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蝉しぐれ  作者: GUN
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第1話 戦地からの手紙


その日の朝も、追い立てるように激しい蝉しぐれが降り注いでいた。八月初旬。

蒸し暑さの元凶は、今日も、容赦なく大地を灼きつけた。

洗い立ての洗濯物を抱え、庭先で汗ばむ額を拭う母親の姿。朝食を終えた子供たちは、元気に学校へと駆け出した。


『お母さん、行ってきまーす!』

『四郎!、忘れ物ない?』

『大丈夫、今日は!』

『早苗は?』

『わかんない・・』

『わかんないじゃあ、ないでしょ!。ちゃんと見たの?』

『だってさ、よくわかんないんだもん・・』

『四郎、見てあげてよ。ねえ』

『ええっ!、おれが?。急ぐんだけどなあ・・』

『早苗、お兄ちゃんに見てもらって。いい?』

『ちぇっ、ほら見せろよ!。早く』

『引っ張っちゃやだぁ!、やめてよぉ』

『いいから!』

四郎が乱暴に、妹の早苗の布製のかばんを取り上げた。中身を覗くでもなく、そのまま床にばら撒いた。


『おまえ、なに入れてんだよ。おもちゃばっかじゃないか!。お母さん!、早苗ってさ、ダメだよ。教科書も入ってない!』

『もう、何をやってるの・・。早苗、こっちへいらっしゃい』

『はーい』

まだ無邪気に、母親に抵抗出来ない年頃の娘は、その母親の声に従った。


『あのね、早苗。今日は、学校の授業があるって言ったよね、ゆうべ、おかあさん』

『だって、忘れてたのよ・・。早苗』

『嘘おっしゃい。いつもでしょ、そうやって早苗はとぼけているの』

『母さん、おれ、もう行く!』

『あっ、ごめんね四郎。気をつけてね!』

四郎が慌てて玄関を飛び出した、その時だ。


『危ねえっ!!』

“ドンッ!”。野太い男の声が、玄関中に響いた。


『四郎っ、大丈夫か?、気をつけろよ、なあ』

『ごめん!、おじちゃん』

『お袋さんいるのか?、春さん!、手紙だよ、孝行息子からだぜ!』

驚いて、玄関先に駆けつけた母親が、安堵の声で応えた。


『ああ・・、政さん。ありがとう。次郎からなの!、本当に?』

『今朝の東京も暑いが、次郎の行ってる南方は、相当暑いだろうな・・』

『政さん、早く!、ちょうだい』

娘へのお説教を中断して、母親は息子からの手紙を、その男の手から毟り取った。

男の口にした、“南方”では、日本軍の東南アジア及び、太平洋各地への攻略作戦が進められていた。

昭和十九年八月、局面は厳しさを増していた。湿地帯でのゲリラ作戦は、想像を絶する戦いを繰り広げていたのだ。米国を中心とする、連合軍との過激な銃撃戦は勿論、その実、病魔との闘いが熾烈さを醸していた。

銃弾に倒れるより先に、はるかに大勢の若者が、病原菌の餌食となっていたのだ。

その、“南方”へと赴いた我が息子、次郎からの手紙に、母親が飛びつかない訳がない。


『お兄ちゃんから!。お母さん、そうなの!』

四郎にしても、嬉しさを隠しきれないでいた。

『読んで、読んで!』

それに乗じて、早苗が、母親の腰周りにしがみついた。


『待ってよ、今開けるから』

用心深く、素手で封筒の端をちぎっていく。皆心配そうに、母親の指先に直視した。

封筒めがけ、“ふっ”と、息を送り込んだ母親は、幾分、微笑ましげにいた。

封筒から取り出した便箋は、幾度も折り返した跡が残されていた。


『まあ・・、粗末に扱われたのね・・。次郎らしくないわね・・』

『どうしたの?、お母さん。早く、早く!』

『はいはい・・、さあ、読むわよ、いい!』

大きく深呼吸を繰り返した母親は、“凛”と、背筋を伸ばし拝読した。


『母上殿、そして四郎、早苗。元気でやっていますか。私は、ここミンダナオの地で、毎日、相手部隊の襲撃を見張っています。東京とは、比べようもないほど暑くてたまりません。しかし、お国のために戦う訳ですから。弱音など、ご法度です。勇敢に戦う私を、皆、誇りに思ってください。―――――』

