第2話 次郎の恋人
真上から照りつける日差しの勢いに、“ふうっ”と、大きく溜息を吐きながら、春代の手は止まらない。
洗濯物の次は、台所での洗い物、そして部屋の掃除。それが終われば、集会所での作業が待っていた。
“大日本婦人会”の集い。おなじみの白い割烹着にタスキがけの姿で、男手の少ないこの国の大黒柱的立場を担っていた。
合言葉は、“国防は台所から”を掲げ、出征兵士の見送りや、帰還兵士の出迎え。さらには、地域の遺族家庭への訪問、援助等、幅広く活動を展開していた。
そもそも春代の正義感が、そうさせた訳でもない。二十歳未満の未婚者を除くすべての婦人は、強制加入を義務付けられていたのだ。
今日は、千人針を縫う日。集会所は多くの婦人たちで、埋め尽くされた。
『明日、勇さんの出征ね・・。元気で、見送ろうね。お雪さん』
『・・・。ありがとうね、貴恵ちゃん。大丈夫よ、元気だけがわたしの取り柄だもん』
ここにも、赤紙の煽りを受けた母親の覚悟が、独り立ちしていた。
仮に、赤紙が来ないとしても、それは幸運とは言えなかった。若い男子が下手に街中を歩こうものなら、憲兵に捕まり、鉄拳制裁を受けることになる。兵役にはぐれた、役立たずの烙印が待ち構えていたのだ。それに歯向かったが最期。非国民というレッテルを貼られてしまうのが常であった。
息子を死に急がせる行為を、母親は止めることさえ出来ないのだ。いや、全国民が、そのジレンマに喘ぎ苦しんでいた。
繰り返し言う。戦争ほど悲惨なものは無い。敢えて、しん言せねばならないのだろう。
『春さん、次郎君から便りがあったんだって?。で、元気そうだった?』
『勇ましく戦っていますって、そう書いてあったのよ。あの子、相当虚勢張ってるんだわ。元来、気弱な男の子なんだもの』
『春さんが知らないだけよ。ああ見えて、結構芯があるよ、次郎君』
『ああ見えて・・?。ひどい言い方ね、あたしの可愛い息子なのよ。もっと気を遣ってくれない?』
『おっと、言い過ぎちゃったわね。ごめんよ、春さん』
『もう、遅いの。次郎が還って来たら、告げ口するわよ。片岡のおばさんが言ってたって』
『もーう、勘弁してよ!。悪かった、ほんと、ごめんなさい!』
『あっはっは!』
暗い時代だからこそ、笑いを絶やさない。笑っていれば、きっと幸せは逃げやしない。
そう努める、健気な婦人たちの生活力に、ますます以って頭が上がらない。
この時はまだ、東京は健全な街並みを残していた。国民の関心は、もっぱら隣国、中国の制圧と、南方戦線の戦況へと目が向けられていたのだ。
しかし、南方サイパン島では、死力を尽くした決戦が幕を閉じていた。
“日本軍玉砕”。昭和十九年七月七日の出来事であった。
それを追うように、同、十八日、東条内閣総辞職。
日を追うごとに、劣戦の知らせが大本営に届けられていたのだ。
何にも知らされていない善良な民衆は、日本軍の勝利を確信するだけだった。おそらくは、信じるしか手立ては無いように思われた。
東京に戦火が及ぶのは、いつのことだろうか。サイパンを失った今、米軍の仕掛ける空襲は時間の問題だ。軍首脳陣は冷や汗を流してるに違いない。
懸念されていた物資の不足は、やはりここに来て底を突き始めた。街中の金属類は慌ただしく回収され、軍需工場へと廻された。
勿論、働き手も不足していた。勉強に勉めるはずの多くの子供たちも、学徒動員の名の下に、工場までせっせと赴いた。
山に入って、松の根っこを拾い集めた。松脂から松根油を作り、燃料にもした。
大人たちに混じって、千人針を縫ったり、千羽鶴を織った。皆で、“武運長久”を祈ったりもした。
『ただいまーっ!。早苗かえったよ、おかあさん!』
