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どきどきしっぱなしだった古典授業のあと、思いがけないことがもう一つあった。学校からの帰り、毎日利用する家からの最寄り駅で、新田くんとばったり会ったのだ。
「珍しい。」
お互いに言って、あたしたちは笑った。
新田くんは野球部で、あたしは生徒会。どちらもおそくまで活動していることもあるけれど、意外と帰宅時間は重ならないのだ。二人とも利用する駅は一緒なのに、こうして帰りが同じ時間になったことは初めてだった。
「何、部活だったの?」
一緒に改札を出てから、あたしたちは自然に並んで歩き出した。ご近所さん同士、帰る方向が同じだ。
「ああ。……期末直前だから、監督が早めに終わらせてくれたけどな。」
そういえば、まだ夕日の沈みきらないこの時間帯は、いつもの野球部が練習を終えるには少し早い。新田くんは、西日に目を眩しそうに細めた。これがものすごく睨んでいるように見えるから、彼は損なんだろうな。
「――そっちは、今日も古典の勉強か?」
「うん。」
あたしはへへ、と笑って額をかいた。
「最近ね、結構できるようになってきたんだよ。ちょっとずつ、おもしろみもわかってきたし。」
「へぇ。」
新田くんが、ちらりとこちらを見た。あたしは得意になって言う。
「古典ってさ、結構、言っていることに共感できる時があるんだよね。今の感覚と近いっていうか。特に恋の歌なんか、あーわかる、って思うもん。」
そこまで言ってから、はっとした。――しまった。恋、だなんて。しゃべりすぎた。
今のあたしでは、過剰反応してしまう言葉だ。
一人でどぎまぎするあたしには気づかず、新田くんは前方を向いたまま、独り言のようにぽつりと言った。
「――俺は、古典に共感は、したくない。」
あたしは、ぽかんと新田くんの横顔を見上げた。
「え、どうして?」
「百年も千年も前の人間と、考えることが同じなのは、何となく嫌だ。
……自分が、まぬけに思える。」
それに、と彼は淡々と続けた。
「古典の恋の歌は、かなわないものが多いから。」
――確かに、そうだ。
新田くんの意見はあたしとは違うけれど、すんなりと納得のいくものだった。
確かに、何百年も前の人々に共感できるなんて、人間って内面は全然進歩しないってことだ。そして古典の恋の歌は、忍ぶ恋、片想いが多い。別れたり疎遠になったり。恋の喜びを詠んだ歌は、少ないのだ。
ふと、この間勉強した古今集の一首が思い浮かんだ。なんとなく好きになって、覚えた歌。
紅の 色にはいでじ 隠れ沼の 下にかよひて 恋は死ぬとも (紀友則 古今 661)
初めて目にしたときに、恋が死ぬ、という表現が斬新に思えて、気に入ったのだった。けれど小野くんの解説によると、「恋は死ぬ」とは「恋死ぬ」、つまり人を恋しく思うあまり死んでしまう、ということらしい。
間違った解釈から好きになった。それでも、この歌が心にひっかかるのは変わらない。たとえ死んでも、絶対に自分の恋を表に出さない、だなんて、なんて決意だろう。
どうして言わないのかな。プリントの助動詞識別問題を解いているときはわからなかったけど、今なら……少しだけ、わかる気がする。
――片想い、かぁ。
「……そうだね、確かに。おもしろみだけ感じるんじゃないもんね、共感しすぎると。」
その人の苦さまで味わってしまうのだ、自分の影を映して。その歌自体は、ずっと昔のことなのに。
何かずんと考えこんでしまいそうになったので、あたしは慌てて声を明るくした。
「まぁ、下級役人にはまだまだ、古典の本当のおもしろみを理解するなんて、到底無理だけど。」
平安のお姫様じゃあるまいしね、とあたしがおどけて言うと、新田くんはふっと笑った。
「――下級役人の方がいい。お姫様より。」
「……そうかなぁ。」
あたしは内心少しだけ不満で、首を傾けた。
自分でも、似合っているのは下級役人の方だと思うけれど。でも何となく今は、そう人から言われたくなかった。
