「闘技場、午前の部」
朝の日差しが眩しい。フレデリックは毛布から出ると、沢へ降りて行った。
フレデリックの頭の中では昨日のジェーンとのやり取りが克明に残っていた。ジェーンは何故か知らないが、俺に闘技場の参加費をくれる、いや、貸すという。そして懇願するような彼女の必死な顔と涙。
今まで俺のために泣いてくれる人なんかいたか?
小説を書くことを否定され、人を大罪人扱いする近所の連中のせいで、半ば精神を病みつつも、ここまで来れた。
ここは快適だ。誰の侵害も受けない。生まれ変わったつもりで闘技場の戦士として名を上げよう、そう誓った。
沢の流れを見下ろしながら、我に返るまでおそらく数分は使っただろう。
冷たい水を掬い顔を洗うと、野草採りへと出かけた。
野草を齧り、水を飲み、腹を満たす。昨夜のジェーンの料理は美味しかった。そう思うと不安も出てくる。このまま大成できずに生涯を終えてしまうのでは無いだろうか。
途端に将来が恐ろしく思えた。が、それもものの数秒だけだった。
飢えて死ねばいい。
その後にすぐに悩みが来る。
午後の部ではまず、勝てる相手がいない。マルコでさえ、自分より強い相手であった。
ジェーンの顔が再び浮かぶ。
そうだった、俺の直近の目的はヒルダとカンソウらを破ることだった。
正直鍛え不足だが、力量を知るにはやはり丁度いいのかもしれない。
鎧下着に着替え、まだ少し身に余るプリガンダインを身に着け、ベルトに吊った鞘に収まった剣を叩く。
「行ってみようじゃないか、午前の部に」
毛布を畳んで樫の木の下に置くと、その上に飛ばぬように石を乗せてフレデリックは出発した。
2
宿場町の朝の喧騒はさほどでも無かった。戦士達の姿は殆ど見受けられず、人通りはあるが静かなものだった。
やはり、応援する側も有名人の試合しか見たくないということだろう。
午前の部の会場はさぞや静かだろうなと、思いつつ、コロッセオの受付に入る。
「フレデリックさん!?」
受付嬢は驚きの声を上げた。毎度毎度驚かれるが、今回の驚きは違うものだとフレデリックにも分かっていた。
「ついに午前部に出るおつもりになられたのですね」
心なしか、安堵する受付嬢を見て、銀貨を一枚支払い剣を預ける。
「ジェーンはいるかな?」
「ええ、彼女も喜ぶわ」
受付嬢は歓喜するように言った。
事務所の扉が開き、ウサギの耳に黒いレオタード姿のジェーンが現れた。
「フレデリック」
「俺の力量を試しに来た」
「うん」
ジェーンは泣きそうな顔で頷いた。
そうして控室へ案内される。フレデリックは籠から長剣型の木剣を手に取った。
「フレデリック、これを」
ジェーンが銀貨を一枚差し出した。
午前の部でも俺は無様に一回戦敗退すると思っているのだろうか。
「借りるだけだからな」
「分かってるわ」
銀貨をフレデリックは受け取った。
「訊かないの? 午前の部がどんな感じか?」
「自分の剣で確かめるさ」
扉が叩かれ、案内嬢が顔を見せてこちらもまた目を丸くした。
「フレデリックさん!?」
「そうだ」
フレデリックは案内嬢の隣を抜ける。
「頑張って! 応援してるわ!」
ジェーンの声が背中に聴こえ、フレデリックは嬉しくなり軽く笑いが漏れた。
回廊を駆け、階段を上がり、再び駆けて会場へと飛び出る。
割れんばかりの大歓声とはいかなかったが、観客は居るには居る。
「挑戦者、こちらへ」
審判に促され、フレデリックは進み出る。
相手は両手持ちの剣の木剣を手にした戦士であった。顔は厳めしく甲冑姿が様になっている。途端にフレデリックは思った。午前の部とはいえ、誰もが鍛えているんだ。簡単には勝てないかもしれない。
「この勝負、貰うぞ」
相手がニヤリと微笑む。
「では、二回戦。デズーカ対フレデリック、始め!」
相手は一呼吸すると、咆哮を上げて斬りかかってきた。
まずは力量を量る!
フレデリックは片手剣を両手で握って受け止めた。
重たい手応え、膂力はある。
デズーカは吼えながら次々剣を乱打する。
フレデリックは受け止めながら、様子を窺った。
その時、相手が離れ、荒い呼吸を繰り返していた。
体力が無いな。この分だと腕の筋力も限界だろう。そろそろ終わりにするか。
フレデリックは無言で飛び出した。
上段からの剣をデズーカは得物で弾き返した。
だが、緩慢な動きであった。完全にバテている。フレデリックにも覚えがあるが、慣れない甲冑の重みが足を引っ張っている。
しかし、ガッツがある。相手は剣を弾き返しながら未だに生き残っている。
俺の剣の技術もまだまだということか。だが、それでも勝ちに来たのだ。
面白味もなく長引く試合に少ない観客達の悪態が木霊する。これは両者に向けられたものだった。
不意に、フレデリックはヒルダのことを思い出した。
俺を破ったフェイントを俺が使えないわけがない。
フレデリックは一旦下がると、バテバテのデズーカを睨み、突進した。
そして一撃入れようと突きを出そうとした。
デズーカも剣を突き出す。フレデリックは剣を戻し、相手の籠手を上から叩いた。
「勝者、フレデリック!」
会場からまばらな声援が送られた。
「クソガキが、覚えておけよ」
デズーカが悪態を吐いて出て行った。
一勝できた。初めての一勝だがフレデリックは喜べない。午後の一番の試合に出る猛者達が勝ち取る一勝とは程遠く、色褪せたものだ。
しかし、自分の実力がこれでよく分かった。
今は信念を曲げよう。逃げたわけじゃない。午前の部で十勝し、チャンプに挑む。それが今の俺の最大の目標だ。
向こう側から挑戦者が入場してきた。