第4話 政男の困惑
台所に向かった政男が、春代に声をかけた。
『横になってていいんだぜ、後は俺に任せなって。四郎たちが帰ってきたら大忙しなんだから、それまでゆっくりしときなって』
『甘えていいのかしら・・』
そう言って、束の間の休息に入った春代は、途端に寝息をついていた。
『ったく、いつ終わるんだいこの戦争はよ・・』
包丁を手に、政男が深く溜息を漏らした。そして春代の小さな背中を眺めながら、亡き妻を、一郎をつい慕ってしまうのだ。
昼間の蝉しぐれが、夏の喧騒を席巻している。朝から夕まで、何を唱えているのだろう。実に辛抱強く、それはけたたましく響き渡っていた。
台所から、鶏の皮の香ばしい臭いと、ご飯の炊ける甘い臭いが玄関先へと漂っていた。
『うーん、・・?』
春代が半身を起し、ぼんやりと台所を振り返って言った。
『寝てたのね、わたし・・』
『起きたかい。しかし、気持ち良さそうに寝てたなあ』
『やだあ、観てたの?。政さん』
『そりゃ見るだろう。可愛い女性がそばで寝入ってるんだもんよ』
『やだあ・・、変なこと言わないの・・。もうおばさんよ、わたしも』
『何言ってる、まだまだ大丈夫だよ。その辺の“ばばあ”とは比べもんにならないぜ。まあ、元より造りが違うけどよ』
『あら、褒めてくれているの?。珍しいじゃない、お世辞でも嬉しいわ』
『お世辞なんて言わねえぜ、俺は。ありのまんまさ』
『いい香りね・・、ご飯も炊いてくれたの?。・・・、白米の臭いだわ!』
『へへ・・。混ぜ物なしの白米さ、贅沢だろ。これも俺の仁徳ってやつさ』
『訊かない方がいいみたいね、ああ恐ろしい・・』
政男の昔を知る春代にとって、彼の行動は察知出来ていた。悪気はないのだが、その危ない風貌が、まさしく“仁徳”なのだろう。自然と皆の配慮に甘えることが出来た。
『昔の俺とは違うぜえ、勘違いすんなよな!』
『はいはい、どうもお世話様です』
『なんだよ春さん・・、そんな言い方ないだろう?』
『ごめんなさい!。悪気はないのよ、許して!』
政男の不意の在宅は、つい春代のはしゃぎ声を呼んだ。なんとも羨ましい光景だ。
『帰ったあ!!。早苗ただいまだよ!』
おや、愛娘のご帰還だ。元気一杯の、“ただいま”が、二人を微笑ませた。
『早苗、お帰り。おっちゃん邪魔してるぜ!』
『政おじちゃん?、どうしたの?』
『忘れたの早苗。お肉持って来てくれるって言ってたでしょ?、昨日』
『あっ、そうだ!。イノシシ、イノシシ!』
『あのな・・。悪いなあ、早苗。イノシシ逃げたんだ、残念だけどよ』
『ええ!、逃げちゃったの?。じゃあ、お肉わあ、早苗のお肉わあ?』
『あるわよ。イノシシよりも美味しいお肉。ちゃんとおじちゃん持って来てくれたわよ。お礼言わないとね』
その時だ、玄関先でドタバタと激しく物音がした。
『いい臭いだ!。お母さん、肉は!、お腹へったよ!』
続いて四郎が叫び始めた。この子は、“ただいま”より食欲が優先のようだ。
『心配すんな!、四郎。いくらでもあるぜ!、ほら』
政男が両手で、四郎の目の前に鶏の肉を差出した。こんがりと焼きあがった皮目がとびっきりの食卓を約束した。
『すごいやあ!、お母さんご飯まだ、ねえ!、まだなの?』
『はいはい、二人とも手を洗ってからね。いい?』
『はーい』
『何してんの、政さんも手を洗ってよ!』
『ああ、そうだよな・・。そうそう』
食卓の賑わいは、この国の繁栄を約束する。では、家庭の繁栄を、国は支えてくれているのだろうか?。
小競り合いで済ませて置けばいいものを、つい、目先の欲に手を染めてしまった。
縄張り争いの挙げ句、侵略と言う汚名さえ、美化してしまうのだ。
東洋の長と都合いいように名乗り、近隣諸国の懐から財産をくすねている。
その国の文化を根こそぎ剥ぎ取り、覚えのない日の丸を掲揚させる。狂った挙句の正義を、国家繁栄の論理に摩り替えてしまったのだ。
時折、目に入る“進撃”の活字を信じ込み、我が国の正義を誇らしく思ったに違いない。痛ましくもあるが、どうして健気な民を非難など出来ようものか。
『これ喰っていいの!、ねえ、いくつまで!』
『四郎!、いただきますはどうしたの?』
『おれ、言ったよ?。さっき言ったって!』
『ちゃんとお座りなさい!。四郎一人のご飯じゃないのよ。皆でいただける大切なご飯なの。当たり前だと思わないで、皆一緒に、“いただきます”でしょ?』
『うん・・、わかった』
『政おじさんありがとうって。“いただきます”しましょ』
『おじちゃん、ありがとお!。いっただっきまーす』
早苗の無邪気な掛け声に、全員で感謝の食卓に手を合わせた。今日も無事にこうして、家族の団欒が迎えられる。ましてや父親役の政男が、大きな声でこの家を守ってくれている。
辛いなんて言えない。愚痴なんてこぼしてはいけない。春代にのしかかっていた重荷が、少しだけ降ろせたような気がした。
『四郎!、お前もうちょっと行儀よく喰えねえのか!、情っけねえなあ!』
『四郎ちゃん、こうやって食べるのよ。ほら、早苗のほうがじょうず!』
