07
釉妃が目を覚ましたのは、質素でいて小さな小屋の様な家とも言えない家のみすぼらしい寝台の上だった。
身体を起こそうにも、腹部や上半身に走る鈍い痛みのせいか儘ならず、手を動かそうにもその肝心の手の感覚さえない事に、初めて釉妃――懍砡は、自分の身体の身の憶えのない不調に狼狽した。
確か自分は夜明け前に李明宮を抜け出し実家に戻る途中であったのに、ここはその懐かしい我が家でもなければ、自分が管理を任されていた宮の一室でもない。
辛うじて動作が制限されていない視線を動かせば、寝台の傍の簡素な椅子に腰を掛け、己の手を握っている宦官と、どう贔屓目で見たとしても仙人としか言えないような老人が船を漕いでいたが、懍砡はその老人が何故かとても懐かしく思えてならず、暫くの間不躾にもじっくりと眺めた末、ようやく得心した表情を顔に浮かべるなり、宦官の青年によって握られていた手で、その青年の手をなんとか握り返すなり、己が目覚めた事を知らせ、身体を起こして貰うのを手伝って貰った。
「お目覚めですかな?お妃様」
ああ、やはり。
懍砡は仙人にしか思えない老人の声を耳にするなり、懐かしさのあまりもう何年も前に失ってしまっていたと思われていた微笑みを浮かべていた。
彼は懍砡が第七皇太子妃であった時から李明宮の主になるまで世話になった元宮廷医であった。それが何の理由からかいきなり宮廷を追われ姿が見えなくなり、長年心配していたのだが、こんな処に隠れていたとは。
彼がいた頃は確かに自分は幸せだったと、懍砡はもう戻らない過去に想いを馳せつつも、何故ここに自分がいるのかを訊ねてみる事にした。その間にも宦官である青年――慧迦は、懍砡の身体に巻かれてあった包帯を解き、微温湯に漬け固く絞った布で身を清め、また包帯を新たに巻き、せっせと身の世話をしていた。
「――なるほど、では私はその男に殴られ、蹴られた事で気を失ってしまったと言う訳なのですね?」
「そうなりますな。李歌殿」
――李歌。
それは懍砡の別称であり、懍砡の近くに何か危険が迫っていたり、正体不明の何者かが忍び寄っている時に使う暗号でもある。釉妃はそれを判っていた。だからこそ今まで何とか生き延びて来られていたのだが。
「どうやら私は本当にこの国に必要とされていないようですね、露老師。」
密やかに、それでいて悲しげに微笑んだ釉妃は、まるで何れ消えゆく草露の様な笑みだったと後に語られる事となる。