ラスト・ターニングポイント
機内の灯りは少し落とされていて、空気がほのかに乾いている。
芽唯は窓側の席から、夜の雲の向こうにかすかに浮かぶ地平線を見つめていた。
「……ねぇ、お兄ちゃん」
隣に座る練に、芽唯はそっと声をかけた。
「今まで、ずっとノートパソコンばかり見てたよね。あれって、準備のため?」
練は少し頷いた。
「ああ。あの時から、少しずつ整えていたんだ。国の選定、言語、滞在先の調査、名義の確保。……全部、お前と生きるために」
「じゃあ……あの時、あんなに冷たくしてたのも?」
「演技だよ。わかってくれって、言っただろ」
練はしばらく黙ったまま、窓の外を見ていた。そして静かに言葉を紡ぎ出す。
「……空っぽだった。芽唯が生まれる前の俺の世界は、全部が退屈だった。
何をしても上手くいく。でもそれが嬉しいわけでもなかった。ただ正解をなぞるだけの人生。努力も、成功も、称賛も、どこか既定路線で……心が動く瞬間なんてなかった」
芽唯は小さく目を見開いた。
「計算式みたい……ってこと?」
「そう。どんな問いにも答えがあるような、つまらない世界。
誰かにとって都合のいい人間でいることが、正しいと思ってたし、むしろそれしかなかった。
友人もいたけど、ただの関係性の取り引きだ。誰も、俺を“本当の意味で”見ようとはしなかった。
本当の孤独とは理解者がいないことを指すんだ――」
言葉は淡々としていたが、どこか深い寂しさを孕んでいた。
芽唯は喉の奥が詰まるのを感じた。
そんな孤独を、お兄ちゃんがひとりで抱えていたなんて。
「そんなの……ほっとけるわけ、ないじゃん」
芽唯の声は震えていた。
お兄ちゃんは、ずるい――と心のどこかで思った。
でも、だからこそ放っておけなかった。
その言葉のひとつひとつが、真っ直ぐに響いてくるから。
「お前が……生まれた日のこと、今でも覚えてる」
練は、どこか懐かしむような目をして、語り出す。
「まだ夜明け前だった。空が白んでいくのを病院の屋上から見ていたんだ。
それまでの人生で、あんなに心が震えたことなんてなかった。
“小さな命が、俺の人生に降ってきた”って……そう思ったよ」
芽唯の心臓が締めつけられた。
「芽唯――名前の由来、気にならないか?」
「……え?」
「“芽唯”って名前。両親がつけたと思ってたかもしれないけど、実は俺が提案したんだ。
“妹妹”。中国語で“妹”をそう言うだろ。そこから“芽”と“唯”を取った。
唯一無二の、小さな芽。俺の人生に初めて光が射した日だったから……そう、名づけた」
芽唯の目に、ふいに涙がにじむ。
「オレは、たぶんあの日からお前に恋してたのかもしれない。
でもそれを自覚したくなくて、ずっと遠ざけて、抑え込んで……
家族だから、守るべき存在だから、そんなのは“いけない”って――思ってた」
それは懺悔のようであり、深く閉ざされていた真実の告白でもあった。
芽唯は自分の膝の上にある兄の手を、そっと握った。
――それでも
「でも……私は嬉しい。そう思ってもらえたことが、すごく……」
練は静かに続ける。
「なんでもできるなら、何をしても無価値になる。
自分の手で叶えられる世界なんて、飽きるだけだ。
だから俺は――“絶対にしてはいけないこと”に、意味を見出したのかもしれない。
禁じられているからこそ、そこに熱を感じた。
誰にも肯定されないこの気持ちだけが……やっと俺を生かしてくれた。
あの味だけがオレを虜にした。
あの感覚だけがオレの心を震わせた――」
私はやはり泣いていた。
でももう、その涙を恥ずかしいとは思わなかった。
そっか――あの文化祭の時の傷は……私に付けられた赤い首輪だったんだ――
――それでも。
お兄ちゃんの言葉が、それほどまでに真っ直ぐで、痛くて、優しかったから。
「だったら……尚更、私はお兄ちゃんを置いていけないよ。
こんなのおかしい、ってわかってても……
それでも、私は……お兄ちゃんを、愛してる」
機体が揺れることもなく、静かに雲を割る。
二人の未来は、まだ何も見えない。
でも、手の中の温もりだけが――確かにそこにあった。
二人にあふれんばかりの呪いと祝福を