんだよ!。それ以外に道はないよ。子供たちを放って生きるなんて、畜生だけさ!』
多江子の懸命の擁護の言葉は、全ての母親の苦悩を代弁しているかのように聴こえた。
『だから辛いの・・。ねえ、おばちゃん。何で大切な子を奪われなきゃいけないの・・。わたしは反対・・。だって・・。次郎は、道具なんかじゃないんだもの!』
例えば銃弾が少なくなれば、工場で製造が許される。戦闘車輛が破壊されれば、代替えの車輛も準備される。
では、失ったかけがえのない我が子は?。一体、どう埋め合わせてくれるのだろうか。
それを知りながらも彼女たちは、何も言えないでいる。
『解ってるよ・・、春ちゃん。学のない、こんなあたしだけどさ、母親の苦労だけは随分とさせられたからねえ・・』
『あっ、ごめん・・。おばちゃんに言ったんじゃないの。つい、収まりがつかなくて・・。気を悪くしないでね・・』
『いいんだよ・・。でも、辛いもんだよねェ。なんだって我が子を死にに行かせる親なんて、いやしないよ・・。誰が好き好んで、“万歳”って声を張れるもんかい・・。いっそ、“バカヤロ”って叫びたくもなるさ・・。はは・・、バカヤロじゃ足りないね、何て言えばいいんだろうねェ・・』
多江子の呟いた言葉の重みを、春代は全身で受け止めていた。
その一瞬、四郎と早苗の顔が、春代の目の前をよぎった。
母親の役目は終わってなんかいない。辛いなんて言葉は、ただ甘えてるだけだった。
『思うんだよねェ、あたしさ・・。死んだあの子たちにね、母親にさせてもらったって・・。こんなろくもでもない女でも、立派に母親ができたんだって。つくずくさ、そう思ったのよ・・。やだよ・・、湿っぽくなっちゃったねえ、ごめんね・・』
『・・・。おばちゃん・・』
多江子の腕をとり、春代が声を殺してうつ伏せた。滴り落ちる涙で多江子の割烹着は、またたく間に斑点模様に沁み入った。
『辛いねェ・・。ほんと、嫌なことばかりだよ』
そうして春代の肩をしばらくは抱き抱えていた。そして多江子が息を整えて、そっと春代の耳元で囁いた。
『春ちゃん・・、次郎くん、本当は彼女いるんでしょ?』
『ええっ?、どうして・・?。おばちゃん』
多江子の言葉に、一瞬、守山久美子の存在が、春代の脳裏をかすめた。すでに、白浜には越して行ったはずだろう。
『だってさ、彼女いたんじゃ、還ってこなきゃ始まんないでしょ?』
『・・・・』
『あれえ?、始まっちまったよ、母親の嫉妬がさァ。どこの母親も、バカだねえまったくさあ』
『なに言ってんのよお!・・、次郎にそんな女性いるわけないでしょ』
『おやおや、母親ぶっちゃって。何にもわかっちゃいないんだからねえ、肝心の息子のことなんてねェ!』
『いいわよ!、次郎帰って来たら訊いてみるから、それからにしましょ』
『春ちゃん、止した方がいいよ。結構辛いもんだよ・・』
『やだあ、おばちゃん。けし掛けないでよ。心配しちゃうでしょ!』
『心配出来るうちが、花だよねえ・・。そうだろ?、春ちゃん!』
『・・・。うん・・』
久美子から預かっている大切な手紙とお守りは、必ず次郎の手に渡ると信じたい。
母親の領域は、やはり、“母”のみぞ知る。多江子の慈しみが、春代の行き場のない葛藤を掻き消していくようだった。
『ありがとう、あばちゃん。ほんと、ありがとう・・』
『意地悪言ってごめんよ。気にしないでちょうだいな』
『あっ!、節さんのこと!、おじちゃん大丈夫かしら』
『行ってやってよ。あんたの方が、よっぽど節ちゃんには効くからね・・』
『うん、大丈夫よ!』
そう言って、胸の前で神妙に手を合わせた。春代の口元に宿ったのは、生きると言う希望だったに違いない。
『節さん?。どうしたの・・、大丈夫なの?』