学校から元気に帰って来た早苗は、母親の姿を探していた
母親は、集会所での作業に追われていた。ちゃぶ台の上には子供宛の書置きと、好物のせんべいが数枚、皿に盛られていた。
『さなえちゃんへ。おにいちゃんと・・なかよく・・たべてください。なんだあ、おかあさんいないのお・・つまんないなあ』
そう言って、早苗はせんべいを口に放り込んだ。ぽろぽろと畳みの上にこぼれる欠片が、方々に散っていた。
『おにいちゃん、食べるのかなあ・・?』
せんべいを食べないお兄ちゃんを、幼心にも想像してしまうのだ。“おにいちゃんとなかよくたべてください”。お母さんの折角の心遣いが、早苗の欲望には理解出来ないでいた。
『食べちゃうぞお・・』
そうだ、食べてしまえ!。お兄ちゃんは男の子だ。我慢出来るさ。
何事もなかったように、夕日が西に傾いていた。穏やかな一日を象徴するかのように、空を真紅に染め上げていた。
『ただいま、遅くなっちゃった。ごめんね』
待ち侘びた母親の帰宅。甘えん坊の早苗が、飛びついてくるはず・・。
『あれえ、寝てる・・。まあ、こんなに散らかしちゃって・・』
汗でくしゃくしゃになった、早苗の髪の毛を梳かしながら、散らかったせんべいの欠片を春代は手で寄せ集めた。
『早く、終わればいいのに・・』
誰しも、この戦争を望んでいた訳ではない。今の、春代のこの一言で十分、言葉は足りていた。
『帰ったよ!。腹減った!、お母さん、ごはんまだ!』
ドタバタと、四郎が駆け込んで来た。
『おかえり。ごめんね、四郎。まだ仕度できてないのよ』
『なんか食べたい。ねえ、お母さん!』
『早苗がね、おせんべい全部食べちゃったの。ほら、きれいさっぱり!』
『なんで残してくれないのお・・、おれの分。お母さんずるい!』
『お母さんも知らなかったわよ。居なかったんだもの』
『じゃあ、早苗が悪いんだ!。おしおきだな・・』
『早苗が悪いんじゃないわ。お仕置きだなんて、ひどいこと言うのね、四郎は』
『じゃあ、お母さんが悪い!』
『お母さんも、悪くはないわよ。だって、書置きしてたもの。ほら、“おにいちゃんとなかよくたべてください”って、早苗にも読めるようにしてたのよ』
『だって、全部、早苗が食べたんじゃないか!。やっぱり、早苗が悪い!』
子供たちにとっては、大変な問題なのだ。満腹になるほどの食材が、確保出来ない時代に、育ち盛りの胃袋は、いつも貧窮していた。
今日の学校の給食も、“すいとん”だった。小麦粉を水で加えて練り混ぜたものを、適当な大きさにかためて汁に入れて煮たものだ。
それでは、十分な腹ごしらえになる訳が無いだろう。
『四郎・・。誰も悪くないのよ。そんなこと言わないの』
『じゃあ、どうすればいいんだよ?。おれ、損ばっかり・・』
悪いからと、誰かを攻める。いたって簡単なことだ。しかしそれが、問題解決の最良の方法だろうか。
早苗も母親も悪くないとすれば、一体、誰に責任を求めればいいのだろう。
『あのね、四郎。男の子は、強いの。だって、家族を守れるんだから。女の子は弱虫でしょ?。だから、いつも泣いてるの。弱い子を助けられるのは、強い男の子なのよ』
『だったら、お母さんの方が強いじゃないか!。おれよりか随分』
『お母さんだって弱いのよ・・』
『嘘だ!、お父さんいないのに、お母さん、一人で、おれと早苗の面倒、見てくれてるじゃあないか!』
『そりゃあ、見るわよ。あなたたちの母親なんだもの。でもね、本当は弱虫なの。お父さん居なくて、寂しくて心細くて、お母さん毎晩泣いてるのよ・・』
『えっ・・?。お母さん・・、泣いてるの?』
