返してよ……
心の中で満足していた私とは裏腹に、お兄ちゃんの顔は……どこか切なかった――
「芽唯……」
静かな声。変わらない、優しい響き。
でも、昔のように触れてくれない、見つめ返してくれない。
――やっぱり、私のこと避けてる。
心の中で、何かが音を立てて崩れた。
「ねえ……あの日は、してくれたのに……どうして、してくれないの?」
「……」
「傷、つけたでしょ。首に……私、今も残ってるの!
……期待しちゃうよ……あんなの、されたら……!」
声が上ずる。止められなかった。
「私、嬉しかったの……なのに……あのときだけで終わり?
なんで今は、何もしてくれないの!?
なんで……なんで……そんな顔して、私のこと避けるの……っ」
兄は何も言わなかった。ただ静かに、私を見ていた。
その目には、怒りも拒絶もなかった。ただ――どうしようもないほど、哀しみだけがにじんでいた。
その時だった。
「それは……俺が、ちゃんと間違いに気づいたからだよ。
芽唯のことを、大事にしなきゃいけないって――」
その声は、静かで、優しくて――
いつもの“お兄ちゃん”だった。
私は、ほっとした。
やっと、戻ってきてくれた気がした。
兄は何も言わなかった。ただ静かに、私を見ていた。
その目には、怒りも拒絶もなかった。
ただ――どうしようもないほど、哀しみだけがにじんでいた。
それが、私の心に一番刺さった。
「だったら――怒ってよ、拒んでよ……それかキスしてよ……!
私を、好きって言ってよ……」
兄はゆっくりと立ち上がった。
私に歩み寄る。距離はわずか。
私はその手が伸びてくるのを、待った。
けれど――
兄は、私の頭にそっと手を置いただけだった。
そのまま、額を寄せるようにして、目を閉じた。
「……わかってくれ――」
その声は、あまりに静かで。
「俺のせいで芽唯が辛い思いしているのを見たくない。
あの文化祭の日のことも……俺は今、後悔してる。
謝って済むことじゃないって、わかってる」
私は唇を噛んだ。
「……後悔、なんてしないでよ。
私は……あれで、確かに安心したのに……」
――嘘だ。
あの時私は確かに恐怖した。
今思えばこの言葉は私が勝手に都合よく解釈しただけ――
「っ……」
兄の声が、今にも消えそうだった。
「ああ――そうか、でもな……俺はお前が期待するような好意を返すことはできないんだ――今はまだ……」
私は頭を振る。
「それって逃げてるだけじゃん!」
「そう――。逃げてる。……けど、それでもいいんだ。
俺は、そうするべきだと思ってる」
「俺たちはもう、ただの“同居人”として生活しよう――母さんたちも、それを望んでる」
静かで、でも揺るがない声。
それが、なによりも悔しかった。
泣きたかった。
でも、涙さえ出なかった。
私は、ただ言った。
「……許さない」
その瞬間、兄の手を振り払った。
「お兄ちゃんなんて、絶対に許さない。
それに私を“ただの同居人”だなんて――勝手に決めないで!」
兄は驚いて、ほんの少し後ずさる。
でも、私は止まらなかった。
「離さないよ。嫌われてもいい。
お兄ちゃんのこと、ずっと好きでいるから!」
「芽唯……」
兄が戸惑いながらも静かに言う。
「お前の気持ちはわかるが……」
「関係ない! そんなの、どうでもいい!」
私は兄の腕を掴んで、しつこく離さなかった。
「お兄ちゃんが嫌がっても、私は付きまとう。
嫌われても、絶対に離れない!」
兄は困惑したまま、なにも言えなかった。
でも、私は構わず言葉を重ねた。
「ずっと一緒にいるって、もう決めたの。
私がそう決めたんだから、もう逃げられないよ?」
兄の顔がほんの少しだけ引きつる。
だけど私は――その腕を、離さなかった。
逃げられない距離で兄の顔をまっすぐ見つめる。
「お兄ちゃん、私を置いていかないで。
ずっと、そばにいて――」