「ジェーン」
午前は軽く身体を動かす程度にし、今日も午後一番に備える。
寝屋にしている郊外の草地から宿場町へ歩んでくるが、やはり、誰もフレデリックのことを覚えていないようだった。
彼を振り返る者も居らず、フレデリックは静かに闘技場の受付を訪ねた。
「フレデリックさん、また来たのですか!?」
受付がいつもと同じ驚きと呆れの声を上げる。少なくともコロッセオの関係者ならフレデリックの今の境遇と財布の中身を察しているはずだ。
「命がある限り、俺はいつだって来るぜ」
フレデリックは最後の銀貨を支払った。
「ジェーン、案内してあげて」
受付が言うと、ウサギの耳を着け黒いレオタード姿のジェーンが事務所の扉を開けて出てきた。
「あなたも強豪の揃わない試合に出れば一勝ぐらいのチャンスはあるかもしれないわよ」
挨拶の代わりに呆れのため息を歩きながらし、フレデリックは彼女の後に続いた。
控室に二人きりになり、フレデリックが籠の中から自分に合った木剣を探していると、その背にジェーンが言った。
「お金は大丈夫なの?」
「負ければ今日が最後の試合だ」
「故郷に帰る分はあるの?」
「帰る気はない」
フレデリックは丁度いい長剣型の木剣を手にして振り返った。
「ちゃんと食べてるの?」
「まぁ、何とか」
「そんなんだから、一勝もできないのよ。いい加減、夢見るのは止めて現実に帰りなさい。歳月は待ってはくれないわよ」
ジェーンが咎めるように言ったが、フレデリックは笑って答えた。
「とりあえず、一勝すれば、次の日の闘技場の参加費は稼げる」
「あなた、馬鹿よ」
扉が叩かれ、ジェーンの同僚が姿を見せたが、フレデリックの姿を見て、驚いていた。
「出番だろ、行ってくる」
フレデリックは呆気にとられたジェーンの同僚の隣を抜けて薄暗い回廊を駆けて、会場へ飛び出した。
2
誰への歓声だろうがお構いなしにフレデリックが会場へ飛び出す。今日も晴天で太陽の光りが土の大地を照らしている。
フレデリックは歓声に包まれながら良い気分で対戦相手のもとへと歩んだ。
相手は午前の部ではそこそこ名を上げているカンソウというフレデリックよりもいくつか年上の男だ。黄金色に輝く鱗型の金属が編み込まれたスケイルメイルに身を包み、兜をかぶっていた。
「この試合、貰ったな」
カンソウが思わずといったていでそう言った。フレデリックは別に頭にはこなかった。要は勝てば良いだけだ。午後一番の聖戦の恐ろしさと手強さを思い知らせてやればいい。
カンソウが両手持ちの剣を振り上げて構え、フレデリックはいつも通り正面に剣を向けた。距離は六メートル。審判が両者の様子を見て、宣言をする。
「第一試合、カンソウ対フレデリック始め!」
「とありゃあーっ!」
カンソウが咆哮を上げて、剣を下段に下し、突撃してきた。
下段から振り上げられた剣をフレデリックは避け、カウンターで突きを見舞う。
カンソウもまた身を捻って躱し、両者は同じタイミングで剣を薙ぎ払った。
木剣の音色、相手の力に痺れる腕。だが、負けるわけにはいかない。何故なら俺は聖戦の尖兵だからだ。
「午後一番の試合の偉大さを思い知れ!」
フレデリックは上段から一気に剣を下した。
「見え見えだ!」
カンソウはそれを避けるや、フレデリックの籠手に剣先を打ち当てた。
負けた……のか?
「勝負あり、カンソウの勝利!」
審判が宣言すると会場は更に沸いた。
負けた。負けた。明日からの試合どうすれば良いんだ?
「お前こそ、場違いなんだよ! 思い知ったか!」
フレデリックはトボトボと会場を後にしていたが、カンソウの挑発する声が聴こえなかったのが幸いであった。
薄暗い回廊を抜け、受付嬢の心配する声も耳に入らず、放心状態でブロードソードを返してもらうと、フレデリックはトボトボと宿場町を抜けて、郊外のいつもの場所へ来た。
何度も財布の中身を確認したが、銅貨が数枚しか残っていなかった。
まぁ、人生どうにかなるものだ。
フレデリックは素振りを始め、五十を超えると手が痛くなり、下半身を鍛えるために山道を駆け上がった。
そうしてヘトヘトになって戻ってきた。
パンの一つ買えないわけではないが、フレデリックは今宵は沢の水でお腹を黙らせることに決めた。
その時、前方から一つの影が歩んで来るのを見た。
マルコだろうか。
だが、それは赤いチュニック姿のジェーンであった。
「よぉ、ジェーン、俺の家に何の用だ?」
「家? 家なんてどこにも無いけど」
ジェーンは冷めた目でフレデリックを見ていた。
「こんなところに住んでたのね」
「こんなところとはなんだ、沢の水もあるし、足腰を鍛えるための険しい坂だってある」
フレデリックが大真面目に言うが、ジェーンの目線は離れなかった。
「どうするの?」
「何がだ?」
「今日で闘技場の参加費使い切ったんでしょう?」
「ああ。まぁ、何とかなるだろう」
「何でそんなに楽観的なのよ……強盗でもする気?」
ジェーンは呆れたように息を吐くと右手を差し出した。
「来なさい、私の家だけど、ここよりはマシだわ」
「いいや、せっかくのお誘いだが」
「来なさいって言ってるの! ちゃんとした食事を食べなきゃ、筋肉だってつかないわよ。あなた、本当にやつれたわ」
ジェーンの目が潤み、今にも涙が零れ落ちそうだった。
「な、泣くなよ、何で泣く必要があるんだよ?」
「泣いてなんかないわよ。良いから言うとおりになさい。闘技に出れる費用は私が出すから」
「何だって? よし、分かった、費用の方は勝ち抜いて賞金で返す!」
「本当に夢ばっかり見ているのね」
「夢がなきゃ生きていけない。さぁ、行こうか、君の家に」
「偉そうに言わないでくれる。さぁ、行くわよ、私の家に」
ジェーンがそう言い、フレデリックは長剣を鞘に収め、たった一枚きりの毛布を取る。それを見届けるとジェーンは無言で先に歩き始めた。