第15話 南方戦線の束の間
開戦間もない昭和十六年十二月二十二日には、ルソン島に上陸した第十四軍主力は、三万四千人の兵力を擁し、翌年一月二日にはフィリピンの首都マニラを占領した。
勢いづいた日本軍は、バターン半島を占拠。続く五月五日、コレヒドール島の戦いでも米比軍の全軍が降伏した。
米極東陸軍のマッカーサー司令官の姿は、この時には既になかった。ルーズベルト大統領の指示によりオーストラリアへと発っていたのだ。
マッカーサーの失策は、やがてこの戦いで得られた貴重な戦訓となるのである。
この当時、フィリピン南部のミンダナオ島では、日本軍圧勝の朗報に国中が酔いしれていた。
『平和なところやなあ・・。このままここに住んだらええな、俺ら』
『今のうちだけさ。アメリカが黙って引き下がる訳がないさ。そのうち大挙してやって来る。時間の問題さ・・』
『そなったら、どげんなっやろ?』
『飯の食い上げやろなあ・・。哲っちゃんの一番やばい死に方やろ?』
『蛾死か・・。さぞ苦しいだろうなあ・・』
『その腹が、骨と皮に変貌するんじゃ。何とも奇妙じゃのお』
『驚かさないでたもし・・。本気で心配しもす』
『大丈夫じゃ、そん時は真っ先に敵兵に突っ込みゃええんじゃ。即死じゃ、そしたら空腹の心配はいらんけえの』
『俺もその方がええな。潔く散る。これ以上痩せたら、ほんま格好悪いで!』
『そんなこと考えんなよ、山下。生きて還るよ、俺は。そう言って出て来たんだからな』
『次郎ちゃん・・。もしかして、恋人おんのん?』
『そういう意味じゃないよ、お袋にさ・・。お袋にちゃんと誓ったんだ。無事に還って来るってさ』
『おいも、誓いもした。おいの彼女に』
『哲っちゃん、彼女おんの?。ホンマに!』
『淡谷のり子みたいな、おぜ(可愛い)女ごん子です・・』
『ぷっっ!。ケケケッ・・!』
『笑い過ぎだよ、山下!。矢口さんに悪いだろ。竜さんも・・、なに涙溜めてんだよ』
『やっ・・!。ぷふうーっ!、誰か・・、止めてくれーっ。ははっっ!』
矢口の自慢話は、確かに皆を楽しませた。本土と変わらぬ笑い声が、南方の小さな島で響いていた。
『今晩の飯は何やろな?。肉食べたいのお・・』
『お前のお、働きもせんと贅沢言うなや。欲しがりません勝つまでは!。知らんのか?』
『聞いた覚えおまへんな・・。俺、一人っ子やし、いっつも食べ放題や』
『わっぜい、羨ましいことじゃ。おいん家じゃ兄妹がうえ(多い)から、早えもん勝っですわ』
『へえ・・、矢口さん何人いるの、兄妹?』
『七人兄妹です。おいが長男で、弟が三人、妹が四人いるとです』
『そりゃ大変だ。俺も弟と妹がいるけどさ、面倒見るの大変だもの。妹なんて、まだ五歳なんだ』
『そんじゃ、おいの下の妹と同じじゃねですか!。夕子って言うとです。ほんのこて(本当に)、むぜ(可愛い)とです』
『哲っちゃん!、何言うとんのか判らん。ぼちぼち標準語にせなあかんな』
『山下、お前が言うなや!。その口めがしちゃろうか?』
『めがす・・?。竜ちゃん、あんたのも判らんわ。それ日本語?』
『おお?、めがすって言わんかいな・・、普通』
『壊すってことだろ・・?、確か』
『ほれ見てみい、標準語じゃけえ。のお次郎!』
『いや・・、標準じゃないと思うけどさ・・。俺の家の近所に、広島出身のおじさんが居たんだ、それで何となくさ』
『それじゃ次郎、哲っちゃんの言葉も判ってんのかいな』
『ああ・・、雰囲気で、なんとなくさ・・』
