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六純は無事に梁麗の地に足を踏み入れる事が実感できた瞬間、それまで感じていた幾許かの緊張感と居心地の悪さから解き放たれ、払拭できたことに思わず心の底から安堵の溜息を吐いていた。
理由は言わずと知れる、かつての敵国である莉迂帝国から下賜と言う形で貰い受けた妃の一人、釉妃の存在である。
六純が知る彼の国の妃や、己が敬愛すべき皇帝に侍る女達とは違い、釉妃はまるで真夏の昼に稀に見られる蜃気楼の様な、全く掴み所のない生きた人形のような存在だった。
こちらが話かければ彼の妃は微笑んで返事や相槌は返すが、その他は彼の国から唯一連れてきた麗しき宦官相手に話をしているだけで、こちら側が意図的に話し掛けなければ、彼は一日中存在していないモノかの様に扱われていた。
莉迂国を出たばかりの頃は、こちらを厭うているのだろうと釉妃のその態度を苦々しく思いながらも耐えてはいたが、時が過ぎ、日が経つにつれ、それは全くの勘違いで、何とかの妃はそれが普通だと信じ、一切の疑いを持っていなかったというのだ。
それを聞いた時は流石の六純もただただ脱力した。
脱力するしかなかった。
「まぁ、蔡様は苦労性なのですね。あちらでは気苦労が絶えなかったのではありませんか?」
「はぁ、そうですね。今は同盟を結んだとはいえ、まだまだ我が国と彼の国は根底では緊張状態にありますから。気は抜けませんね、って、釉妃様!?」
ついつい本音を零してしまったが、その本音を上手く導き出したヒトに、六純は驚きと共に、幾分かの恐ろしさを覚えた。
ここは彼が己が主と定めた梁麗の国主である皇帝が執務を執る、いわば国の心臓とも言える中枢たる部屋だ。なのに、なぜ先程後宮に案内したはずのこの妃が此処にいるのだろうか。例え運良くここに辿り着けたとはいえ、部屋の前には屈強な兵士がいるはずで・・・。
「そんなに驚かなくても良いではないですか。これでも私は莉迂国で、あの戦から生き残った、たった一人の妃です。粗方の作法は習得済ですわ?」
それは、いわばいつでもこの国の皇帝の命をも狙えるのだという宣戦布告とも取れるモノではあったが、当の妃たる女性は、至って朗らかな邪気のない微笑みで、六純を翻弄した。
結われていない背に流しただけの黒髪の彼女は、彼女の国にいた時より生き生きとしていて、瞳には明るくも強い意思を宿している。
なんと美しい人なのだろうか・・・。
まるで至高の花の蜜に誘われたかの様に、六純の手が釉妃へと伸ばされた時、その音は部屋に盛大に木霊した。