『そうよ、どう、判ってもらえた?。四郎が、早苗とお母さんを守ってくれないと、もっともっと、泣いちゃうと思うわ』
『ダメだよ!、お母さん泣いちゃいやだよ。おれ、強くなるからさ!』
健気にも、四郎の言葉は、男子の気概を見せていた。
『ありがたいことだわ、四郎のその言葉・・。お母さん安心したわ』
“お兄ちゃんだから、我慢しなさい!”。世の母親は、きっと、こう言うのだろう。
春代の母親としての資質は、人並み以上に長けていた。そう思わせるほどの、愛情溢れた言葉遣いであった。
『さてと、ごはんの仕度しなくちゃね。遅くなってごめんね』
今晩の献立は、大根飯とさつまいもを蒸したもの。飯と言っても、麦七割、米三割のご飯だ。白米だけなんて、贅沢な食卓なのだ。
大根と、その葉をまぜ、かゆとして食す。水を吸った麦と米は、増量されたように腹に溜まる。澱粉を多く摂取できる芋も、カロチン、ビタミンCを含んだ大根も、栄養価の高い最高の食材だった。
『また、大根か・・』
『文句言わないのよ、兵隊さんたちに申し訳ないでしょ。一番お腹がすいてるのは、兵隊さんだと思うわ。次郎兄ちゃんもそうね・・』
『おにいちゃん、ごはん食べてないのお?。早苗の分、おにいちゃんにあげる』
『いいのよ、早苗。でも、ありがとうね。次郎兄ちゃん喜ぶわね・・。明日はね、政おじちゃんがおいしいお肉持って来てくれるって。楽しみね』
『おじちゃんが!、ホント、お母さん?』
『山に入るらしいわ。猪かもね』
『イノシシって、おいしいの?』
『ええ、とっても!。お母さん大好きなのよ。次郎兄ちゃんにも、食べさせてあげたいわねえ』
『取っておけばいいよ。ねえ、お母さん。お兄ちゃん帰ってくるまでさあ』
『やだ、それじゃあ腐っちゃうわよ。幾らなんでも、次郎が食べるわけないでしょ?』
『そうかあ・・。お兄ちゃん、明日帰ってくればいいのにな・・』
『おかあさん、次郎にいちゃんに帰るようにいってよお、早苗たちとお肉いっしょに食べようって。ねえ』
『そうねえ・・、お願いしてみようかな、明日・・』
帰って来れるものなら、どんなお願いでもしたい。床に何度でも額を擦り付けても構わない。我が子の、元気な姿が見れるのならば、両手、両足だって差し出す。いっそ、目から光を奪われたとしても、母親の本能を全うしたいのだ。
ご飯が、喉につかえてしょうがない。子供たちの目の前でなければ、泣き喚きたい衝動に駆られていた。春代だった。
『・・・。ご馳走様。おいしかったね・・』
ゆっくりと、箸を置いた春代の指先が、小刻みに震えていた。その手はすぐに、割烹着の中へと押し込められた。
『ご飯粒ついてるわよ、四郎、ほっぺのところ』
『へへ・・。やっぱり』
『早苗もえらいわね、きれいに食べてくれたのね』
『うんっ!』
今日一日が、何事も無く過ぎようとしている。
早く眠ってしまおう。そうすれば、明日が早く訪れるから。そしてなによりも、次郎の帰還が早まるような、そんな気がしてならないのだ。
子供たちの寝息を確認した春代は、そっと、寝間から抜け出した。
吊ってある蚊帳をくぐり、開けっ放しの縁側に腰を降ろした。
月夜の晩は、春代を慰めてくれているかのように、ほのかな明かりを提供しくれていた。
そこには、強がりを無くした一人の女の涙が、深く溜まっているように見えた。
早く来い。朝よ、一刻も早く彼女の涙を乾かしてくれ給え。
いつものように、慌ただしく家事に奔走する春代の元に、予期せぬ客人が早坂家を訪れていた。
『こんにちは・・』
小さくか細い声と、半袖の先に伸びた色白の細い手が、玄関先で佇んでいた。
『・・・。ごめんください!』
さっきより幾分大きな声が、ようやく春代の耳に届いた。
