蝉しぐれの中で 【最終話】
『おいは・・、のこのこと・・、還って・・、来てしまいもした・・』
そう言うなり、うな垂れて言葉を控えていた矢口に、春代が言い返した。
『お役目、御苦労さま・・。あなたのような人も、きっと必要だったのね』
『ええ・・?』
意に反した春代の言葉に、矢口は戸惑った。
『だって、次郎の勇ましい姿なんて、まるで想像出来なかったもの・・。今までのあなたの話を聴いて、わたしの知らなかった次郎が、今、ここに居るわ・・』
『・・・・』
『次郎兄ちゃん、もしかして生きてんのかな・・!』
四郎が水を差すように、二人の会話に割って入った。
矢口のこれまでの話が、四郎の横やりで、身も蓋もなく宙に浮いていた。
『何を言ってるの、四郎・・。ほら、矢口さん困ってるでしょ?』
『あっ、いや・・』
『ああ・・、ごめんなさい!。ついさ、そんなことも有っていいかなって、思ってさ・・』
『じゃっど、生きちょったら、さぞかし逞しい組長になっちょっじゃんそねえ・・、次郎くんじゃったら!、きっと、よか仲間に巡り合えちょるさ・・、へへっ』
ついさっきまで悲愴な顔つきだった矢口が、まるで息を吹き返したように、懐かく、そして嬉しそうに、ほくそ笑んでいた。
『ところで、時間はいいの?、あなた・・』
気を遣って、春代がそっと矢口に向けて声を掛けた。時間を忘れるほどの思い出話に、矢口の顔が一瞬蒼ざめていた。
『何時じゃっど?』
『ああ、五時をまわってるけどさ・・。急ぐの?、矢口さん』
『五時四十五分の、寝台が最後じゃったと思いもす・・』
『何だよっ!、早く出なきゃ。間に合わないじゃん!』
慌てて席を立とうとした矢口に、春代が改めて言葉を掛けた。
『矢口さん、遠いところから、わざわざありがとう・・。わたしの知らなかったあの子が、今、こうして両手に収まってるようだわ・・。矢口さん、あなたのお陰で、悔いの無い人生が送れそうです。わたしと、そして、次郎の・・』
矢口に向けて感謝の弁を終えた後、正座したままで、背筋を伸ばした春代が、深々と頭を垂れた。
『お、お母さん!、よかです・・、そげなことしてもらわんでも!』
ゆっくりと体勢を整えた春代は、まるで我が子を慈しむかのように、目の前の矢口哲平を見つめていた。
『よろしければ、また帰って来てくださいね。哲っちゃん・・』
『・・・。は・はい・・!。必ず・・』
うつむいた矢口の足元には、ぽたぽたと金の雫がこぼれ堕ちていた。
その大粒の雫と引き換えに、春代の慈愛のこもった想いを、矢口は郷里の鹿児島へと持ち帰って行った。
矢口の居なくなった部屋の中には、語らい尽された次郎の気配が、まだ、うっすらと余韻を残していた。
『母さん・・、どうだった?』
『どうって?、何のことかしら・・』
『またぁ・・。次郎兄ちゃんのことだよ!、矢口さんの喋ってたことっ!』
『そうね。どうなのかしら、まるで、お伽噺を聴いてるみたいだったわ・・』
四郎の問い掛けに、春代がぼんやりと答えた。
『なんだよ!、まるで感動なんてないじゃないか!』
『感動って、どう言うことなの・・?』
『あのね・・。俺たちの知らなかったことばかりなんだよ!、次郎兄ちゃんの戦地での貴重な話じゃないか。普通泣くだろ?、母親だったらさ』
『泣かないと駄目なの?。四郎』
『あのね・・、泣くとかそんな・・』
『あっ!、忘れてたわ』
思い立ったように、矢口から渡された次郎の手紙を抱きかかえると、いそいそと奥の部屋へと進んだ。
『なんだよ、話終わってないだろ!』
『大事なことなの。休戦しましょうよ』
そう言って、箪笥に仕舞い込んでいたものを、春代はゆっくりと取り出した。
『久美子さん、お待たせしたわねえ・・』
そう言うと、次郎の手紙を久美子の手紙に重ね合わせた。
『やっと・・、次郎に渡せることが出来ましたよ。安心してね、久美子さん・・』
忘れてはいなかった。この十年間、春代は、ひと時も忘れるはずがなかった。
『次郎・・。罪なことをするのね、あなたって人は・・・』
折り重なった次郎と久美子は、箪笥の奥へと再び仕舞い込まれた。
二人の仕合せは、運命の再会は、遥か時を距てようやく完結したのだった。
『ふうっ、これでやっと、お役御免ねえ・・』
安心した様子で春代が四郎に声を掛けた。
『ねえ、今晩、外でご飯食べようかしら・・?』
『ええ?、ああ・・、いいけど・・。何処で?』
『そうね・・、お鮨がいいかしら・・。ほら、あそこの・・』
“ガチャッ・・!、バタンッ!!”
