露天風呂で聞こえる本音~温泉宿の悪役令嬢は全てお見通し~
温泉をテーマにした悪役令嬢ざまぁものを書いてみました。幼馴染に裏切られた温泉宿の娘が、不思議な能力で敵の本音を暴いて大逆転する物語です。湯けむりの向こうに隠された真実と、美月の成長をお楽しみいただければと思います。
老舗温泉宿「心湯亭」の一人娘である桜井美月は、玄関先で深々と頭を下げていた。
頬が熱く、屈辱で胸が締め付けられる。
「身の程を知りなさい」
恋人を連れた幼馴染の慎也の前で、都会的な美女・桜町麗華にそう言い放たれたのは、つい先ほどのことだった。
「田舎の温泉宿の娘が、慎也君に相応しいわけないでしょう?」
麗華の言葉は、宿泊客たちの前で美月の心を容赦なく刺し貫いた。
慎也もまた、見下すような目で美月を見つめていた。
「美月はまだ子供だから分からないんだよ。大人の恋愛ってものがね」
周囲の視線が痛い。
ひそひそと囁かれる声が聞こえる。
「泊まり客を名前で呼び捨てにしたらしいよ」
「でもそれくらいで怒るのかね。地元の同級生なんだろう?」
「それでも客は客だからね、怒らせたら頭を下げないと」
美月は唇を噛み締めた。
悔しさで涙が溢れそうになるのを必死に堪える。
父親が慌てて現れ、深々と頭を下げて謝罪した。
「申し訳ございません。娘が失礼を...」
その姿を見て、美月の胸に更なる痛みが走った。
* * *
その夜、美月は一人で自室に籠もっていた。
膝を抱えて座り込み、過去を振り返る。
母親を病気で亡くしたのは十歳の時だった。
それから父親と二人三脚で、この「心湯亭」を守り続けてきた。
慎也とは幼馴染で、昔は本当に仲が良かった。
美月が泣いている時は慰めてくれて、困った時は助けてくれる優しい男の子だった。
でも、彼が都会の大学に進学してから、全てが変わった。
帰省するたびに都会の話ばかりして、美月や地元の友人たちを「田舎者」として見下すようになった。
特に辛かったのは、心湯亭を「田舎のボロ宿」とバカにして、美月の心を傷つけることだった。
(私が何をしたって言うの...)
美月は母親の形見である古い髪飾りを手に取った。
桜の花をかたどった小さな簪。
母親がいつも大切にしていて、最期に美月にくれたものだ。
母が亡くなってから、この髪飾りを身につけて露天風呂に入ると、不思議なことが起こるようになった。
他人の本音が聞こえてくるのだ。
最初は戸惑ったが、最近はこの能力を宿の経営に活かすようになっていた。
お客様の本当の望みを知ることで、より良いサービスを提供できるようになったのだ。
でも今日は、この能力を別の目的で使ってみようと思った。
美月は髪飾りをつけて、そっと露天風呂へ向かった。
* * *
夜の露天風呂は静寂に包まれていた。
月明かりが湯面を照らし、湯けむりが幻想的に立ち上る。
美月は母の髪飾りをつけて、ゆっくりと湯に身を沈めた。
温かい湯が体を包み込み、心が少し落ち着く。
すると、隣の混浴露天風呂から声が聞こえてきた。
麗華と慎也の会話だった。
「お疲れ様。明日の朝には帰れるわね」
「ああ、田舎で嫌な気持ちをさせたかもしれないが、俺のふるさとを麗華に見てもらえて嬉しいよ」
だが、美月に聞こえてきたのは、彼らの口から出る言葉とは全く違う「本音」だった。
麗華の心の声が、鮮明に響いてくる。
(パパの建設会社で、この温泉宿を中心とした街全体の買収とリゾート化を狙ってるのよね。慎也なんて顔もそこそこだし性格も合わないけど、ネットに全く情報のないこの街の状況を知るのに役立ったわ。都会に帰ったらさっさと別れて、今度こそ憧れの先輩と……)
今度は慎也の心の声が聞こえてきた。
(麗華は派手好きだし性格も正直合わないけど、顔とスタイルは抜群だし都会的だから、地元の友達に自慢できるんだよな。これまでデート代もかなり使ったし、別れる前に投資した分は回収しないと。この旅行で地元の連中に見せつけて、夜は麗華と...やっと関係を持てるかもしれない)
怒りと悲しみが入り混じった感情が美月の胸を駆け巡る。
でも同時に、冷静な部分もあった。
この情報を使えば、彼らに報復できる。
美月は静かに露天風呂から上がると、明日の準備を始めた。
* * *
翌日の夕食。
心湯亭では、全ての宿泊客が一つの大きな円卓を囲み、一緒に宴会を開くのが大きな特徴だ。
他人との夕食を嫌がる人もいるが、新たな出会いを目当てにやってくる常連客もいる。
夕食代だけを払って宴会だけに参加する地元関係者も多く、特に今日は美月が招いて役場や組合の主要メンバーが集まっていた。
美月は無地の着物に身を包み、にこやかな笑顔で現れた。
「皆様、本日は心湯亭をお選びいただきありがとうございます」
麗華は相変わらず、宿の写真を撮りまくっていた。
年配の宿泊客がそれに気づく。
「お若いのに本格的なカメラをお持ちですね。趣味なのかな、やっぱりSNS映えを狙ってらっしゃる?」
「そういうわけじゃないんですけど」
麗華が口ごもった。父から渡された会社備品のカメラだ。
美月はカメラに目を向けると、小さなシールを見つけた。
「カメラについている桜のマーク、素敵ですね。桜町さまのお名前にちなんでつけていらっしゃるんですか」
微笑ましい会話の中、建設業界関係者の宿泊客が、はっとした表情を見せる。
「いや、それは桜町建設さんの社章だな。お嬢さん、もしかして桜町建設の娘さんかな?