『ああ、春ちゃん・・。どうしたもこうしたもないや、こんな有り様だもんな。おい、節ちゃんよ、春ちゃんが来てくれたぜ!』
『・・・・』
『おじちゃん、お水もらっていいかしら』
『ああ・・、すぐ持って来るから・・』
コップ一杯の水が春代の手に渡った。節に呑ませて、少しでも落ち着きを取り戻したいのだろう。
『節さん、お水飲める?』
『・・・・』
放心状態の節は、まるで春代の問いかけに反応してくれない。
『そう・・』
そう言うと春代は、自分の口にコップの水を含んだ。そして次の瞬間だった。
“ぷうっっ!”、節の顔面めがけて思いっ切り水を噴いたのだ。
『ひゃっ!!』
節が、思わず声をあげて春代の顔を見上げた。
『春ちゃんっ!なっ、何て事を・・!』
『いいの、おじちゃん。これで正気に戻ったのよ。ねえ、節さん?』
『うっ、うっ・・、うわぁぁぁーーっっ!』
春代の胸にしがみついた節は、狂ったように泣き始めた。息子の戦死を告げる紙切れが、堪らず、はらりと節の手から離れた。
『情けないよね・・。あたしたち、泣くことしか許されないものね・・』
脇からその様子を見ていた多江子が、あきれ果てたように両腕を組んで吐き捨てた言葉だった。誰もそれに、反論など出来ようものか。
『節さん、今日はうちにいらっしゃい。皆でご飯たべましょ。ねっ、そうして』
『・・、春ちゃん・・。ごめんね・・、ごめんね・・』
それ以上は声にならなかった。しばらくは春代の胸で、節は悲しみを過ごしていた。
『おばちゃん、おじちゃん、ありがとう。節さんもらって行くね』
『春ちゃん、御苦労さま。俺の手には余ってねえ・・、こんな時、男は情けねえなあ・・。何にも出来やしねえもんなあ・・』
『はなっから、あんたに期待なんてしていないわよ。でも・・、お父ちゃんありがとね、助かったよ』
多江子夫婦の無償の優しさが、節をここに通わせたのだろう。ご近所のよしみだけで他人に介入することは、生易しいことではない。
春代にしても、救いの場を求めているのだろう。表情にこそ出しはしないが、心を置ける場所をいつも探しているのだ。
『おばちゃん・・、梅酒、少しもらっていいかなあ・・』
『おや、珍しいねえ・・。まあ、余程のことだもんね・・。けどさ春ちゃん、ほどほどにね。逆効果ってこともあるからね』
『その時はおばちゃん呼ぶから、お願いね!』
『いいわよ、いつでも呼んでおくれ。こんなあたしで良ければさ!』
春代の住処で、今夜は酒盛りらしい。傷心甚だしい節の平常心は如何なものか?。多江子の言った、“逆効果”の意味が、今晩の演出をおぼろげに予感させていた。
『さあ立って、節さん歩けるでしょ?。わたしの肩につかまってて』
『ええ・・、大丈夫・・。一人で行けるわ。ありがとう・・、春ちゃん』
心なしか気丈さを取り戻した節が、春代の差出した手を収めて、ようやく立ち上がった。
『節っちゃん、やけになっちゃ駄目だよ!。いいね!』
多江子の言葉に少しだけ頷いてから、節は顔を覆うように両手を当てた。そして遠慮気味に、深く息を吸い込んだ。
『食べたい物ある?。節さん』
『ううん・・』
『じゃあ、美味しい鶏肉食べましょうよ。夕べたくさんいただいたの、今夜は贅沢三昧!。いいでしょ!』
『・・・。贅沢・・?』
『なんだ、駄目なの・・?』
『・・。春ちゃんて・・、意外に呑気なのね・・』
つい漏らした弱々しい節の本音。その言葉に悪気の無いことは承知の上で、春代が切り返した。
『あら、神経質で弱虫の方が良かったかしら?。それじゃあ、わたしじゃ不都合かな?、ねえ?、節さん』
『ううん!・・、そんなつもりじゃ・・』
『節さん、観念してうちにおいでよ。家に帰ったって、寂しいばかりでしょ?』
『・・・・』
そう、節の家庭に亭主など居ない。子供も待っていてはくれない。幸せの種は今朝、芽吹くことを諦めたのだから。