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8組の扉の前で、結ちゃんは顔をこわばらせ、ぎゅっと手を握りしめていた。かなり緊張しているようだ。大丈夫かな。あたしは不安に思いつつも、近くにいた人に件の彼を呼んでもらうよう頼んだ。
あたしはただのつきそい。話すのは結ちゃんね。――ここへくる道で、そう取り決めた。結ちゃんはこくんと頷いてくれたけれど。震えるくらい緊張していて、ちゃんとしゃべれるかな。しかも、計画書を早く上げるように急かすなんてこと、できるだろうか。そういうものは、ある程度きっぱりと強く言わないといけないことだ。
ほどなく、ぬっと大きな体がこちらへ近づいてきた。――彼だ。
眉間にしわを寄せて、不機嫌そうな顔であたしたちを見下ろしてくる。
「――何。」
出てきた声はむっつりと低い。隣の結ちゃんの肩がぴくんと動いたのがわかった。
「………。」
凍ったまま、誰も言葉を発しない。結ちゃんは青くなっていて、彼は威圧感、あたしは宙ぶらりん。奇妙な空間だ。
この動かない場をどう思ったのか、彼の眉間のしわがさらにぐっと深まった。目つきが険しくなる。それを見た結ちゃんがさらに青ざめる。埒があかないので、当初の予定を変えてあたしがしゃべることにした。
「あのさ、美化委員会の計画書のことなんだけど……。」
ちら、と彼の目がこちらを向いた。
怖くはない。けれど――緊張は、する。
「進み具合、どう?期限すぎているし、なるべく早めに、議会までには提出してほしいんだけど。」
彼はじいっとこちらを見る。……睨んでいるのではないと信じたい。
「……わかった。」
表情は変わらなかったが、彼は頷いてくれた。
きちんと反応が返ってきた。そのことに、あたしは自分でも思いがけないほど、心からほっとした。よかった。
また、何にも言ってくれなかったらどうしようかと。
「うん。わからないことがあったら、結ちゃんとかあたしに聞いてくれればいいから。8組には、ノブ会長もいるし。」
彼は顎をくっと引いてまた軽く頷くと、結ちゃんの方を見た。
「……なんで、河内が言わないんだ?」
それは、彼の純粋な疑問だったのかもしれないけれど、あまりに声が低かったからか、結ちゃんにはそうは聞こえなかったらしい。結ちゃんは突然彼から注意を向けられて、びくんと大きく肩を揺らした後、今度は真っ赤になった。泣きそうだ。
瞬時にまずいと悟ったあたしは、撤収を決めた。
「ま、ま、そういうことで。よろしくね!」
やや引きつり気味の笑いでごまかし、結ちゃんの手を取って逃げるようにその場を後にした。彼には、何だかよくわからなかったに違いない。
廊下を歩きながら、あたしはふうっと息をついた。変に疲れてしまった。
窓の外は快晴で、白い雲が眩しい。日向に出たら暑そうだ。なんとなくそれを眺めて、あたしはぼんやりと思った。
彼と話したのは、何年ぶりなのだろう。
結ちゃんとは、そのままあたしの教室の前で別れた。彼から離れると結ちゃんはだいぶ落ち着いて、最後にはありがとうと言ってくれた。
昼休みはもうほとんど残っていない。あたしはやるせない思いで、途中だった弁当の残りをあきらめた。次の休み時間に急いで食べよう。
自分の席に座り、コンコルドを外して前髪をかきあげる。うすく、額に汗をかいていた。ピンクやオレンジの花のついた、ラメ入りのコンコルドをいじりながら、あたしはゆるゆると息をはいた。
彼――新田勇くんとあたしは、幼なじみだ。
小学校も中学校も、そして高校も、ずっと一緒。家も比較的近所だし、親同士のつきあいもある。
けれど、この高校にいる人で、あたしと彼が幼なじみだと知っている人はいないだろう。たぶん、一緒の中学からこの学校へ来た友達ですら知らない。あたしも、あえて友達に話したことはない。
現在、あたしと彼は交流がほぼ断絶状態だ。
小学生の頃は、あたしたちはものすごく仲が良かったと思う。互いの家を行き来したり、一緒に公園に行ったりゲームをしたり、二人してよく遊んだ。家族ぐるみで、海に行ったりバーベキューをしたこともある。彼はあたしの弟とも仲が良かった。彼はあたしのことを朝子、と呼んで、あたしは彼をゆーくん、と呼んでいた。
けれど中学に入ってから、あたしたちはいきなり疎遠になったのだ。
何故なのか、あたしにはわからない。ゆーくんはあたしに近寄らなくなった。話しかけてこなくなった。近くにいても、気づかないふりをするようになった。
当時のあたしにとって、それは相当のショックだった。……一度、中学校であたしから話しかけてみたことがある。避けられていても、あたしはゆーくんとは変わらず友達だと信じていたのだ。遠くなってしまったのは何か理由があって、それはあたしがちゃんと直せば元通りになる一時的なことだ、と。
でも、ゆーくんは声をかけたあたしを無視しようとした。無視できないとわかると、ひどく面倒くさそうな対応しかしなかった。さっさと終わらせたい、あたしとはしゃべりたくない、という顔をして。
そのことで、あたしは結構傷ついたのだ。以来、あたしもゆーくんにはあまり近づかなくなった。近寄っただけで、また嫌な顔をされるのはたまらなかった。仲良しだったことを、なかったことにされているように感じるから。
そして全然しゃべらなくなって、現在にいたっている。
仲の良かった小学校時代、疎遠になった中学時代。そして、今日すごく久しぶりにゆーくんと話した。彼はそっけなかったけれど、あからさまに嫌そうな顔をすることなく、ちゃんと反応を返してくれた。
これは、どういうことなんだろう。今、彼の中であたしはどんな位置にいるのだろう。幼なじみ?昔の友達?関わりたくない奴?それとも、全然知らない人?
あたしにはもうわからない。あたしの中で、彼はどんな位置なのか。友達、だと思ってもいいのだろうか。ゆーくん、と呼んでもいいのだろうか。
もう関わることはないだろうと思っていた。けれど今日、彼と少しだけだけど関わった。これは、この高校時代にあたしたちの間の何かが変わってくれる、ということになるのだろうか。
そうであればいいのに。