『はーい、ただいま』
家事の途中の手を止めて、小走りに駆けつけた春代を待っていたのは、お下げ髪のよく似合う愛らしい若い女性だった。
『どちら様かしら・・?』
玄関で正を座して客人を迎え入れた春代の問いかけに、少し躊躇った様子のその女性は、会釈を済ませると、はにかむ様に声を発した。
『突然、申し訳ありません。わたし、守山久美子と申します・・。あの、次郎さんのお母様でしょうか・・?』
『・・・。ええ、間違いありませんよ。次郎の母親の、早坂春代と申します』
妙に生真面目な対応の後、つい春代が、噴出してしまった。
『うふっ!、ごめんなさいね・・。やだあ・・』
『ああ、よかった・・』
それにつられて、彼女が晴れやかな可愛らしい笑顔を見せた。
『次郎の、お友達かしら?』
『はい、中学校で一緒だったんです。次郎さんにはとても仲良く・・、いえっ!、とてもお世話に、なりました・・』
慌てて言葉尻を合わせた守山久美子は、少し紅ばった頬を両手で覆っていた。
『久美子さんって言ったかしら・・、次郎がとてもお世話になったようね・・』
それを察してか、春代が気を利かせて返した。
『あのお・・、次郎さんに渡せなかったものを・・、持ってきたんです。今更ですけど、あの人、急な出征だったもので・・、わたし・・』
『そう、ごめんなさいね・・。気が利かなくて、あの子・・。もう、一年近くも経っちゃったわねえ・・』
『あのう・・、次郎さんから、連絡はあったのでしょうか?』
『一度だけね・・。戦地からの手紙が届いたわ。あの子らしくない、かしこまった文面だったわ・・』
『そうですか・・』
『帰ってきたら、久美子さんしっかり言ってやってね。次郎に』
『ええ・・、そう、出来れば・・』
どこかたどたどしく、守山久美子が返した。
『どうかしたの?、変なこと言ったかしら、わたし・・』
『・・・。そうじゃないんです。そうじゃなくて・・』
春代の問い掛けに俯いた彼女は、小刻みに肩を震わせていた。
『・・・?、どうしたの・・、久美子さん』
『わたし・・、この町を出るんです。母の故郷に引っ越すんです・・』
『えっ・・』
『わたし・・、もう・・ここには・・、居られないん・・です・・』
さっきの可愛らしい笑顔は、もう涙でくしゃくしゃになっていた。
『久美子さん。お話、聴かせてもらっていいかしら?』
そう言って、久美子の手を取った春代は、連れ添って縁側に席を下ろした。
泣き止まない久美子の背中を押さえながら、しばらくは声を控えていた春代だった。
『う・・っ、うう・・』
もっと早く流すべき涙は、彼女の胸の奥に健気にも蓄えられていたのだろう。
堰を切ったように、春代の傍でその涙を披露していた。
『もういいのよ・・。ごめんなさいね・・』
久美子の泣きじゃくる姿を見守りながら、わが娘のように両手で抱き抱えていた。
強い日差しの下、二人の影がひとつに重なっていた。
『次郎を手放した、わたしが悪いの・・』
不慮の事故を詫びるかのように、春代が久美子に謝った。
『・・・。ごめんなさい・・。わたし・・』
『いいのよ・・』
『来月・・、引っ越すんです。父が亡くなって・・、どうしようもなく、母の実家に戻ることになったんです・・』
『そう・・。東京から遠いの?』
『和歌山です・・。白浜です・・』
『そう・・。良い所ね・・』
『はい・・・』
東京を離れてしまう悲しみは、つまり、次郎への別離の悲しみでもあった。
『次郎に渡したかったものって、何かしら・・?』
膝の上に乗せていた小物入れから、久美子が大事そうにそれを取り出した。
『これを、次郎さんに渡してください・・』
