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黄金比の歌声

作者: 白い線路
掲載日:2025/10/30

日没後、西の空でひときわ明るく輝く金星を手で隠す。

 その光に照らされるタンポポを、私は靴の先で踏み潰した。

 指の隙間から漏れた光は、まるで古い譜面の一節みたいに揺れている。


 黄金色に照らされる私の沈黙は、形の中で悲観的なベールをかけられ、非寛容的である優しさの視座をなかったことにされる。


「はぁ……何一人で考えてるんだろう」


 声が漏れた瞬間、隣に知らない男子生徒が立っていた。

 彼は少し首を傾げ、風に髪を流しながら言った。


「——タンポポには真心の愛って意味があるらしいぞ」


「そうなんですね」


「——君はタンポポが嫌いなのかい?」


「そんなことないですよ」


「——じゃあ、なんで踏み潰したんだい?」


「どこへ行っても世界は花開いている。それでも詩は産まれてしまうんです」


「——それで愛や幸福が分からなくなってもかい?」


「私にとってタンポポは、集団に身を溶かすことと一緒なので」


 彼は少し笑った。

 その笑いには、皮肉も軽蔑もなかった。むしろ、何かを思い出すような遠い温度があった。


「——じゃあ、君にとって詩ってなんだい?」


「ウタですか?」


「——ああ、言葉のことだ。音楽のようで、でも音楽じゃない」


「詩は……音楽だと思います。

 ただし、拍子も旋律もない。

 俳句や短歌みたいな黄金比の中で完成してしまうものではなくて、たぶん、壊れる寸前の比率の中でしか生まれないもの」


「——壊れる寸前、か」


「リズムの美しさだけで完結する詩なんて、ただの記念写真みたいだと思うんです。

 美しさの保存をしているだけなら、形式芸能と変わらない。

 季語を探すことも、花言葉を覚えることも、言葉を閉じ込めるだけの儀式に見えてしまう」


「——それでも人は、その儀式に救われることもあるでしょ」


「でも、救いを前提にした言葉は祈りじゃない。

 それは制度だと思います。

 花言葉も季語も、理解の形を強要してくる。

 それって、詩を殺すことと同じじゃありませんか?」


「——君はずいぶん攻撃的な詩人だな」


「詩人じゃないです。

 ただ、反内容主義であり、詩をまだ愛しているだけです」


 彼はタンポポを拾い上げた。

 潰れた花弁が風にばらけ、地面に金色の粉のように散っていく。


「——でも、最初にその形式を作った人は偉大じゃないか?」


「もちろん。最初の人は。

 ただ、やっぱり価値があるのは最初だけなんだと思います。

 二番目に同じことをする人は、美しさの残骸をなぞっているだけ。

 そして三番目には、もう何も感じなくなる。

 でも、時々思うんです。

 形式を作れる才能はあっても、未来を考えられない人がいる。

 彼らは、いま形になったものの中でしか呼吸できない。

 マルクスでさえ世界の速度を見誤ったのなら、私たちが見ている形式なんてもっと脆い。

 形式って、内容主義である人間しか乗れないのかもしれません。

 内容を持たない形式は、誰にも触れられないから。

 でも——反内容主義者だけは違う。

 どんな文章だって、必ずどこかで私たちを見つけてくれる。

 意味よりも先に、感覚が届く。

 そういう人は、自ら進んで泥舟には乗りたがらない。

 沈む舟の上で、初めて呼吸できる人もいるのに」


「——それは残酷な言い方だ」


「美に価値を与えた人が残酷なのか、それを信じ続ける人が残酷なのか、私には分かりません。

 でも、詩を愛する人は大惨事も愛するんです。

 彫像を支持する者は、遺跡も支持するんです」


「——壊れてこそって事か?」


「形とは、崩壊の保存です。

 言葉も、音楽も。

 だから、詩を守ろうとする人たちは、詩を死なせている気がする」


「——それでも、彼らは知っているんだろう。詩は理解できないものだと」


 「それが問題なんだと思います。

 なぜこれほど多くの批評家、これほど多くの作家、哲学者たちが、芸術作品の経験は言葉で言い表せないと主張することに、あんなにも満足しているのか。

 なぜ彼らはあっさりと、知識の敗北を誇るのか」


「——それは、哲学が敗北の歴史だからじゃないのか?

 それに重なる自分を愛しているとか」


「愛してるのは敗北じゃなくて、敗北の特権です。

 理解不能と言えば、誰にも説明しなくていい。

 それはある種の高貴さの演出。

 美学の背後にある、所有者の快楽」


「——じゃあ、君は理解できる詩を求めてるの?」


「理解できる詩じゃなく、理解しようとすることが詩なんです。

 定義ではなく、到達不可能性の試行」


「——その言葉の違いは大きいな」


「理解という行為そのものが、もう音楽だから。

 人は言葉を発する前に、すでに音楽を奏でているんです。

 言葉の傾向は、数学の定理と芸術としての言葉、この二つだけ。

 他は全部、ビジネス言語。

 注文と返信。効率と即答。

 ビールを頼む言葉と、愛を歌う言葉の違いを、誰も区別しなくなってる」


「——詩は、注文ではないと」


「ええ。詩は、待つことです。

 でも、最近の詩は待てなくなってる。

 観測される前に答えを出してしまう。

 まるで自分の沈黙を恐れてるみたいに」


「——それを恐れと呼ぶなら、誰だって詩人じゃなくなる」


「だから、私はもう詩人じゃない」


 空が群青に沈み、金星が少しずつ見えなくなっていく。

 風が吹くたび、花の残骸が宙に舞う。

 彼は空を見上げたまま言った。


「——言語学って知ってるか?」


「少しだけ」


「——ソシュールが言ったんだ。外的要素を排除して、言語を内的構造として研究した。

 つまり、言葉を社会や身体や地理から切り離した。

 それが近代言語学の始まりだった」


「それはまるで、花を根から抜いて、花弁の比率だけを数えるようなものですね。

 構造言語学は、自律性の幻想から生まれた。

 だからどこかで、支配の科学になった。

 象徴を独立させた瞬間、人は言葉を支配できるようになった。

 でも、言葉は風でできてる。

 形を持った瞬間に死ぬ。

 カッシーラーが言った実体主義って、まさにその病です。

 直感で得られる現実しか信じない思考様式。

 だから彼らは、直感できない詩を怖がるんです」


「——じゃあ君はどうやって詩を書く?」


「ただ、詩が生まれるのを待つだけ。

 花が咲くように。

 比率も意味もない、偶然の黄金比が訪れる瞬間を」


「——偶然の黄金比、か」


「それが私の歌声。

 黄金比は完璧じゃない。

 むしろ、欠けた場所からしか鳴らない」


 夜風が吹き抜け、金星が完全に沈む。

 彼は最後に、小さな声で呟いた


「——それでも、世界はまだ花開いている」


「だから私は、歌を止めるつもりはない」


「——詩のために?」


「詩のためじゃなく、詩が壊れる瞬間のために」


 風の中で、踏み潰されたタンポポが光った気がした。

 黄金色の粉が、宙を舞う。

 その一粒一粒が、壊れかけた比率で鳴っていた。


 まるで、世界の欠陥そのものが音楽であるかのように。

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