第20話 平泉兵長の死
『静かな夜だっぺな・・。まるで戦地にいるなんてさ、忘れてしまいそうだなぁ・・。なんてこと言ってもしょうがないべさ・・。そうだ、次郎ちゃん。俺ぇ、前から気になってたんだよお、訊いてもいいか?』
おもむろに足立が、遠回しに次郎に尋ねた。
『何だよ・・。改まってさ・・』
『ボクシング・・、いつ習ったべさ?』
『ああ・・、そのことか・・。習ったって言うほどのことじゃないんだ。親父がのめり込んでてさ、学生時代にアマチュア・ボクサーだったんだ、小さい頃から随分とやらされてたんだ』
『じゃあ、自己流なんべさ?、あのフットワークもさあ』
『円を描けって、よく言われたなあ・・。常に拳は顎をガードするんだって、その体型が少しでも崩れると、竹刀が飛ぶんだ。これがまた痛いんだよっ!、容赦ないんだ』
『試合の経歴は、どうなんだ?』
『はは・・、そんなもん有る訳ないだろ!。いつも実戦さ、そう・・、ガラの悪い連中が相手だったよ・・。けどさ、拳は使うなって約束だった。素人相手に絶対ってね。だから、かわしてばかりさ、面白くもなんともないんだ』
『次郎ちゃん。リングにも、上がったことは無いのか・・』
『だから、言っただろ。俺のボクシングは、非公式だったんだよ』
『・・・。強いはずだっぺ。距離感がずば抜けていいさあ!』
『距離感・・?・・って』
『知ってるだろう?、ジャック・デンプシーってさあ?』
『もちろん知ってるよ、拳聖って呼ばれたんだよね・・、彼・・』
『当時は珍しかったんだぁ、前傾姿勢で構えるボクサーってさぁ。大抵がよ、パンチ喰わねえようにさぁ、腰が引けてたんだけどよぉ。当時、奴は本物だって、誰もが言ったもんさぁ!』
『俺が、デンプシーと、どう関係あるんだよ・・?』
『肉を切らせて、骨を断つってさ・・。あるじゃんさ!』
『骨を・・?』
『カウンターだよ。反発ってことだべ。相手が踏み込んだ勢いでさぁ、こっちの拳を当てるんだよぉ!。利くぜ!。相当、利くぜ!』
『ああ・・。そうなんだ・・』
『次郎ちゃん、おめえ生きて帰るべきだよぉ。ここで埋まっちゃあいけねえ!。絶体生きて帰んべえ!』
『足立さん・・、買い被りすぎだよ・・。ごく普通の、何の取り柄の無い男さ・・』
『いいやっ!、生きて帰るんだよ、次郎ちゃん。おめえの生き様は、きっと誰かの手本になるべ。この俺が、保証するって!』
『・・、ありがとう・・。嬉しいよ』
足立の激励の言葉に、嬉しさと困惑を隠しきれない次郎であった。
戦況は、次第に激しさを増していた。山頂を目指す日本軍に対して、米比混合軍の容赦ない攻撃が続いていた。
昼夜ない爆撃に、日本兵の残骸が、そこいら中に、数珠つなぎに並べられていた。
『もう少しだ、皆、頑張るんだ!』
『次郎・・、休んでええか?。腹減ったがな・・』
『休んだって、食糧も残ってないんだ・・。山頂に着いてからさ、辛抱しろよ』
『もうへとへとやで・・。水や・・、誰か持ってへんか・・?』
そう言って腰を降ろそうとした山下の足元に、何かが絡みついた。
『な、なんやっ!!!』
慌てて足下を確認した山下が目にしたものは、血まみれでうつ伏せになった兵士だった。
かすかに息をしているようだが、既に瀕死の状態であることは明らかであった。
『・・・、お・・い・・。み・ず・・くれ・・や・・』
山下の右足をかろうじて掴みながら、懇願するようにやっと言葉を吐いていた。
『・・!。兵長・・?、平泉兵長なんかっ・・!?』
『どうしたっ!、山下っ!!』
『次郎っ!、兵長や、まだ生きとる!。平泉さんやっ!!』
とっさに駆け下りて来た次郎の見たものは、確かに平泉兵長の弱々しい姿であった。
『平泉さんっ!、大丈夫ですかっ!!。誰か、水を、早く!!』
『は・やさ・・か・、くみ・ちょう・・や・ない・か・・』
『喋らなくていい!、兵長、水だ、さあ・・』
平泉の口に注がれた水は、思うように喉を通らなかった。逆に食道に溜まった血が、水とともに吐き出されていた。
『ハァ・・、ハァ・・、ハァ・・』
『平泉さん・・、俺と一緒に、行きましょう・・。山頂まで、もう少しです・・』
『さき・に・行け・・。わし・・は・、ダメ・・や・・』
『おぶってでも・・、連れて行きます・・。そう・・、約束しましたよね・・?』
『はは・・。あい・かわらず・・しつ・こい・・やつ・・じゃ・・』
『次郎・・、無理じゃ・・。兵長には悪いが、ここに残すしかない・・』
『竜さんっ!、約束したんだよ!。俺、この人と、約束したんだっ!』
『・・・・』
『さあ、行こう!。俺に掴まってっ!』
無理矢理に平泉を抱き起そうとした次郎の手を、平泉は払いのけた。最期の力を振り絞ってのことだった。そして、大きく開いた平泉の眼は、それを拒んでいた。
『生き・・て・・、かえ・・れ・・よ・・。じろ・・う・・』
それは、力尽きた平泉の、最期の言葉だった。
『平泉さんっ!?、平泉さんっっ!!!』
平泉の身体を何度も揺すってはみたものの、だらりと糸の切れた操り人形のように、うな垂れているだけだった。
『俺の肩にすがれよっ!!、さあ、どうしたんだよ・・・。平泉さんっ!!、どうかしたのかよおっっ!!!』
平泉からは、返事などあろうはずが無かった。それでも次郎の両手は、平泉を離さなかった。
『平泉さんっ!、お袋さんが待ってんだろおっ!。こんなとこで・・何・・やってんだよおっ・・・!。おいっ!!』
『次郎っ、やめろ・・・』
『竜さんも、手伝ってくれよお・・・。この人重くてさあっ・・!。あんだけ・・痩せるって言ってたのに・・・。なんでこんなに・・重いんだよおおっ・・。もーーおおっ!!』
まるで何かに取り付かれた様に、次郎が狂ったように平泉を抱き起こそうとしていた。それでも平泉の開いた眼は、決して次郎を見ることはなかった。
『やめろ・・・。次郎っ・・、次郎おーっっ!!!』
ついに見かねた天野が、無理矢理次郎の腕を掴み、その手を解いた。
『やめろおおーっっ!!!』
“バチッッッ!!”
その瞬間、次郎の右拳が天野の左頬を直撃していた。信じられない光景に、全員が固唾をのんでいた。
少しぐらついた天野であったが、そのまますぐに次郎の両肩に手を置いた。
『覚悟の無い鉄拳は・・、軽いのォ・・。次郎よ・・』
『くくっ・・・!』
その場に蹲った次郎は、子供のように天野の顔を見上げた。
『・・・。竜さん・・、ごめん・・。ごめんよ・・』
天野の胸で、悲しみと苦しみを堪え切れず、次郎は声を押し殺して泣いた。
平泉義隆。享年四十八歳。
郷里に残した母親よりも先に、余りにも早すぎる死であった。




