表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/16

やり直そう

トーストが焼ける匂いが、キッチンにふんわりと漂っていた。

母は無言のままバターを塗り、父は新聞を広げたまま、ページを一枚もめくれていなかった。


芽唯は、明るかった。

いつも以上に、やけに明るすぎた。


「おはよー! トースト、焦がさないでね」


キッチンのドアからひょこっと顔を出した彼女は、まるで何事もなかったかのように微笑んでいた。

顔色はいい。口調も元気。笑顔も――完璧だった。


「……芽唯、元気そうね」


母がぼそりとつぶやいた。

芽唯は間髪入れずに満面の笑みで返した。


「うん、元気だよ。すっごく元気。お兄ちゃんも、もうすぐ来ると思う」


その言い方は、どこかおまじないみたいで――。


足音が、階段から聞こえてくる。

ほどなくして、練がダイニングに現れた。


「おはよう」


整った寝癖のない髪。シワひとつないシャツ。完璧な微笑。

いつも通りの、絵に描いたような“優等生の兄”だった。


母は思わず、息を飲んだ。


「……練。今日は大学、あるの?」


「ああ。午後からゼミがあるから、午前は家で作業してから出ようかと」


模範解答。間違いのない調子。

でも、それがかえって、異物感を増していた。


芽唯はそんな空気にもお構いなしに、もぐもぐとトーストをかじりながら言った。


「ねぇお母さん、今週末さ、家族でどっか行かない? お兄ちゃんと私と、四人で」


何気ないようで、妙に響くその言葉。

笑顔で口にしていたけれど、それはどこか、永遠を願うような声音だった。


母はそっとカップを置いた。

陶器が軽く音を立てる。


「……芽唯。最近……夜、泣いてない?」


芽唯は、笑顔のままほんの一瞬だけ止まった。


「え? 泣いてないよ。なにそれ、変なこと言うなあ」


あっけらかんとした声。でも、明るすぎた。


「……なら、いいの」


母の返事は柔らかく。でも、その笑顔は張りついた仮面のように見えた。


その空気を打ち消すように、練が口を開いた。


「母さん、芽唯は元気そうだよ。何か良いことでもあったんじゃない?」


「うん! お兄ちゃんのおかげでね」


そのひと言に、母の指がピクリと震えた。


――違う。

この子は何かを“信じきってる”。

それは、私たち家族じゃない。


芽唯の“今”は、練しか見ていない。


 


そして練も――


一瞬、張りついた笑みの端が、ほんのわずか、形を失ったように見えた。

すぐに整い直され、それを母は見間違いだと思い込もうとするしかなかった。


 


父が、手元の皿を片づけるふりをしながら、不自然に立ち上がった。


「……芽唯。今日、学校から帰ったら少し話そうか。父さんと」


「え、やだ。私、忙しいよ」


「ほんの少しでいいから」


「やだってば。話すことないもん」


「うっ……」


芽唯の声は明るいまま。けれど、拒絶の温度は妙に強くて。

かつて裏社会の非常線すらすり抜けてきた元・怪盗の男も、さすがにこの娘の“拒否”には手を焼いていた。


父は苦しげに唇を噛み、言葉を飲み込んだ。


 


母はいても立ってもいられず、食卓を離れて芽唯の部屋へ向かった。


ノブに手をかける指が、かすかに震えていた。


「芽唯……」


声にならない声をもらしながら、そっとドアを開ける。


そこには、いつもと同じ整った部屋が広がっていた。

だけど、机の上の日記にふと目が留まる。


母はそれを手に取り、思わずページをめくっていた。

読もうとしたわけじゃない。ただ――自然に、引き寄せられるように。


ページの間に綴られていたのは、普通の、けれどどこか引っかかる言葉たちだった。

違和感のある文脈。不自然な繰り返し。整いすぎた敬語と、感情の見えない語尾。


読めば読むほど、母の胸の奥がぎゅうっと締めつけられていく。


「どうして……こんなに、誰にも見せられないものを抱えてるの……」


部屋を見渡しても、どこにも芽唯はいないのに、息遣いだけが残っているようだった。


母の頬に、涙がひとしずく、こぼれた。


 


一方、父はソファに腰を下ろし、重いため息を吐いていた。


「練……ちょっと、いいか」


練は視線を上げ、無言のまま父の方を見た。


「……お前に聞いておきたい。芽唯のことだ。最近のあいつの様子、お前はどう思う?」


沈黙が流れる。


練は、わずかに目を伏せてから口を開いた。


「……別に――」


 練の無関心さに父親は少し安心した、それと同時に怪盗時代の勘が言っている。

 なにかがおかしい――


 人はそう簡単に変わるのか――?


「そうか……俺は、もう何が正しいのかわからん……」


父の声は震えていた。

娘に拒絶され、妻に迷いが見えて、家庭の中で自分だけが立ちすくんでいるような感覚。


「お前だけが……きっと、芽唯を導けると信じてる。だから……頼む。

 少し前にあんなこと言ったばかりなのにどの面下げてお前に懇願できるのかと俺自身もよく分かってる――

 しかしもうお前に頼むしかないんだ――」


練は、ゆっくりと頷いた。


「……期待通りにするよ」


その顔に浮かんだ笑みは、やはりどこまでも、完璧だった。


完璧すぎて――誰の目にも、本心が見えなかった。


 玄関前。芽唯はわざと少しだけ寝癖のついた髪を指で直しながら、練に向かってちょっとだけ挑発的な笑みを見せる。


「お兄ちゃん、今日はどうしてそんなに真面目な顔してるの?もっとリラックスしてよ?」


練は眉をわずかに上げ、いつも通りの冷静な口調で答える。


「真面目にしているだけだ。別にお前に気を遣っているわけではない」


芽唯は一歩近づき、軽く肩にもたれかかりながら、ふんわり香るシャンプーの匂いをさりげなく漂わせる。


「そう言わないで、前みたいに甘えてほしいなぁ。たまにでいいからさっ!もう、お兄ちゃんってば、この頃いつも冷たくてさみしいよ?」


練はちょっとだけ視線を逸らしたが、そのまま真顔で答える。


「甘える必要はない」


芽唯は小首をかしげて、くるっと振り返る。


「じゃあ……これならどう?」


と、トントンと小さく膝を叩く仕草をしながら、スカートの裾を少しだけ上げて見せる。


「お兄ちゃん、見て見て!新しい制服の着こなしでしょ?」


練は目を細めてすっと距離をとる。


「……うざいな」


芽唯は笑顔でピースサインをしながら言った。


「うざい? うざいって、褒め言葉だよ?だってそれだけ私が一途で尽くしてるってことでしょ?」


練はぎこちない苦笑いしかできなかった。


「はぁ……わかった。帰ったら話を聞いてやる」


と言った。


芽唯の顔がぱっと輝いた。


「やった!お兄ちゃん大好き!」


そう言いながら、お兄ちゃんのほっぺたにちゅーした。


「やーめーろ」


練はため息をつくしかできなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