「お前が下級役人で、俺がもののふなんだろ。お前の妄想の中では。」
「……うん。」
それがどうしたんだろう、と思いつつも、あたしは頷いた。呆れられるばかりだと思っていたけれど、新田くんは意外にも、あたしの変な空想世界につき合ってくれる。昔したらしいごっこ遊びも、こんなふうだったのかもしれない。
「もののふは、宮中だとか都の警備をしているんだよな。」
「うん。」
そんなことが教科書に書いてあった気もする。
「役人は、毎朝自分の役所に出仕するわけだろ。」
「うん。」
「なら、毎日会える。」
あたしは、隣を歩く彼を見上げた。新田くんはいつもと変わらない愛想のない顔でこちらを見て、すぐにまた前方へ視線を戻した。
「役所の門前で警備とかしているんならな。……でも、お姫様じゃそうはいかないだろ。昔は、そういう人は外に出なかったんだろ?」
「……なるほど。」
あたしはあごに手をあてて、ううむと感心した。新田くんの考え方って、なんか新鮮だ。あたしには思いつかないことで、そして筋が通っていて納得できる。しっかり独自の価値観をもっているんだな。
「……なんか、それもいいね。」
あたしはおもしろくなって、くすくす笑った。下級役人でも、楽しい空想が広がる気がする。下級役人は朝早く出勤して、仕事場に着いたら仲のいいもののふにおはようと挨拶して、一日を始めるのだ。それって確かに、お姫様にはできない下級役人だけの楽しみだ。
そんなバカな空想をしながら、あたしはふと思いついて、新田くんに尋ねた。ずっと疑問に思っていたことだ。
「――ね、新田くんは何で美化委員になったの?」
もののふを連想させる強面な彼と、校内美化につとめるきれい好きの多い委員会とが、あたしにはどうしても繋がらないのだった。新田くんはそれを聞くや、ぐっと渋い表情になった。
「……俺が美化委員で、何かおかしいか。」
「おかしいっていうか、……あんまりイメージにないから。」
気がつけば、夕日は沈んで空には光のすじだけが残っていた。まだまだ、十分明るくて夜には早い。あたしの家も目前で、到着まであと少しだ。そこであたしは、ふと何か引っかかりを覚えた。
「実は、掃除とか好きだった?」
「いや、別に。――美化委員会に、特別入りたかったわけじゃない。」
「じゃんけんに負けた、とか?」
「違う。立候補した。」
何なんだ。よくわからなくて、あたしは首をかしげた。立候補したけど美化委員会に入りたかったわけじゃない?それって、どういうことだろう。
新田くんはあまりしゃべりたくなさそうな様子だったけれど、疑問符をたくさんくっつけたあたしの視線に押されたようだった。結局は、首の後ろをかきながら、ぼそっと早口で白状した。
「――ただ少し、生徒会の近くに行けるんじゃないかって思ったんだ。」
そこで、あたしの家の前に到着した。足を止めたあたしは、さっきの引っかかりの正体にやっと気づいた。
そうだ、彼の家。あたしとご近所さんだけれど、新田くんの家は一つ違う通りにある。ここまで来てしまったら、いちいち引き返さなければならないはずだ。
今さらになって驚いて、あたしは彼を見上げた。
――わざわざ、送ってくれたのか。
「じゃあな。……試験頑張れよ、朝子。」
新田くんは相変わらずのムスッとしているように見える顔で、それだけ言って踵を返した。あたしと歩いていた時よりも速く、ずんずんその背は遠ざかる。あたしはやや呆然としながら、それを見送った。
――ゆーくん、変わったな。
ふと、そう思った。新田くんは、もう小学生の時とも中学生の時とも、違う彼なのだ。体も大きくなって、声も低くなって、そしてたぶん、――優しくなった。
何故だか胸がいっぱいになって、あたしはしばらくそのまま立ち尽くした。
懐かしいのか、嬉しいのか、少し寂しいのかわからない。ともかく何かで、息がつまるくらいいっぱいになった。
少し夜が濃くなったのに気づいて、あたしはゆっくりと我に返った。ふと空を見上げると、まだ少し明るい藍色の中に、星が一つだけ輝いていた。
お読みくださり、ありがとうございました。