それは手紙らしきものと、淡い紫色の包装紙にあてがわれた、こじんまりとした包みだった。
『わたしが受け取るけど、いいのね?』
敢えて、久美子に訊ねた春代だった。
『連絡先は中に書いてあります・・。必要があれば、いえっ・・、無理だったらいいんです・・』
次郎の帰還を待っていたのは、家族だけではなかった。次郎を取り囲む全ての者が、それを待ちわびていたのだ。
『判りました。次郎に、ちゃんと渡すわね・・』
不確実な約束を、気丈に春代は交わした。
泣き腫らした顔を隠すように、久美子が早坂家を後にした。何度も春代のことを振り返りながら、小さく消えて行った。
突然の守山久美子の訪問は、春代にとって心温かくも、余りに残酷な約束事でもあった。
春代の手の中にある、久美子から託された手紙と小さな包みが、とても気になって仕方なかった。
卓袱台の上に置かれたものの、どうしようもなく、そわそわしてしまうのだ。
『次郎が帰ってから、渡すのよ・・、いい・・!』
そう自分に言い聞かせながら、立っては座ってはと、繰り返す春代だった。
『もう、次郎ったら・・。何にも言わないんだから・・』
下心を押し隠して、家事に没頭する春代の姿は、母親の本能を隠せずにいた。
しばらくして、愛娘の早苗が戻って来た。
『早苗、かえったよう!』
『おかえり!、早かったのね、早苗』
『だって、つまんないんだもん・・!』
『どうしたの?、お友達と喧嘩かしら・・?』
『あっちゃんも、ゆずちゃんも・・、大っきらい!』
『そう、大っきらいかあ・・。どうしましょう・・、ねえ、早苗?』
『いいよ!、もう遊ばないもん!。あっちゃんも、ゆずちゃんも、もうやだっ!』
『そうなの・・』
台所で今晩の支度をする春代は、早苗の可愛らしい不満に付き合っていた。
『早苗・・。明日は、仲直りしないとねえ。大切なお友達でしょ・・』
『いいの、もういいから!』
『まあ・・』
しばらく大人しくしていた早苗が、春代の割烹着を指で引いた。
『ねえ、おかあさん。むつかしい字ばかりで、早苗よめないよお・・』
『えっ?、何のこと・・』
振り返った春代に、数枚の便箋を手にした早苗が、それを差出していた。
『ああっ・・!』
早苗の手に取ったいたもの。それは、守山久美子から預かった、次郎宛の手紙だった。
『何してんの!、早苗っ!』
早苗の手からむしり取られた便箋には、少しだけ早苗の手垢が残っていた。
『もーう、なんてことするの!。早苗っ!』
慌てて便箋を纏めた春代は、きつい口調で早苗を咎めた。
『だって・・、だってえ・・』
途端に泣き始めた早苗を前に、春代は責任を感じてしまった。
次郎に手渡すはずの大切な手紙を、卓袱台の上に放置してしまった自分を、恥じていた。
『・・・。ごめんね・・、早苗。ごめんね・・』
早苗の頬に手を当てて涙を拭うと、優しく懐に早苗を寄せた。
『お母さんが、いけなかったのね。ごめんね・・』
『おかあさん・・、ういっ、ひっく・・』
『次郎兄ちゃん宛ての、お手紙なの・・。大切な人から預かったのよ・・』
そう言って、纏めた便箋を封筒に戻そうとした時、淡い紫色の包装紙から抜け出た小物が目に飛び込んだ。
『お守り・・?』
そっと拾い上げた春代は、しばらく動けないでいた。
それは、久美子の手造りのお守りだった。
『くみこ神社か・・』
次郎の手に渡るはずの、久美子からの贈り物は、この世でたった一つしか無い、“くみこ神社”と手書きされた、愛情溢れた、“お守り”であった。
封筒に全てをしまい込んだ春代は、大事にそれを箪笥に収納した。
台所に戻った春代は、変わらず支度を続けた。まな板にこぼれ落ちる春代の涙は、次郎と久美子の仕合せを悦んでいるようだった。