ごめんね、直すから……
私が苦し紛れに選んだのは、お弁当だった。
唐突な思いつきだったけど、何かしないと――もう二度と、あのころのお兄ちゃんに戻れない気がして。
前みたいに構ってくれなくていい。
ただ、目を見て話してほしい。
私を、“他人”みたいに扱わないでほしい。
それだけなのに。
日曜の朝、私は早く起きてキッチンに立った。
炊飯器の音、卵を焼く匂い、きゅうりの浅漬け。
いつか兄と一緒に台所に立った日を思い出しながら、ひとつずつ詰めていく。
おにぎりは、兄が好きだった“海苔と梅”にした。
卵焼きは甘め、ウィンナーはタコさん。
――これで、いい。
私は弁当箱にそっと蓋をして、リボンを結んだ。
お昼前、私は兄の部屋の前に立った。
昨日と同じドア。昼間だから明かりも消しようはない。
「……あの、今日……お弁当、作ったんだ」
「そうか――ドアの前に置いておいてくれ。ありがとう」
声はワントーン低かった。他人と同じ声色だ。
あの日からずっとそうだ――
私は分かってる。
お兄ちゃんはいつも他人に対して完璧に対応するけど……
それは“無関心”から来ているのだと。
私は深呼吸して、扉をゆっくり開けた。
兄はパソコンに向かっていた。振り返りもしない。
「……もし、よかったら、一緒に食べてくれないかなって……」
「……」
兄はようやく手を止めて、こちらを向いた。
「そうか。ありがとう。でも、今はいい」
兄は微笑んでいた。
でもそれも知っている。
この微笑みが、どれほど冷たいのかを――
何度も見たことがあった。
「……どうして?」
「……俺にそんな資格は無いからだ」
その瞬間、私はもうわからなくなった。
「資格って、なに? お兄ちゃん、私が何かしたの? 私が、あのとき……怖がったから? お風呂を一緒に入らなかったから?」
兄は少しだけ目を伏せて――やっと、口角を五ミリ上げて笑った。
「……いや、違う。母さん達に言われなかったのか?」
「え? なにを……?」
「俺たちは実の兄妹じゃない……ってさ――」
「――え?」
そんなの、知らない。
聞いてない。
「だからって……だからって、もう何も話してくれないの?」
「……」
「それで私のこと、何も見てくれなくなるの……? 私が制服のボタンを外してても、泣きそうな顔してても……もう、どうでもいいの?」
「……ああ」
――嘘。
あの兄がこんなこと言うわけが無い。
私は、もう限界だった。
気づいたら、お弁当を兄の机に置いて――
小さく言った。
「……食べなくていい。でも、捨てないでね。それだけは、やだ」
そう言って、私は部屋を出た。
ドアを閉めたあと、後ろで兄が何か言いかけた気がした。
でも、振り返らなかった。
――実の兄妹じゃない、って……どういうこと?
階段を降りながら、胸がぐっと締めつけられる。
私はお母さんたちに聞いた。
本当だった。
DNA鑑定書も、なにもかも――
お兄ちゃんは……お兄ちゃんじゃなかったの――?
――償いって、こんなに届かないものなんだろうか。
でも、捨てなければ――きっと、いつか。
夕飯の時、兄は何事もなかったように私の前を通りすぎた。
食卓に座っていた兄は、ほんの少しだけ視線を落とした。
私が気づくより早く、お弁当箱がテーブルの端に置かれていた。
「……」
“捨てないで”ってお願いした、それだけのことが叶っただけで、胸がいっぱいになった。
調子に、乗ったんだと思う。
私はその日の夜、わざとパジャマのボタンをひとつ開けて兄の部屋に入った。
「……あのさ、お兄ちゃん。今度のお休み、どこか行かない?」
「いやだよ」
ありえない――
あの兄が――!
私のお願いを断るなんて、しかも一言だけで済ませてきた――!
それにいつもの兄なら、すぐに気づいて、顔を赤くしたり、怒ったり、何かしらの反応をしてくれたのに。
今の兄は、ただ私の顔を静かに見て、ひと呼吸おいてから言った。
「芽唯」
「……なに?」
「だらしない、服をちゃんと着ろ」
――かわされた。
それだけじゃなかった。
「あと……その仕草は、やめておけ。母さんたちに怒られても知らないから――」
私の色仕掛けも全然通用しないしむしろ説教されてる……
本当の兄は、こんな人じゃなかった。
おかしいな……今まであんなにうざかった兄が、私が望んでた普通ってこういうことなの――?
辛いよ――これが普通の兄妹なの?
そっか……私――あんなことを言っちゃったから……そうだよね今まで散々兄におかしいって言ってたもんね――
どの面下げてこんな思いをしているの――?
でも……私ってわがままだな――
――もう一度あの時に戻りたい……たとえお兄ちゃんに乱暴されてもいいから……
扉を閉めるとき、ほんの少しだけ――兄の手がキーボードの上で止まっていたのを、私は見逃さなかった。
だけどそれでも、兄は何も言わなかった。
私は自分の部屋に戻って、扉の前でしばらくしゃがみ込んでいた。
胸の奥がむず痒くて、苦しくて、泣きたいのに泣けない。