5
新田くんがふと、机の上の古典プリントに目をとめた。
「何、古文やってたのか?」
「うん。」
あたしは苦笑しつつ、プリントをひらひら振ってみせた。
「古典の成績がかなりまずくって。ともえ先生に特別課題出されたの。」
「中間テスト、そんなに駄目だったのか。」
「……。」
触れて欲しくないところをつつかれて、あたしは黙りこんだ。図星だ――中間の古典は、平均点の半分に届いていない。つまり、赤いアレだ。
「……新田くんは、古典得意?」
逆に問い返してごまかすと、新田くんは興味深そうにプリントをしげしげと見つつ答えた。
「それほど得意ってわけじゃねえけど、それなりに。……たぶん、藤原よりはできると思う。」
失礼な奴だ。あたしは顔をしかめて、表情で彼に文句を言ってやった。
新田くんはそれを見て、ふっと笑っただけだったけれど。
「うるさいなあ。どうせあたしは古典はからっきしですよ。だからこうして勉強してるんじゃないか。それに、優秀な先生もついているんだから。」
あたしがむくれて言うと、意外にも新田くんは「そうらしいな。」と返してきた。
「――小野、だっけ。」
びっくりした。
「知ってるの?」
思わず身を乗りだして聞くと、新田くんはいや、と首を降った。
「吉田から聞いたことがあるだけ。」
吉田――ノブ会長か。ということは、ノブ会長と小野くんは、知り合いなのかな。二人の顔を思い浮かべてみる。今度、小野くんに聞いてみよう。
新田くんが、ぽつりと尋ねてきた。
「――どんな奴?」
「え、小野くん?」
あたしはきょとんとした。
唐突にどんな奴、と言われても。あたしには一口では答えられない。あたしの知っている小野孝志くんは――
「ええと、……古典が得意で、優しくて丁寧で、――上達部みたいな人。」
はぁ?と新田くんは眉を寄せて、怪訝そうな顔をした。
「何だ、その上達部って。」
へへへ、とあたしは笑ってごまかす。
「いや、小野くん、古典がすごくよくできるから。」
本当は、それだけじゃないけれど。尊敬できるくらい真面目でしっかりしていて、爽やかに笑った顔がすごく眩しいから、とは、さすがに言えない。
新田くんは呆れたように息をはいた。
「古典ができたら、皆貴族なのか。」
「違うよ、小野くんだけ。」
小野くんだから上達部なのだ。同じく古典が得意な人がいたとしても、彼のようには思わない。あたしはふと思いついて、新田くんににっと笑いかけた。
「例えばゆーくんだったらさ、あたしより古典ができるけど、上達部っぽくはないでしょ。
どっちかっていうと、――もののふ、って感じかな。」
「もののふ?」
「武人だよ、武士。ほら、資料集に書いてある。」
あたしは出してあった便覧をパラパラとめくって、絵巻物の一部が載ったページを開いた。馬に乗り、弓矢をかついだ男の人の絵だ。別に、新田くんが引目鉤鼻のような顔だちだと言いたいわけではない。もののふの図がこれしかなかったのだ。
新田くんは便覧の図を覗きこんで、やや嫌そうな表情になった。絵の男の人が、太りすぎているからかもしれない。
「俺がこれで、小野が上達部で、……じゃあお前は?」
えっ、と一瞬虚をつかれた。彼が話に乗ってくれるとは思わなかったのだ。予想外の切り返しに、あたしはうーんとうなって頬をかきつつ、また便覧をめくった。
「あたしは、古典がまだまだ、全然駄目だから。……今は、こんなところかな。」
あたしが指で示したのは、古代の位階がずらりと並んだ表だった。小野くんの三位以上の上達部ははるか雲の上、あたしは表の一番下だ。「少初位下」と書いてある。まだ、駆け出しの下級役人。
新田くんがふーっと長く、脱力するように息をはいた。
「……お前、相変わらずだな。妄想癖というか、変なことばっか思いつくところ。」
相変わらず、って。
「え、あたしって昔から、変な空想とかしてた?」
「してた。小さい時にさんざん、俺は妙に細かい設定のごっこ遊びにつき合わされた。」
新田くんを、ごっこ遊びにつき合わせた?そんなこと、してただろうか。
「えー、そうだっけ?」
「お前な。俺は毎回、悪の組織だか何だかをやらされていたんだぞ。」
「うそだー。」
「うそじゃない。」
「本当に?」
「とび蹴りとかしたくせに、忘れたのかよ。」
全然覚えていない。あたしは無性におかしくておかしくて、声を上げて笑い出してしまった。それで新田くんが渋い表情になる。けれど、そんな彼の表情すらおかしかった。
笑いながら、嬉しさをかみしめる。
新田くんと、こうして他愛ない話ができること。彼とあたしは昔からの友達だったけれど、今日、もう一度友達になったのだ。もう絶対に無理だと思っていたけれど、関わりがなくなった原因は、本当は単純なことだった。あたしには、それが嬉しくて嬉しくて仕方なかった。