この件で買収を検討していると聞いたが、もしかしてこの宿を狙ってたりして。あははは」
麗華の顔が青ざめた。
「悪い、冗談だよ冗談。桜なんてどこにでもある模様だし、偶然かな。
桜町建設さんは経営が厳しいみたいだからね、これだけ価値のある歴史的な宿を買い取るのは難しいだろう。
おやっさんを騙して安くたたければ別だけど・・・そうしたら俺の会社で買いたいよ」
皆にその会話を聞かせたところで、美月は次の話題に移る。
「お仕事の話は、私には難しいですわ。恋バナでも致しましょう。
私、<大人の恋愛>って分からなくて。皆さん教えていただけませんか」
嫌味を混ぜたが、麗華は話がそれたことを喜び、意に介していないようだ。
がはは、と豪快に笑ったのは地元の旅館組合会長だ。
「美月ちゃんはまだ分からなくていいんだよ。
でも覚えておきな。年頃の男は<アレ>のことしか考えてない。
例えばこういう場所に来ると、身体目的のやつはズボンの後ろポケットに<夜の準備>を忍ばせているもんだ」
その言葉を聞いて、慎也が慌てて後ろポケットの中身を押し込む。
麗華は眉をひそめた。会長が続ける。
「まあ、大切なのは中身だ。
男でも、女でも、話していれば育ちも中身も分かる。
気になる人がいたら、いろんなことを聞いてみるといいな」
その言葉に乗ったのが麗華だ。
「そうね。例えば<面白かった本を教えて>と尋ねてみて、
ビジネス書を教えてくれる人、話題の小説を紹介してくれる人、漫画を勧めてくる人……
大人の恋愛をしたいなら漫画はないんじゃないかしら」
慎也の顔が赤くなった。慎也が漫画しか読んでいないのは地元では有名な話だ。
宿泊客たちがざわめき始める。
* * *
翌朝、慎也と麗華は早々にチェックアウトした。
二人は互いに利用し合っていただけの関係だったことが露呈し、険悪な雰囲気で宿を後にした。
美月は玄関で見送る。
今度は堂々と、背筋を伸ばして。
その後、心湯亭には地元の人々が次々と訪れた。
観光協会の会長、老舗旅館組合の理事、そして地域の文化保護団体の代表者たち。
皆、美月の機転と勇気を称賛し、この地域の伝統を守るための協力を申し出てくれた。
また、昨夜の宿泊客の中にいた都市計画コンサルタントの青年が、宿の再生プロジェクトについて相談したいと申し出てくれた。
彼は誠実で知的な人柄で、美月との会話を心から楽しんでいるようだった。
美月は、新しい出会いに心が躍るのを感じた。
夕暮れ時、美月は一人で露天風呂に向かった。
母の髪飾りを手に取り、夕日に染まる湯面を見つめる。
温泉の湯けむりが立ち上り、空に溶けていく。
美月は静かに呟いた。
「お母さん、やっと分かったよ。本当の声を聞くって、相手を理解することじゃなくて、自分の心に正直になることだったんだね」
髪飾りが夕日に照らされて、美しく輝いた。
「私、もう誰かの期待に応えるふりはしない。この宿を、お母さんと私たちの想いが詰まった本当の『心の湯』にしてみせる」
露天風呂の湯面に映る美月の顔は、もう「悪役令嬢」ではなかった。
凛とした一人の女性の表情を浮かべている。
心湯亭の新しい女将として、そして一人の女性として、美月の新しい人生が始まろうとしていた。
温泉の湯は今日も静かに湧き続け、訪れる人々の心を温めている。
美月の母が込めた想いと共に、これからもずっと。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。温泉という癒しの場所で繰り広げられる人間ドラマを描いてみましたが、いかがでしたでしょうか。美月のように自分らしく生きる強さを持てたらいいなと、書きながら改めて思いました。もしよろしければ、感想やご意見をお聞かせください。