『やっぱりそうや、東京かて田舎もんの集まりやさけな、何が標準語ってやあ!。あほらし』
『何だよ、山下。敵対心か、それ?』
『そんなんちゃいます・・』
『竜さん、絞めていいよこいつ』
『おっしゃあ!。任せんさい』
『止めときや・・!。冗談やんけ。なあ次郎ちゃん・・、ほんまや・・』
日本から遠く南方の地で、若人の笑い声が響いていた。やがてその声が悲鳴へと化けてしまうことを、今は、誰も気付いてはいなかった。
米軍との大規模交戦は、暫く沈黙を保っていた。
しかし、フィリピン・ゲリラの容赦ない切り込み戦に、昼夜、油断出来ない日々が続いていた。次郎たちの所属している第三十師団は、隷下三個歩兵連隊のうち二個をレイテ島へ派遣しており、事実上、戦力は半減していた。
そんな緊張を他所に、い組の爛漫さは他の部隊から見ても異質な存在であった。
『なんて書いたんや?、次郎』
『内緒・・。勿論、言うつもりもないけど。おまえさ、いちいち聞くなよな、黙って書けよ!』
『せやけど、どう書いてええんか判らへんねん・・。今更・・、手紙なんてなあ・・』
『近況を書けばええんじゃ!。“元気です”。それで済む!』
『竜さん・・、それは端的過ぎやしない・・』
『おいは、兄妹一人一人に伝えようと思いもす。兄ちゃんは、頑張っておるっちゅうて!』
故郷への手紙を、それぞれの想いを込めてしたためていた。
『ちょい、見せてみい』
『やめろよ!、おい、山下っ!』
次郎の書きかけの手紙を、無理矢理取り上げて、山下が朗読を始めた。
『母上殿、・・そして四郎、早苗。元気でやっていますか。・・・私は、ここミンダナオの地で、毎日、相手部隊の襲撃を見張っています。・・』
『やめろってっ!!』
山下の手からもぎ取った手紙を、次郎が不機嫌に折り畳んだ。
『なんや・・、家に宛てた手紙かいな・・』
『あのね・・、誰だったら良かったんだよ!。おまえの都合で書いてるんじゃないんだ、変に刺激するなよ!』
『・・・。そない怒んなや・・、冗談やて・・』
唯一の音信だった。祖国を離れた兵士たちの伝えたい思いは、それでも自由には表すことが出来なかった。不適切な文言は、軍の担当により墨で潰され、画一的な手紙として本国に送られていた。
それでも、伝えたい気持ちは旺盛だった。生きていることだけでも、知らせたい一心であった。
『来年な、娘が小学校に上がるんじゃ。ようやっと、一段落やなって・・、女房と話をしたばかりじゃ・・』
『ほな、絶対、生きて帰らんとあかんやんか、浜野さん』
『・・・。そうじゃ、そうに決まっとるわ。生きて帰るよ!、わしは』
『はは・・、おれも、婚約者がおるから・・、帰ろうかな・・なんてね・・』
『福ちゃん!、そんな娘おったんか・・?。そりゃ、楽しみやの』
『可奈っちゅうんや、ごっつう可愛い娘なんや・・』
『そうか・・。それじゃ約束じゃ!、福ちゃん。お互いに生きて帰ろや!』
『当たり前やろ!。そう言いながら、浜野さんこそ、約束破んなよ!』
『お前こそ・・』
故郷に宛てた手紙には、つたない程に、精一杯の強がりが埋めつくされたに違いない。
この時代の郵便事情は、残念なことに到着日が確定されていなかった。ましてや、南方の地に於いては、届くことさえ至難とされていたのだ
そんな余裕も束の間。ミンダナオ島の日本軍には、次第に緊張感が迫っていた。レイテ島への派兵で手薄になっていたこの島に、米比軍がじりじりとその勢力を延ばしていたのだ。