突然、けたたましい音が玄関ドアを打ちつけた。
『ただいまっ!、お母さん居るの!!』
『早苗・・?』
『もーうっ・・!、やだあ!!』
そう言って、半べそをかきながら、早苗が玄関の扉に寄り掛かっていた。
『どうしたの?、早苗・・。恭平くんと会ってたんじゃないの?』
『おい、恭平と何かあったのか?、おまえさ・・』
『最低っ!!。あいつ・・、もう・・』
理由も告げず、吐き捨てるように早苗が四郎の親友を嘆いていた。
『まさか?、恭平の奴・・、お前に手を出したのかっ!』
『そんなんじゃない・・!。恭平くん・・、そんなこと出来るわけないもの・・』
四郎の推定した事実を、早苗は曖昧に否定した。
『じゃあ、何なんだよ!。一体、どうしたっていうのさ?』
『・・・・』
その兄の問いに、妹は黙秘を決め込んでいた。
『黙ってちゃ判んないでしょう、早苗・・。いいこと、あなたたちの関係が潔白だって言うのなら、隠しごとなんてしないで。ほら、四郎だって困っているわ』
母親の介入に、遠慮がちに四郎が訊いた。
『あのさ・・。お前達、どこまでいってんの?』
『・・・。どこまでって・・、どういう意味よ・・?』
『どうって・・。あれさ・・』
さすがに母親を前にしてか、兄妹の会話はじれったく噛みあっていなかった。
そんな不安定なひと時を吹き飛ばすかのように、いきなり豪快な声が乱入した。
『
おーい、邪魔するぜ!!っ』
“ドスンッ!”
『きゃっ!』
力任せに開かれた扉の勢いで、早苗の身体が前方に押し出された。それと同時に、重量感あふれる荷物が玄関内に散らばっていた。
『なんだ、どうしたよ早苗!』
『もーう、やだあ・・』
『やだって・・、そんな言い方はないだろうぜ・・。なあ、春さん』
面喰った政男が、春代に同意を求めた。
『政さん・・。あなた、いつも勝手が悪いんだから・・。ねえ、そうじゃない?』
『なっ、何て言い草だよぉ・・。俺のどこがそうなんだぁ?』
『おじちゃんさ、観念しなよ。おれも母さんと同意見だよ!』
『四郎っ!、なんだよ、お前まで俺を邪魔者扱いしてんじゃないぜ・・』
四郎の駄目押しの言葉に、政男の困り果てた顔が、妙にしおらしくなっていた。
『いいのよ政さん、気にしないでちょうだいね。ようこそ、いらっしゃい・・』
言いだしっぺの春代が、無邪気にも政男を迎え入れた。
『ところでよ、表に若い男がさ、ずっと立ってんだけど。怪しくねえか?』
『若い・・、おとこ・・?』
そう呟くと、心当たりがあったのだろうか、早苗が慌てて玄関先に飛び出して行った。
『ねえ・・、どうして?』
さえずるような声で、早苗が男に問い掛けた。
俯いたままの男は、早苗の声に反応して顔を上げた。
その瞬間、ついさっきまで沈んでいたはずの早苗の表情が、途端に潤いを見せていた。
政男の言った怪しげな若い男とは、早苗の彼氏の恭平のことだった。
『恭平!、さっきはごめんね・・』
『早苗ちゃん・・』
曇っていた恭平の顔が、早苗の声で晴々とした笑顔に戻っていた。
互いに見つめ合うだけで暫くは、言葉など要らなかった。
二人の情景に入り込む隙間も無いままに、他人行儀に春代がほくそ笑んでいた。
『若さっていいわね・・。なんでも許しちゃうでしょ』