読み進むうちに、母親の目からは今にも、涙が溢れ出そうとしていた。懸命に堪えているのだろう、その口元から笑みは消えてはいなかった。

南方戦線の戦況は、国内へは正確には伝えられてはいない。次郎の手紙から、やっと読み取れるくらいの、そんな僅かなものだった。


しかし、随分と前にしたためた手紙に違いない。元気を、無事な姿を伝えてはいるが、そこは紛れもなく、“戦地”なのだ。

“我が国は必ず勝利する”。根拠の無い精神立国の末路を、このときはまだ、誰も疑う余地

などなかった。


『お国のためになんて・・。随分、立派になったこと』

息子の安否を気遣う前に、母親は次郎の成長を、幾分か喜んでいた。


『ねえ、続き読んでよ、お母さん!。お兄ちゃん、拳銃持ってんのかな?、敵をやっつけたのかな?』

『そりゃあ皆殺しに決まってるさ、次郎だって男なんだからよ!、伊達に金玉ぶら下げてんじゃねえぞ、なあ、春さん!』

『・・・。政さん、そんな話、子供の前でしないで!。乱暴だわ・・。それより二人とも、早く行ってらっしゃい。遅刻しちゃうじゃない』

『手紙わぁ・・?、次、聞きたいよ、おれ!』

『早苗だって、聞きたい。だって、おにいちゃん、早苗のことも書いてあったもん』


『帰ってからね。ちゃんと読んであげるから、ねえ、お願い・・』

『ぜったいだよ!、お母さん』

『はいはい、約束するから。急いで!、ほら』

追い立てるように、子供たちを見送った母親は、次郎からの手紙をそっと、胸に当て、目を閉じた。


『どうしたよ春さん。続き、読まねえのか?』

『こうしていたいのよ。しばらくはね・・』

『そうか、仕方ねえなあ。そいじゃあ行くわ、俺』

『どうして?、政さん、次郎の手紙そんなに読みたいの?』

『まあ、読みたいって言うか、何て言うか・・。そうだな・・』

『じゃあ、読んで!。その代わり、大きな声で朗読してよ』

今度は、政とやらの胸に、その手紙を押し付けた。


『いい、大きな声よ。あの蝉たちが驚いて、逃げ出すくらいのね。おおきな声!』

『・・・。はいっ!、不肖、荒熊政男。母親の春代に代わって、僭越ではありますがっ!、拝読させていただきますっ!!』

とんでもない大声が、近隣に響き渡った。


“ジジジ・・ジッ”、政男の馬鹿でかい声に、堪らず、数匹の蝉が一斉に疎開を始めた。


一瞬、その様子に驚いた春代が、間をおいてから吹き出した。


『やだあっ!、政さん・・。馬鹿みたいに・・。もーうっ』

『いやーっ・・!、俺もたまげた!。実際、あるもんだなあ・・』

『あーーっ、可笑しい・・。待って!、お腹ちぎれそうだわ・・、はあっ・・』

久し振りの、笑い声であった。暗く混沌とした生活の中で、戦時中と云う慎み深い世情を背景に、人間そのものが崩壊しつつあった。


『はぁ、はぁっ・・。もう、政さんったら、間抜けなんだから。でも、ありがとう。久し振りにすっきりしたみたいだわ。さすがってとこね・・』

『ああ、まんざら俺も、人様の役に立ったって訳だ。生きててよかったねえ!』

『縁起でもないこと言わないで・・。つまんないこと考えちゃうでしょ!』

『そんな意味で言ったんじゃねえよ・・。でも、悪いな。そうだよな。洒落になんねえ時代だよな』

『ねえ、続き読んで、早く!』

『春さん読んでくれよ、調子狂っちゃったぜ』

『そう、いいわよ貸してちょうだい』

政から受け取った手紙を、春代が淡々と読み始めた。少し鼻に抜ける春代の声は、甘さを漂わせる独特の旋律を奏でていた。


『・・・戦友の励ましが、私の心の支えとなっています。共に勇敢に、お国のために散って行くんだと、覚悟を誓い合っています。僅かばかりの私たちの命が、日本国の、勝利のお役に立てるの成らば、私たちはそれを望むばかりです・・・・』