『おじちゃんこそ、行儀わるいじゃあないか!。さっきから、ぽろぽろこぼしてさ』
『なに言ってんだ!、肉ってのはなあ、かぶり付くんだよ、いいかあ!』
鶏のもも肉を顔の前に置き、大きな口を更に大きく開けて、政男が食らいついた。
口元から垂れる肉汁が、遠慮なく畳の上にこぼれ散った。
『どうだあ!、これが肉の喰い方だぜえ!』
『だめじゃないかあ!、おじちゃん汚してるだろ、お母さんに叱られるよ!』
『ほんと、お行儀の悪いこと。ねえ四郎、真似しちゃダメよ!』
『んんっ!、ごほっ、げほっ・・、やばい、げほっ!』
『政さん大丈夫!。・・・、やだあ、無理するからそうなるのよ、大人気ないわねえ』
『ほらあ、叱られた。だから言っただろう!』
『だから言ったでしょ、おじちゃんダメねえ!』
兄弟そろってのダメ出しが沸き起こった。大人の面子なんてどこ吹く風。
流石に政男の顔も赤面せずにはいられなかった。それを見ていた四郎と早苗のはしゃぎ振りと言ったらどうだ。
今の、この時代背景がそうさせてしまったのだろうか、きっと大人たちに遠慮しているのだろう、どうしても控えめな笑顔が定着してしまった。
本来の子供の本質を閉じ込めたまま育って行くことは、危険極まりないと言えよう。
『ふうっ・・!、死ぬかと思ったぜ。久し振りにがっついたからなあ、いやあ、それにしても美味い肉だぜ』
『感謝するわ政さん。こんなに贅沢な晩ご飯なんて、滅多にないものね』
『おいしいよ、おじちゃん。早苗いっぱい食べてるよ』
『おれもいっぱい食べる!。おじちゃんに負けないくらいにさ!』
『でもね四郎、おじちゃんの真似だけはよしてよね!』
『おいおい、そりゃないだろう!。春さん』
『そうね、少し言い過ぎたかしら?』
今夜の食卓は、平和への直訴のように賑わっていた。政男の心遣いが、春代の気苦労を癒してくれたのだ。
夫の居ない我が家、息子の安否ばかり気に病む毎日が、どれほどの苦痛に値するのか。
四郎の、早苗のその笑い声が、今の春代にとっては唯一、幸せを感じるひと時だった。
『おじちゃん!、今日かえるの?』
四郎が何気なく、政男に問い掛けた。
『ああっ・・、そうだなあ、帰らないとなあ・・』
『何言ってるの四郎、そんなこと言うとおじちゃん困っちゃうわよ?』
『早苗こまんないよ、だって、おじちゃんのこと好きだもん。おかあさんだっていってたもん、だい好きだって』
『やだ、早苗ったら・・。でも、お母さん政おじちゃんのこと大好きよ。頼りになるし、優しいし。こんなお父さん居たらいいわよね?』
『ねえ、おじちゃん。今日だけ、お父さんになってよ!、いいでしょ?』
四郎が無邪気におねだりをしていた。
『・・。いやっ・・、そう言われてもだなあ・・。春さん!、どうにかしてくれよ!』
『あら?、また顔が赤くなった。意外と照れ屋さんなのね、政さん』
『勘弁してくれよお!、ったく・・。おっ!、いけねえもうこんな時間だ、四郎、早苗、俺もう帰んなきゃ、また今度来るからよ!』
『えーっ、もう帰っちゃうの?。いやだよ、おれ!』
『早苗もいやだあ!』
『はいはい、それくらいにしましょう。おじちゃんだって忙しいのよ、また今度ね』
子供たちのはしゃぐ声に、政男も後ろ髪を引かれる思いでいっぱいだった。
やっと子供たちを宥めながら、政男を見送った春代は、めずらしく天を仰いだ。
そこには満天の星々が、空一面に散らばっていた。無数の惑星の粒が、今にも降り出しそうに迫って見えた。
“いとしあの星あの瞳、今日の占い何と出る・・。夢で見た見たいつかの夜・・、夢で託したその人は、骨も命もこの土地に・・、みんな埋めよと笑い顔・・”
春代が口にした唄は、遠く南方の次郎を忍んでいた。
『四郎、早苗。ねえ、出ていらっしゃい!』
『どうしたのお母さん?』
慌てて飛び出してきた子供たちを、ギュッと抱きしめて、春代が白い歯を輝かせた。
『ほんと、奇麗な星空でしょ。きっと次郎兄ちゃんも、今頃、眺めてるでしょうね』
『おかあさん、あの星なんて言うの?』
四郎が指差した先には、妖艶に光を放つ星が夜空を彩っていた。
『あれがカシオペア・・。そっちが、白鳥座。奇麗ね・・』
心鎮まる星座の鑑賞なんて、もう何年振りだろうか。
亡き夫、一郎と眺めていた同じ星空を、今、二人の子供たちと見ている。果たして次郎も、同じ星座を指差して見ているのだろうか?。
束の間の幸せを、いや、永遠の幸せを、いっそこの星空に託してしまいたい。そう願いながら、春代が子供たちに言った。
『四郎、早苗。お母さんはずっと、あなたたちの傍にいるからね。何があっても離れないからね、いい・・?』
『どうしたの?、お母さん。泣いてるの?』
怪訝そうに四郎が、春代の顔を覗き込んだ。
『ううん・・、星空が目に染みたのよ。だって、あんなに輝いているんだもの』
そう言って両腕で子供たちを抱えながら、春代が“ぽそっ”と呟いた。
『お願い、このままで居させて・・・』
不思議にもこの場所だけだろうか、ほんのわずかに、時間が止まって見えた。