うざいと思われてもいい――
登校中、車内は静かだった。
練はハンドルを握り、目線は前方の道路をしっかり見据えている。
助手席の芽唯は窓の外を見ながら、時折小さく笑みを浮かべていた。
「ねえ、お兄ちゃん。今日も送ってくれてありがとう。優しいね」
「いつものことだ、今更どうということはない」
芽唯は軽く肩をすくめてから、ほんの少しだけ身体を乗り出し、声のトーンを少し甘くした。
「ほんとはさ、私と二人きりでいると、ちょっとドキドキしたりするんじゃない?」
練は目を細め、冷静な口調で返す。
「そんなことはない。運転に集中するだけだ」
芽唯は笑いながら、バッグから小さなハンドクリームのチューブを取り出す。
「これ、お兄ちゃんの手荒れにいいんだって。今度渡そうと思ってたの」
練は運転しながら横目でちらっと見る。
「ふーん――受け取っておく」
芽唯は得意げにうなずき、顔を少しだけ近づけてささやいた。
「ねえ、お兄ちゃんの横顔、カッコいいよね。もっと見ていたいな」
練は無表情を貫いた。
「あっそう」
芽唯はくすっと笑い、窓の外の景色を見ながら話を続ける。
「ふふっ。運転してるお兄ちゃんって、なんだか頼もしい。守られてる感じがして安心するよ」
練は穏やかに言う。
「守られてるかどうかは知らないけど、運転者として当然の運転をしているだけだ」
芽唯は満足そうに頷き、少しだけ声を低くした。
「帰ったら、もっと甘えさせてね?」
「どうせ拒否しても勝手にやるんだろ?」
練は呆れた様子だった。
時は夕方、二人とも一緒に玄関をくぐると兄はいつも通り自分の部屋へ、妹はいつもと違ってアヒルの子のように兄にそのまま着いていく。
一緒に入れるかと思いきや、練は直前で足を速め、一人部屋に入る――すると当然、いきなり閉まるドアが顔に迫り芽唯の顔面にぶつかる。
「いーたーいっ!なんでこんなことするの!?」
ぷんぷん怒りながら兄の部屋にずかずか入り込む。
「こんな痛い思いされたのに、よく入ろうと思えたな――」
芽唯はくすっと笑い、ぶつけた鼻を赤くしながら言った。
「だって、お兄ちゃんのことが大好きなんだもん。離れたくないよ」
彼女はすぐさま練の机の横に座り、肩に手を伸ばして軽く触れる。
「ねえ、今日の大学の話、聞かせてよ?」
練はため息をつきながらも、芽唯の甘えた声に悪態をつけない。
「たいした話はない。お前には面白くもなんともないだろう」
芽唯はムッとした顔で、
「そういうつれない態度こそ、つまんないっていうの!」
と言いながら、無理やり練の腕をつかんで引き寄せる。
「もっと構ってよ、今日はいっぱい一緒にいよ?」
練は渋々ながらも、芽唯の期待に応えるようにほんの少しだけ笑った。
芽唯はそれを見逃さず、ふっと目を細めてから、ほんの少しだけ距離を詰めた。
髪をそっと耳にかけ、柔らかい声で言う。
「ねえ、お兄ちゃん。こうしてるとさ……なんだか安心するんだよね」
さりげなく肩に手を置き、軽くもたれかかる。
練は少し眉をひそめながらも、顔はそらさずに言った。
「……お前は本当に、しつこいな」
芽唯はくすっと笑い、微妙に首を傾げる。
「しつこいって、悪い?」
「……普通の義兄妹でも有り得ないだろ」
その声のトーンは穏やかだが、どこか緊張が走る。
芽唯はその反応を楽しむかのように、すっと目線を合わせてから、
「今日は特別に、ちゃんとお兄ちゃんだけの芽唯になるね」
そう囁いて、ちらりとスカートの裾を撫でる仕草をした。
練はすぐに目を逸らし、嫌そうな顔で呟く。
「……うざい」
芽唯はそれを聞くと、さらに距離を縮め、軽く腕を絡める。
「うざいって、嬉しいよ。ちゃんと私のこと相手してくれてるって反応だもん」
その声は甘く、それでいてどこか本当に嬉しそうだった。
「……知らん」
芽唯は嬉しそうに笑い、腕をぎゅっと締めた。
夜。
夕飯時、芽唯はリビングでちゃっかり宣言する。
「今日はお兄ちゃんの部屋で一緒にご飯食べるから~」
両親が顔を見合わせる間もなく、芽唯はすでに兄の皿と自分の分を手に、笑顔で颯爽と消えていった。
兄の部屋。
机の上に食事を並べた芽唯は、ちゃっかり兄の椅子の真横に正座していた。
「ねえ、お兄ちゃん。こういうのって、なんか特別な感じしない?」
「……しない――いつも家族と一緒にご飯を食べているだけだ」
「うそー。そんなことないよ!だって――」
芽唯は兄の口の前に、おかずが摘まれた箸を持っていく。
「はい、あーん」
「いらない。自分の箸で食う」
「ぶー……」
むくれたような声を出すが、芽唯の目はほんの少し潤んでいて、期待の色を隠しきれていなかった。
「そっちがそのつもりなら……!」
ブン――!
芽唯は兄の隙をついて強引に箸を奪った。
「お兄ちゃんの箸は私のもの〜、ペロペロしちゃうもんね!」
「あーっ!」
「ふふーん、これでお兄ちゃんは私の箸からしかご飯が食べれなくなったね?
そ・れ・と・も〜♡私の唾液がべったりついた箸の方がお好みかな〜?」
頬を赤らめて調子乗る芽唯。
「……こいつ――!うっぜぇ――!!」
練は苛立つような顔をして歯ぎしりするばかりだった。
「はい、あーん!」
芽唯は嬉しそうに笑って口を開け、自分の箸で一口食べると、それをそのまま練の口元へ差し出す。
「はい、お兄ちゃんも。間接キス~♡」
「……子供か、お前は」
そう言いながらも、練はひと口だけ食べる。芽唯はその瞬間、嬉しそうにぱちぱちと手を叩いた。
「やったー! お兄ちゃん、デレたー!」
「してない」
「してた!」
芽唯は椅子から少し立ち上がると、練のすぐ後ろにまわり、肩に顔を乗せた。
「ねえ、お兄ちゃん。さっきも言ったけど……今日の私は、特別なんだからね?」
耳元にかかる息。髪が頬に触れそうな距離。
練は言葉を飲み込み、苦々しく言った。
「特別にうざいな」
「うざいって言いながら、拒まないよね?」
芽唯はそのまま練の肩にもたれ、横顔をじっと見つめた。
「……お兄ちゃん。私ね、今日ずっと考えてたの」
「……何をだ」
「このまま時間が止まればいいのにって」
囁く声は、妙に静かで甘やかで――その温度に、練は思わず言葉を失った。
芽唯はそれを感じ取るように、そっと練の指に自分の手を重ねた。
「明日も、明後日も、ずっとこうしてたいな……」
その呟きに、練はついに言った。
「……いい加減にしろ」
「うん。そう言ってくれると思った」
芽唯は、まるで安心したように笑いながら、練の肩にそっと頭を預けた。
「でも、もうちょっとだけ。ね?」
部屋の灯りが、静かにその輪郭を包む。
ひとつ屋根の下、ひとつ部屋の中。
誰にも聞こえない声で、芽唯はそっとささやいた。
「お兄ちゃん……大好きだよ」
「だって、私だけが本当のお兄ちゃんを知ってるんだから――」
その一言は、まるで本当の恋人――いやそれ以上の理解者としてのように静かに響いた。