最後まで読もうとしていたはずが、春代は何故か途中で止めてしまった。


『こんなに素直な、いい子じゃなかったのに・・。書かされたのね、きっと。でも、うれしいわ。次郎の描いた手紙に間違いないもの』


『立派なことを言う、男子になったもんだなあ。一郎が生きてればよ、きっと喜んだだろうにな・・』

『そうね、まだ小さかったものね。次郎』

『目元なんてよ、あいつにそっくりなんだぜ。知ってるか?』

『・・・、知っていますとも。あの子のことは全部、わたしの中にあるわ・・』

二人の会話で察しがつくことだろう。そう、次郎の父親は既に他界していたのだ。


『ところで政さん、時間大丈夫なの?。局長に叱られない?』

『やべっ!、すっかり忘れてた。そういやあ俺、仕事中だったわ・・。春さん、また寄るから。ねっ!』

『ありがと。政さん、いつも助かるわ』

『いつでも呼んでくれていいんだぜ!。遠慮なくな!』

首に巻いた手拭いを、さっと風にくぐらせて政男が立ち去っていった。ぎこちのない足元を引きずるような、奇妙な歩き方をしていた。

荒熊政男。亡くなった次郎の父親であり、言うまでもなく、春代の亭主でもあった一郎の、学生時代からの旧友である。

大柄の、一見、強面の政男ではあるが、彼も戦争の犠牲者だった。

戦地で右足を奪われ、義足の生涯を余儀なくされたのだ。そんな政男の後押しも手伝って、春代たちの生活は、安泰を保たれていた。


『あらやだ、洗濯物忘れてた・・!。人のことなんて、言えないわよねえ・・』

そうぼやきながら、春代が物干し台に向かおうとした時だ。手元の手紙が、はらりと春代の手から放れた。


『あっ・・!』


次郎からの大切な手紙が、緩やかに地にかぶさった。


『ごめんね・・、次郎』

そう言って、拡がった数枚の便箋を拾い集めた春代の手が、一瞬、止まった。


『スケッチ・・?』

便箋の間に埋もれていた、一枚の絵が目に映った。

その絵を、降り注ぐ太陽の光に当てながら、春代はじっと見入っていた。


『相変わらず・・、下手ねえ・・』

その絵は、次郎の描いた水墨画であった。

粗末な筆の先で描かれた、戦友たちの無邪気な姿を描写したのだろうか、笑った顔の男達の素朴さが、褪せた便箋に遺されていた。


『楽しそうな、お友達ね・・』


息子の描いたその絵を、しばらく眺めて嬉しそうに三つ折りに畳むと、さっと胸元に差し込んで、迷いを断ち切るように洗濯物を取り込み始めた。

戦地からの息子の手紙は、さぞかし母親の気持ちを宥めてくれたことだろう。

そんなひと時も束の間。母親の責務を全うするために、家事に、子育てにと煩雑な毎日を送らなければならない。

父親が居ないのを負い目と感じたくないのだろう。気丈そうに振舞う癖が、彼女にとっては当たり前になってしまっていた。とは言え、この時代の母親は、少なからずそうやって自分を奮起させて生きているのだ。


彼の戦地では、もっと過酷で辛い非日常が、存在している。健気なる使命感を武器に、生死を分けた昼夜の無い戦いが、続けられているのだ。

そのことを思うと、選択の余地などあろうはずがない。必死に堪え忍ぶしか、今は、術はないのだ。

このことは、我が国に限ったことでは無い。世界中の多くの民衆が、狂った時代の犠牲者となっていたのだから。


“戦争ほど悲惨なものは無い”。人類のかけがえのない生命が、意味も無く押し潰されようとしているのだ。

円満な早期終結の智慧を、誰か持ってはいないものだろうか・・。

泣いてください。

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