お兄ちゃんの宝物
あの日から私は、首元に付けられた傷をなんとか隠し通そうとしていた。
「やっほー! めいっちー!」
教室に入ると、友人たちがすでに三人で机を囲んで集まっていた。
「うん、おはよう……」
「ん? なんか今日、元気なくなーい?」
「まぁ……少し……ね……」
「あれ? めいっちー、どうして首に絆創膏貼ってるの?」
気づくの早っ!
いやまぁ、兄が付けた位置がやたら高すぎて服じゃ隠せないのが原因なんだけど……
「ちょっと怪我しちゃって……」
「えー? そんなとこ普通ケガする〜?」
「あはは……」
「もしかして……キスマ?」
ギクッ……もうバレそうなのやめてよ〜
「そ、そんなわけないよ〜!」
「それもそっか。めい兄の妹に手を出す怖いもの知らずなんて、そうそういないもんね〜」
「……もしかして、そのキスマ……兄に付けられたの?」
なんでこうも鋭いの? 女の子ってこういう事には、やけに敏感で怖いよ〜
「そ、そんなわけないじゃん!」
「だよね、兄妹だもんね! さすがのシスコンでもそこまでしないはずよね!」
……なんとか今日は切り抜けられそうだ……
あれから一週間が経つ。
兄からのスキンシップは、日に日に激しくなっている。
私の「席」は、基本的に兄の膝の上しか許されなかった。
「あのさ……普通に座りたいんだけど……」
「なんで?」
兄の顔が怖い。
目が座ってる……威圧感が凄い……
「い、いや、なんでもない……」
あの日から、私は兄に抵抗することさえ怖くなっていた。
「今日は久々に、兄妹仲良く裸の付き合いで風呂に入ろう!」
いや、さすがにこれはっ!
「ダメだよ! そんなの!」
「どうして?」
怖いけど、ちゃんと断らないと……!
「だ、だって私……もう十七だよ?」
「それがどうかしたのか?」
「おかしいって!」
「何がおかしい?」
「とにかく、お風呂は一人で入るから。絶対来ないで! 来たら……お兄ちゃんと口きかないから!」
「……そうか」
なんとか兄とのお風呂ルートは回避できた……
いくらお兄ちゃんでも、私には嫌われたくないよね……
あの心底残念そうな顔……その反動で何かしないといいんだけど……
「お前は、もう家を出るべきだ」
父のその言葉が、妙に静かに響いた。応接室の柱時計の音が、やけに大きく感じられた。
「芽唯とあなたの距離は、普通ではない。それはもう認めざるを得ない。だからこそ……真実を話すことにした」
母がゆっくりと立ち上がる。その手には、薄いフォルダ。
「……これは、あなたが生まれた時の戸籍。こっちは病院の出生記録、DNA鑑定書もあるわ。すべて揃っている。――あなたは、私たちの実の息子ではなく、養子なの」
練は目を細め、資料を受け取る手に一切の躊躇がなかった。
一枚ずつ、最後まで目を通して――ようやく口を開く。
「よく出来てる。……完璧だね。しかし……」
「ふん」
母の声音は冷ややかで、しかし微かに誇らしげだった。
「私たちがどんな仕事をしていたか――知らないとは言わせないわよ、練」
「……怪盗、か。昔の話だと思ってた」
「そうよ、過去の話。でも一度手に入れた“信頼を欺く技術”は、死ぬまで消えないわ」
父が続ける。「お前はこの資料を“偽物”と感じた。でも“偽装”だと証明できるか?」
練は黙った。
その沈黙を見逃さず、母が追い込む。
「言葉で覆せるなら、やってみなさい。映像も、記録も、病院関係者の証言もある。どれ一つ、穴はない」
「じゃあ、聞くよ。一つだけ」
練の声が低くなった。
「俺が名付けた、という記録はどこにある?」
両親が目を見交わす。
一瞬の隙を、練は逃さない。
「その一点だけで、俺はあんた達の言葉を信じる気にはなれない。俺の指で、俺の声で、“芽唯”という名前をあの子に捧げた日……俺は、忘れてない」
拳が震える。
父が静かに言う。
「なら、お前に問おう。なぜ、その名前を与えた?」
「決まってる。オレだけの“妹”にしたかったからだ」
静かで、確信に満ちた声だった。
「そう、それが問題なのよ」
母が即座に言う。
「あなたが執着していたのは“芽唯”じゃない。“妹という立場”であり、“禁忌の関係”であることだったのよ」
「くだらない詭弁だ」
「じゃあなぜ、“お前が養子”だと聞かされた瞬間に、態度を変えた?」
父の声が鋭く刺さる。
「私たちは芽唯を見張ってたわけじゃない。あなたの部屋にあった“箱”……見たわ」
練の目が動いた。
「中には、使い終えたリップクリーム、結んだリボン、破れたハンカチ……“抜け殻”がびっしり詰まってた」
「誰にも見せないよう完璧に隠されていたけど、完璧すぎたのよ」
母が続ける。
「誰にも見せない、“自分だけの秘密”にしてた。まるで、宝物を秘密基地に隠す子供のように。――純粋で、でも異常だった」
「……それの何がいけない?」
「それ自体は否定しない。でもな、練」
父が言う。
「お前はもう二十一だ。社会はそれを“異常”とみなす。芽唯のためにも、このままにはできない」
「……」
練は目を伏せた。
「まず一つ。“社会が異常とみなす”? 笑わせるな――父さんたちこそ、社会にとっての“悪”じゃないか」
目元が鋭くなる。
「どの立場で説教してる?」
冷静に、静かに切り返す。
「そして二つ。俺が目を逸らす? それは違う。俺は、直視してる」
その言葉に、部屋の空気が凍った。
黒く、純粋で、覚悟に満ちた異常性が練のまとう空気に現れていた。
だが、母は一歩も引かなかった。
「それでも、あの子には“普通の未来”を歩んでもらいたいのよ」
「だからお前には――この家を出てもらう。養子籍も外す。お前は自立できる。その能力があるからこそ、そう決めた」
長い沈黙のあと――
練は言った。
「…………そうか……なら、俺は負けを認めよう」
潔く諦める練に、両親は――安堵よりも、むしろ、どこか背筋の冷えるような不穏さを感じていた。
あの練が、こうもあっさり引き下がるとは到底思えなかったからだ。
その目に浮かんでいたのは、敗北の色ではない。
それは、まるで――次に向かって進もうとする者の、覚悟だった。