旦那様へ。
おお旦那様、ようこそ、この隠された書庫においでになられました。
旦那様のような偉大な御方においで頂き、書庫番としてこれに勝る幸いはございません。
遠路はるばるお疲れでしょう。甘いジャラーブでもお飲みになって一息つかれて下さい。
それとも――早速この書庫に納められている物語の目録をお検めになりますか?
ですが……ああ、旦那様、大変申し上げ難いことですが、この書庫に納められている物語は、閲覧することは許されていないのです。
この書庫には、賢者が成功する物語、愚者が破滅する物語、信心深い女が幸福を得る物語、冒涜的な男が奈落へ落ちる物語、長短問わず古今の様々な物語が納めらております。
共通点はただ一つ、タケオという一人の男が書いたという物語ということだけにございます。
このタケオという男、凡そ才と呼べる物は何一つなく、性は吝嗇にして狭量、その上女と博打を好み、取柄と言えば僅かばかりの暴力の腕だけという、救いようの無い人間であります。
万物のはじまりはアッラーなれば、全ての物語もまたアッラーが紡がれたもの。
されど、タケオという男は、盗人の子供が露店のタペストリーから好みの柄の一部を切り落とすように、アッラーの作られたこの世界から己の性に合う一節のみを剽窃し、我が手柄の如く物語を紡ぐのであります。
ああ旦那様、賢明なる旦那様は、そのような男の記したものが真っ当な物語ではないとお思いでしょう。
ご賢察の通り、タケオが記すものはアッラーのお導きに唾吐くような背信的な物語ばかり。
そのようなものを目にすることが、敬虔なムスリムの善男善女の人生にとって何のお役に立ちましょう。
何かのお役に立ったとしても、精々が、この物語の語り部のように堕落しないための戒めでしょうか。
タケオという無能無才の、醜い憐れな男の記したものは、この世界に留める必要すらなく、私めがここで書庫番をしていることも、単なる酔狂にござりまする。
しかし旦那様、旦那様程の悟り深いお方は、私が今述べたような事など、既に承前でこの書庫に足を運ばれたのでございましょう。
真の目利きは品物を見定める時、それを鬻ごうとする商人が――あるいは、それを作った職人ですら気づかぬ価値を見抜いて贖われると聞きます。
旦那様は――もしや、タケオすら知らぬこの書庫の中の物語の価値をご存じなのでしょうか?
――しかし、最初に申し上げました通り、この書庫は未来永劫開かれることはござりません。
されどそれは、旦那様がこの書庫に納められている物語を手に取ることが出来ないということを意味するのではございません。
この書庫と、旦那様とのご縁は結ばれました。
書庫の中の物語は、アッラーのお導きによって、どこか思いがけない場所で旦那様の前に姿を現すことでしょう。
何かの読みかけた物語の続きとして。
物書き達が己が腕を試す闘技場の中で。
場末の壁の落書きとして。
電子の大河の呟きの中に。
あるいは、タケオの懸想する女性への恋文の一節として。
旦那様がこの書庫の中の物語に巡り合うその日がいかであるのか、私めは楽しみでなりません。
それでは、帰り道お気をつけて。精明なる旦那様。
もうこの書庫には足を運ばれることなきようお願い申し上げます。
ごきげんよう。
(続)




