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小野くんとのやり直し古典授業は、議会が無事に終わった次の週、7月が始まる週にすることになった。
学校内はテスト前特有の、ぴりぴりと落ち着かない雰囲気に満ちている。議会が終わってほっと一息、身軽になったあたしも、遅まきながらテスト勉強に本格的に身を入れ始めた。期末試験は特に、教科数が多くててんてこまいだ。範囲だって難易度だって、中間の時より増している。
正直なとこ、本当は古典をやっている時間なんてない。でも、あたしは自分からこの特別授業をやめる気はなかった。
もう必要ないなんて言わないと、約束したのだから。
「藤原さん、正解率上がったね。」
プリントの丸つけをしていた小野くんがふいに、感心したように言った。
「えっ、本当?」
誤答の見直しをしていたあたしは、それで勢いよく顔を上げた。そんなことを言われたのは、初めてだ。目を丸くするあたしに、小野くんが笑いかける。
「うん。簡単な識別問題とか、間違えなくなった。内容把握はもう少しだけど、現代語訳も前より自然になってきたし。」
よっしゃあ!
あたしはあまりかわいくない喜びの声を上げて、こぶしをぐっと高く伸ばした。あたしの古典力も少しは成長したんだ。あたしだって、やればできる子なんだ!
「嬉しい。実は最近、古典もちょっとおもしろいかも、って思い始めてたんだ。」
「うん。それ、すごくいいと思う。」
あたしと小野くんは顔を見合わせて、苦労を分かち合った者同士の笑みを交わした。
「期末、いけるかな?」
「大丈夫だ。」
小野くんはこっくり頷いてくれる。彼のお墨付きをもらったら、あたしも心強い。中間テストよりは、期待できるかも。
小野くんが、ふうっと息をはいて言った。
「すごいな、藤原さんは。……理系で、しかも生徒会だって忙しかっただろうに、本当にちゃんと古典頑張ってるんだもんな。」
小野くんに褒められると、すごく照れくさい。感心してくれている彼こそが、あたしの古典に対するモチベーションの源泉なのだ。恥ずかしすぎて、そんなこと絶対に言えないけれど。
「いやいや、別に、そんなには忙しくなかったから。」
「でも、ノブが言ってたよ。先週まで議会があって大変だったんだろ?」
ノブ会長から聞いたのか、とあたしは納得した。
「――ああ、やっぱり小野くんって会長と友達なんだね。」
「うん、去年同じクラスでさ。たまに藤原さんのこととかも話すよ。」
あたしのこと?ぎょっとした。
「まさか、生徒会での失敗談とか……?」
おそるおそる聞くと、小野くんは軽く笑った。
「それもあったかも。――あ、」
小野くんは急に真面目な表情になって、すっと姿勢を正した。
「そういえば、ノブから聞いたんだけど。藤原さん、この間議会の前日だったのに、この古文勉強会のために生徒会わざわざ休んだんだって?……なのに俺が流しちゃって、本当にごめんな。」
「え、いや、全然いいよ。」
あたしは慌てて、手を振って言った。小野くんは申し訳なく思ってくれるけれど、あれは仕方ないことだし、改めて謝ってもらうようなことじゃない。それよりも、あたしは別のことで内心冷や汗をかいた。
――会長に、バレている。あたしが生徒会を休んだ理由。
あたしの頭の中で、あの黒ぶち眼鏡がにやにや笑った。急いでその顔を追い払う。
「テスト前なのに今日こうやってみてもらえて、むしろあたしは大感謝だよ。
――下級役人がちょっとは出世したのも、小野くんのおかげ。」
小野くんはきょとんとした。
「え、役人?」
ああ、とあたしは苦笑した。あたしの変な空想のこと、小野くんにはそういえば話したことがなかった。くだらないことだけど、と断ってから説明する。
「小野くんが上達部だったら、古典の実力的には、あたしは下級役人だってこと。変な思いつきだから、気にしないで。」
なるほど、と小野くんは苦笑した。そして、ふと思いついたように言う。
「――でも、藤原さんなら役人よりは、女官とか姫が妥当じゃないか?」
まさか。あたしはぶんぶん首を振って否定した。
「姫だなんて、あたしには無理。柄じゃないっていうか、似合わなさすぎるよ。」
「そうかな。下級役人よりは、合ってると思うけど。」
小野くんは、思案するように首を傾けた。
「それに、似合わないなんて言ったら、俺だって上達部なんか無理だ。」
「え、小野くんは十分似合ってるよ。全然、無理じゃない。」
あたしが力をこめて反論すると、小野くんはさらりと返した。
「それじゃ、藤原さんだって姫様でいいじゃないか。」
う、とつまるあたしに、小野くんは笑った。
あたしにはすごく眩しい、いつもの笑顔。
「藤原さんが姫やるんなら、俺も上達部やるよ。」
心が、ごとんと音をたててゆれた。
きゅん、だなんて、そんな生やさしいものじゃない。ぐっと揺さぶられるような。その衝撃と一緒に、あたしは自覚させられた。唐突に、はっきりと。
――ああ、あたし小野くんが好きだなぁ。
すんなりと、納得するようにそう思ったくせに、心臓の鼓動はいきなり速くなった。口では笑って小野くんに言葉を返しながら、明らかに赤くなっていると自分でもわかる顔を、どうにか隠そうとプリントに集中するふりをする。当然、目が文面を上すべりするばかりで、内容なんて一文字も頭に入ってこないけれど。
変に、汗をかいている気がする。暑くないか?ここの教室。
会話が終わって、小野くんも目をプリントに戻した。あたしはこっそり視線だけ上げて、その様子をうかがう。どうしよう。バカみたいに動揺しているのはあたしだけだ。あんな、何でもない言葉で。
小野くんは、静かな表情でプリントの文字を追っている。
彼が地味だなんて、頼子の目はおかしいとしか思えない。目が合ったら、息をのむほどなのにな。少なくとも、あたしにとっては。
それから特別授業が終わるまでずっと、あたしはいきなり突き出てしまった気持ちをもてあまして、妙に緊張してすごすはめになった。