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けれど、すごく楽しみにしていた予定ほど上手くいかないものだ。小野くんとの古典特別授業は、始まって以来初めて、小野くんの事情により流れてしまった。
「本当にごめん、藤原さん。」
小野くんは、心から申し訳なさそうな表情で手を合わせた。
「急に、用事ができたんだ。どうしても外せなくて。約束していたのに、ごめん。」
全然かまわない。あたしは少し笑って首を降った。いつも、あたしの都合ばかりで日程を決めていたのだ。あたしはお願いしている身、本来は小野くんの都合こそ優先されるべきなんだ。文句や不満なんて、言えるはずがない。
「気にしないで。小野くんが忙しいなら仕方ないよ。」
「期末の前に、絶対に埋め合わせするから。また考えよう。」
「うん、ありがとう。またね。」
手を振って、教室を出て行く小野くんを見送った。
ゆるゆる息をはいて、あたしは小野くんの席に勝手に座った。残念、という思いで気分がしゅんと沈む。仕方のないことだけれど。
なんだか、本当に楽しみにしていたんだなぁと、自分で改めて思った。
古典の勉強は、大嫌いなはずなのに。
予定が流れてぽっかりと空いた時間、あたしは初めて一人だけの古典勉強をすることにした。ノブ会長に行かないときっぱり宣言をしてしまったから、生徒会室には行きづらい。それに、こんな時でなければ古典なんてやらないだろうとも思った。家に帰ったあとの時間は、数学や英語、物理化学の勉強にあててそっちに集中したい。腐っても、あたしは理系なのです。
放課後の教室内は早くもがらんとして、いるのはあたしだけだった。あたしは机の上に、文法書や教科書を出した。それにしても小野君の机は、男子のなのにきれいに片付いているな。あたしも見習わなければならない。
よし、と気合いを入れて、あたしは早速プリントを広げた。
プリントに向かってから、どれくらいたった時だろう。
「――藤原。」
いきなり呼ばれて、思わず体がびくんと跳ねた。顔を上げると、すぐ近くにある廊下側の窓からこちらを見ているのは、新田くんだった。
「ど――どうかした?」
突然の彼の登場に驚いて、あたしはつばを飲み込んでからそう尋ねた。新田くんはひら、と手に持った紙を掲げて見せた。
「委員会の計画書、書き直ししたやつ持ってきた。……生徒会室に行ったら、今日は来てないって言われて、もう帰ったかと思ったけど。」
「……あ、ごめん。」
そうだった。新田くんは今日完成稿を持ってくる、と言っていた。探させてしまったなら、悪いことをしたな。
新田くんはちら、と教室内をうかがうように身をかがめた。
「入っても構わねぇ?」
「うん、どうぞ。」
頷くと、新田くんは戸口へまわり、のそりとくぐって教室に入ってきた。あたしが座っている小野くんの席の、前の席をがたんと引いてそこに座る。
「………。」
無言で紙を差し出され、あたしは勉強を中断してそれを受け取った。さらさらと目を通して、訂正箇所と大体の流れだけ確認する。
「――うん、いいと思う。明日印刷して、議会で配るね。」
「ああ。……ぎりぎりになったな。悪い。」
「いいよ。まぁ、間に合ったんだしね。」
苦笑してそう返したところで、話すことがもうなくなってしまった。
「………。」
どうしよう。妙な沈黙に、居心地が悪くて内心焦る。世間話や何てことない話は、結構すらすら出てくる方だと自分では思うのに。何も話題が思いつかなくて、あたしは視線をうろうろと泳がせた。けれど新田くんは、席を立とうとはしなかった。
変な感じだ。新田くんとこうして近くで、向かい合っているなんて。なんだか、すごく久しぶりな気がする。昨日も会ったのだけれど。
ぎこちなく笑いかけると、新田くんの表情もわずかに硬さがとれた――気がした。
「……なんか、懐かしいね。」
ぽつりとそう言うと、新田くんも「……ああ。」と頷いた。
純粋な同意。その反応に、昔の話題を出してもいいのだろうか、と少し勇気づけられる。
「中学以来、全然話さなかったし。……こうして話すのも久々だね。」
新田くんは少し顔をしかめた。
「確かに……中学ん時は、全然しゃべらなかった。」
「あたし、嫌われたんだと思っていたよ。」
冗談めかしてそんな本音を言うと、新田くんはますます苦い表情になった。
「そうじゃない。別に、嫌ったんじゃない。」
言葉を探すように、彼は首の後ろに手をまわして、乱暴にさすった。
「――あの時は、よくわかんねぇけど、幼なじみとか女友達とか、そういうのが嫌だったんだ。別に、藤原自体が嫌だったわけじゃなくて。」
新田くんはまるで、怒っているような顔でそう言った。
あたしはぽかんとしてしまったけれど、しだいに何故か、笑いがこみ上げてきた。慌てて手で口元を抑える。やばい、にやけてしまうよ。
「……そうか、嫌われたんじゃなかったんだ。」
「……ああ。」
なんだ、そっかそっか。
じんわりと嬉しくなって、あたしはうつむいて緩んでしまう頬を隠した。
嫌われたんじゃなかった。冷たくされたのは、そういう年頃だったとかの、やっぱり一時的なことだったんだ。つながりは絶えたわけじゃなかったんだ。
えへへ、とあたしは嬉しくて調子にのった。
「じゃあ、また『ゆーくん』って呼んでもいい?」
とたんに新田くんは嫌そうな顔になった。
「その呼び方は、よしてくれ。……力が抜ける。」
あたしは笑った。確かに、立派な大男に育った彼に「ゆーくん」はないだろう。その呼び名はもう、新田くんには似合わない。彼をそう呼ぶ人なんていない。あたしたちはもう小学生ではない。
でも、あたしはちょっとだけねばった。
「皆の前では呼ばないよ。誰もいない時にだけ、たまに。……駄目かな。」
こういうの、何て言うんだろう。……仲直り、ではないし。つまりあたしは、昔仲の良かった彼ともう一度仲良くなったんだ、というしるしが欲しいのだ。
新田くんはじっとあたしを見て何か考えているようだったけれど、結局頷いた。
「わかった、別にそれでいい。なら、俺もたまに『朝子』って呼ぶことにする。」
「本当?」
あたしは少し身を乗り出した。それ、すごくいい。二人とも、昔みたいに呼び合えるなんて。
あたしがあんまり嬉しそうな顔をしていたからか、新田くんは眉根を寄せて、いぶかしむような顔をした。
「……つか、お前はそれでいいのかよ。」
「いいも何も、すごく嬉しいよ。」
新田くんはわからん、というように首をかしげた。そして仏頂面のまま、「……ふーん。」と曖昧なあいづちをうった。