愛娘のひた向きな姿を覗き込みながら、春代がぽつりと言った。
『そうだよな・・。今の年頃でしか受け入れられないものって、確かにあるんだよなあ・・。それが直に歳をくってしまってよぉ・・、何かと引き換えでしか、心が満たされなくなるんだよなぁ。そんなつまんない見栄が、欲張りな人間を造っちまうんだ・・』
寂しそうに語った政男の洞察は、もしかすると我が身に照らし合わせての、苦言なのかも知れない。
『あら、政さん。哲学者みたいなこと言うのね・・。なんだか尊敬しちゃうわ』
薄笑いを浮かべながら、早苗たちの邪魔をせぬよう、いそいそと春代は家の奥に身を隠した。
『なんだか、いつもの春さんらしくないぜ。なあ、四郎よ・・』
『おじちゃん、実はね・・』
四郎が今日の出来事を、矢口鉄平の訪問の事実を、政男に耳打ちし始めた。
『・・・。なんだ、そうだったのか・・。そりゃ、相当効いたみたいだなぁ』
『政おじちゃんさ、今がチャンスなんじゃないの・・?。母さんの心の隙間を、埋めてあげてよね』
『な、何を言ってんだよっ・・!。俺はよ、そんなつもりで・・。おい!、大人をからかうもんじゃねえぞ、四郎っ!』
四郎の奇襲攻撃に、幾分、照れた政男が、赤っ鼻をちらつかせながらも、春代の下へと向かった。
そこには、夕暮れに染まった雲を仰ぎながら、縁側に座り込む春代が居た。
『どうしたよ、黄昏てんのか?。春さん』
春代の隣に腰を降ろしながら、政男がさりげなく言った。
『・・・。綺麗ね、こうして、あらためて見ると』
『今日は、特別ってやつかい?』
『四郎から聴いたんでしょ・・。お喋りな男の子だこと・・』
『悪いけど、俺には何にも言ってやれねえんだよな・・、春さんにはよ・・』
『政さん・・。お願いがあるの』
『ああ、なんだよ?』
『政さんの肩、少し貸してちょうだい』
そう言って春代は、やおら政男の左肩に寄り掛かった。目を閉じて、すうっと息を吸い込んだ春代の息遣いが、政男の耳元で安心感を醸し出していた。
『・・・、春さん。次郎は、元気だったかい・・?』
『うん、とっても』
『そうか・・。そりゃ良かった・・』
『わたしね・・。次郎の母親で良かったって・・、つくずくそう思ったの。だってね、こんなにも素敵な想い出を残してくれたんだもの。あの子・・』
『そうか・・、昔っから親馬鹿だもんなぁ、春さんは・・』
『そうよ、立派な親馬鹿よ!。きっと、誰にも負けないくらいにね』
そう言い切った春代の肩を、政男はしっかりと抱き締めた。そして、無言のまま目を細めて、黄色く染まった空を眺めていた。
辺りには、まだ冷めやらぬ次郎の気配と、それを気遣うように蝉しぐれが、いつまでも賑やかに響き渡っていた。
蝉しぐれ。 完。
永らくお付き合いいただきまして、ありがとうございます。
次郎と春代の親子の絆が、上手く表現できたのかと、少々、不安も残りますが…。
人の存在が消えてしまうことは、確かに”悲しみ”かも知れません。
しかし、心の中に消えることのないその人への想いがある限り、それは”希望”と思いたいのです。
奇麗事だとは判っています。敢えてそう言いたかったのです。
続、蝉しぐれを思案中です。また、元気な春代との再会を楽しみにしています。
ありがとうございました。




