お宝は頂戴した
「どこか遊びに行きたいって、言ってたよな」
朝、いつものように玄関で靴を履いていると、お兄ちゃんがぽつりとそう言った。
「えっ……うん、言ったけど。急にどうしたの?」
「今日は予定を空けてある。俺と一日、出かけよう」
そう告げると、彼は車のドアを開けた。私は戸惑いながら助手席に乗り込み、シートベルトを締めた。
運転席のお兄ちゃんは、いつも通り冷静な表情だった。
でも、その目の奥には何かがあった。淡々とした優しさでも、習慣的な無関心でもない。
――決意、とでも呼べばいいのかな。
私は何も聞けなかった。聞いてしまえば、もう戻れない気がして。
辿り着いたのは郊外の遊園地。観覧車にジェットコースター、フォトブース。恋人たちの楽園。
私たちにはあまりに似合わない、でもどこかふさわしい場所だった。
「どうしたの、今日は妙に張り切ってるじゃん!」
「たまには……な」
お兄ちゃんは少しだけ笑った。
それはまるで、別れを予感している人の顔のようで――知らず、胸が痛くなった。
午後。私たちは観覧車に乗っていた。
ゴンドラがゆっくりと空へ昇るにつれて、私の鼓動も静かに高鳴る。
お兄ちゃんは沈黙を守っていた。風の音が耳を撫でるなか、ようやく口を開く。
「……ここで、全部話す。俺たちが、なぜこうなったのか」
「え……?」
私の言葉を待たずに、彼は真っすぐに私の目を見た。
「やっぱり、嘘だったよ。父さんたちがついた、あの嘘」
「うそ……って、なにが……?」
「俺はずっと調べてた。――あの日から準備してた。お前がオレの“本当の妹”だって、確信した」
言葉が止まり、心が凍った。
「どうして……お母さんとお父さん、そんな嘘を?」
「理由は単純だ。オレが――実の妹であるお前を、愛しているからさ」
急に照れてしまった。そんなストレートな告白。――でも、なぜ“実の”を強調したのだろう。
「ねぇ……なんでそんなに、血の繋がりにこだわるの?」
お兄ちゃんは静かに微笑んだ。
「お前が他人だったら、オレはお前に惹かれなかった。血が繋がっている――それがオレを掴んで離さなかった」
「じゃあ、私の価値って……それだけなの?」
「そうかもしれない。だけどオレは、呪われたものを――愛してしまった」
そう言う彼の顔はどこか酔っているようだった。
「なあ、芽唯。アダムとイブの話を知っているか?」
「えっ、急に……なに?」
「知恵の実の話だ。神に禁じられた果実。でも彼らは手を出した」
「……だから?」
「なぜだと思う?」
「知らない……」
「それは、“禁じられていた”からだ」
背筋がすっと冷えた。
「エデンの園には何も不足はなかった。満たされていた。なのに彼らは罪を犯した。
――それが禁断だったからだ。禁じられているというその一点だけで、果実は甘美になる。抑圧の反動こそが、人を狂わせる」
お兄ちゃんの声は熱を帯びていた。
「オレにとってお前は、知恵の実だった。誰よりも甘く、危険で、禁じられていて、そして美しかった」
私は何も返せなかった。
好き。私も、好きだった。
でもこれは――そういうことじゃない。
「……怖いよ、お兄ちゃん……」
「怖くて当然だ。でも、オレはこうしてずっと――血という呪いを抱え、お前を見てきた。誰にも渡さずに」
頭が真っ白だった。心が千切れそうだった。
そんな時だった。
ゴンドラのドアの隙間から、一枚の紙が力強く刺さった。衝撃でゴンドラが揺れ、私たちは驚いた。
窓から紙を覗くと、新聞の切り抜きで貼り合わされた文字があった。
「なに……これ……?」
そこには大きくこう書かれていた。
――予告状――
本日、我々は“娘”を盗みに参上する。
――怪盗依守夫婦より
次の瞬間、ゴンドラ内のスピーカーが不気味に唸りだした。
『この声が届いた時には、もう遅い――我が娘はいただいた』
練がほんの一瞬だけ外の空を見た隙に――
「……っ!」
バサッ――!!
真っ白な布が天窓を突き破り、ゴンドラ内に降り注ぎ視界を奪った。
「芽唯――!」
慌てて布を振り払おうとする練。しかしその隙に、芽唯は姿を消していた。
窓の外、隣のゴンドラの壁にしがみつく黒装束の影が二つ。
一人は父、もう一人は母だった。
母はしなやかな身のこなしで、素早く観覧車の外壁を伝っている。
「私だってまだ衰えてないわよ!任せなさい!」
母の声は冷静で頼もしく、父の動きをサポートしながら芽唯を抱え込む。
観覧車のゴンドラは内側からロックされているため、唯一の侵入口は天井の非常口だった。
ワイヤーとフックを使い、二人は天井から降りてきて、あっという間に芽唯を連れ去った。
「ちっ……怪盗夫婦め!」
練は窓に額を押し付け唇を震わせ、悔しさを呑み込む。
その時、布に黒インクで書かれた文字が目に入った。
《最高のお宝、いただきます》
その瞬間、練は声を荒げた。
「……うざっ!」