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莉迂国は皇都・立花、李明宮。
そこは時の皇帝・絽 霙明の妃妾が住まう、莉迂国の後宮の宮の一つとして、帝国の内外に広く知られていた。
では、実際に誰が住んでるのか、と、尋ねられれば、答えられる人物は誰一人としていなかった。――そこに長年実際暮らしている妃と、その妃に仕えている女官たち以外は。
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「釉妃様、本日は如何なさいましょうか。」
そう部屋付きの女官に尋ねられたのは、ここ、李明宮の唯一の女主・正ニ品の地位を頂いている九嬪が一人、釉家は三女・ 釉 懍砡妃、齢28歳の今が女盛りのどこか凡庸とした女性である。
彼女がこの国の皇帝の後宮に入ったのは、彼女の年齢が10になった初夏の頃で、それ以来、皇帝とは今年で18年目の腐れ縁となる。
入宮した当初こそ、当時は第七皇子でしかなかった現皇帝の唯一の妃だったが、世の常と言うべきか、宿命とも言うのか、彼女が嫁いできた翌年、この莉迂国は、当時の皇帝が倒れたことで熾烈な跡目争いが起こり、国土は荒れ、多くの血が流れ、また、多くの命が露となり散った。そこで動いたのが、彼女の夫たる第七皇子、路 霙明、その人だった。
彼は生来から争い事を好まなかったらしく、武より知識を尊び、皇位継承者から一番遠い地位にある事から、自分は後々この国の学者になるのだと、いつも穏やかに微笑んでいた。
それがである。
皇帝が毒を盛られたことで勃発した跡目争いのせいで、彼は彼が最も忌避していた武で以て、自ら陣頭指揮を執り、戦う事で、四年にも及んだ内乱を鎮圧し、内乱を起こした異母兄や、その兄達に与した貴族や親族を情け容赦なく粛清していき、最後には当時皇帝だった父帝から願われ、帝国民たっての嘆願により、懍砡の夫が帝位に就いてしまった。
自分はあの時に実家に帰るべきだったと、懍砡は今でも思い、悔やんでいる。そうであれば、こんな広いだけの不自由で窮屈な鳥籠に閉じ込められずに済んだのに、と。
だから彼女は今は何に対しても常に無気力なのである。
そんなやる気のない懍砡を、彼女が第七皇子妃だった頃から仕えてきた古参の女官達は、懍砡を心の底から憂い、案じている。
このままでは自分達の主はいつしか自分達を捨て、神殿に身を捧げてしまうのではないか。
いや、もしかしたら主は妃であることを辞し、誰かに降嫁してしまうかもしれない。
自分達は皇帝により公金で雇われている女官で、主の私的な使用人である侍女ではない。だから万が一そうなってしまたのなら、自分達は主人に着いて行けない。
そんなことは認められない、認められる訳がない。
自分達の主は釉妃だけである。
釉妃以外には、例え皇帝直々の命であったとしても、他妃に仕えてなるものか。
もし命じられたのなら、女官を辞し、侍女になってやる。
そう心の底から真剣に思いつめるほど、李明宮達の女官は自分達の女主人たる、釉妃に心酔していた。
一方のその当の本人である釉妃こと、懍砡は、女官達の心配と不安をよそに、花茶を啜り、焼き菓子に手を伸ばしていた。
今の彼女は、李明宮を預かっているだけの【昭媛】と言う名で地位の後宮の番人でしかない。
子供は跡目争いの最中、現皇帝の唯一の足枷であった自分を邪魔に思った人物に盛られた毒により胎内で殺され、その胎児を体外に出す際に、生死の境を彷徨うほど多量に出血したことの副作用により、二度と子を孕むことが難しい身体になってしまっていた。
この事実を知っているのは、実家の年老いた父母と、懍砡の主治医を長年勤めている寧侍医だけである。
「釉妃様、ご在室でしょうか。」
懍砡がお茶を啜り、焼き菓子を食む音しか響いてなかった室に、突如として聞こえてきた一人の男性の声。
その声はまだ幼く、年若い。
なれば。
「えぇ、居るわよ。遠慮せずに入ってらっしゃい、慧迦」
紅い衣に華奢な身を包んだ、青年でありながらも妃である懍砡よりも、美しくも麗しい中に色気が混在している人物が、艶々と輝く漆塗りの文箱を掲げ持っていた。
その青年が持っている文箱を視界に入れた瞬間、そのほんの一瞬だけ、懍砡の瞳が不安げに揺れ動いた。しかし、そのかすかな心の動きを察知できる人物はいなかった。
それほどまでに李明宮の女主人は仮面を被り、心を偽る事に慣れ過ぎていた。