断罪返しさせた悪役令嬢は、辺境の地で幸福を掴む(※誤字ではない)
「偽聖女ナディア! 貴様との婚約を破棄する!」
学園の卒業パーティー。
一年の締め括りであり、卒業生を送るパーティーで、それは始まった。
「貴様はグレイシアの厚意を無下にし、そればかりか危害を加えた! 更に! 貴様が【聖魔法】を賜った事が偽りだと言う事は分かっているぞ!!」
そう宣うのは、この国マインセンの第一王子アッシャー・マインセン。黒髪にアイスブルーの目の美丈夫だ。
この国を代表する王族たるアッシャーが聖魔法使い――神殿の象徴に喧嘩を売り、その上神殿の【鑑定】まで否定した事に居合わせた学生達は慄いた。
神殿は、国と協定を築きながらも独立した組織。世界に蔓延る瘴気の対応を一手に引き受ける神殿に見捨てられたら、冗談抜きで国が滅ぶ。
瘴気の危険性を正確に理解していた学生は、この時点で実家に知らせを走らせた。
「どれも事実無根です。急に何を言い出すのですか」
その王子と相対するは聖魔法使いナディア。焦げ茶の髪に同色の目の素朴な少女だ。
田舎の男爵家の生まれで、王都に来た当初はThe田舎娘だった。王都に来て早三年、大分垢抜けて来たが、生来のものなのかいまだに田舎臭い印象が残る。
ちなみに、聖女とは女性の聖魔法使いを指す俗称だ。聖魔法使いには男性も居るのだが圧倒的に数が少なく、聖魔法使い=女性、と勘違いする者は少なくない。
ないのだが、仮にも王国を代表する立場の王子がその俗称を使うのは、己の無教養を晒しているも同然である。
小柄で大人しそうな聖魔法使いの少女は、見た目の印象とは裏腹に、背筋を伸ばし凛と王子を見返している。
そして、この騒動の中心にはもう一人。
「ナディア様、どうか本当の事をおっしゃってくださいませ。自ら認めるなら罪は軽くなりますわ」
「グレイシア……君はこんな女にも情けを掛けるのか……。こんな慈悲深い君をずっと勘違いしていたとは。許してくれ」
「そんな、アッシャー様……」
アッシャーの腕の中には、さっきからこのグレイシア・ストレーが居た。
グレイシアはストレー公爵家の令嬢だ。炎のような赤毛にエメラルドグリーンの目。背が高く、メリハリの利いた女性らしい体つきの、華やかな顔立ちの美女だ。
容姿に優れるばかりか学園に入学してから試験では首位をキープし続ける秀才。更に幼少期から領地経営に携わり、商会を立ち上げそちらでも大きな利益を出している、天才。
――なのだが、このような騒動を起こし、王子の腕の中に収まってうっとりと王子を見上げている姿には才気の欠片も見当たらない。むしろ馬鹿っぽい。
一体何が起きている。
学生達は固唾を呑んで騒動の成り行きを見守った。(一部は教師を呼びに行ったりした)
▶ ▶ ▶ ▶ ▶ ▶ ▶ ▶ ▶ ▶
グレイシアはストレー公爵家の長女として産まれた。
ストレー家は家族仲が良く、兄や弟妹に囲まれ、グレイシアは健やかに育った。
そんなグレイシアの転機は、王宮で開催された茶会の席で起きた。
未来の国を背負う、王子と年の近い令息令嬢を集めた交流会。グレイシアも当然招待され主席した。
王侯貴族に産まれ、既にマナーやらなんやらを教わっていても、ほんの五歳の子供達。
やんちゃな子も居たり、トラブルは絶えない。そんな中、何がどうなったのか。グレイシアはもう憶えていないが、大きな犬に威嚇された。
後から思えば、そんな危機的な状況ではなかった。その犬は王宮の警護を担う番犬で、指示されない限り人を襲ったりはしない。実際、威嚇されるばかりで近寄っても来なかった。
それでも当時のグレイシアには恐ろしくて堪らなかった。震え、立ち尽くすしか出来なかった。だからこそ、次に起きた事に心底驚いたのだ。
『く、来るな! あっち行け!』
自分と犬の間に割り込み、震えながらグレイシアを背に庇う男の子。それがアッシャー王子だった。
惚れた。
グレイシアは一瞬で恋に落ちた。
直ぐに大人が駆け付け、安心したアッシャーはびーびー泣いてしまった。でもそれくらいで恋は冷めなかった。
むしろ、そんなに怖かったのに助けに入ってくれたのか、と感動した。
『私、アッシャー殿下のお嫁さんになりたい!』
グレイシアは齢五にして将来を決めた。
家格も年も合うカップルだ。周りは応援した。度々茶会を開いたり何かしら行事に二人を招いて交流させた。
順調に仲を深める二人。この頃が、グレイシアにとって最も幸せな時期だった。
年を経るにつれ、『好き』だけではアッシャーと添い遂げられないと理解するグレイシア。
だが諦める気は無い。自分が王子妃として相応しい人間であれば良いのだ。
ただの王子妃ではない。アッシャーは第一王子、王位に最も近い存在だ。
まだ確定ではないが、いずれ王太子になり、ゆくゆくは王に。ならば、その妃は王太子妃に、王妃になる。
つまり、アッシャーを望むなら今から王妃を目指して学ばねはならないのだ。
目指す頂きは高い。グレイシアは目標に向かって走り出した。
グレイシアは頭が良く、聡かった。求められるものを正確に理解し、自ら父親に願って経営に関わらせて貰い、領地の発展に貢献し、十を越えて直ぐに商会を立ち上げ、これも成功させますます領地を発展させた。
ただ自領を豊かにしただけではない。他の領地も共に発展していくよう政策を考えた。都市の設備を整え、法も税も見直し、民の暮しも向上させた。
助けを求めてくる人は貴賤を問わず手を差し伸べた。
いつか王妃となった時、多くの貴族や民に慕って貰えるように。アッシャーの御代が、民の笑顔で溢れるように。
成人前にして、グレイシアは慈悲深き賢者として名を国に轟かせた。
王子妃候補は他にも居たが、グレイシアに並ぶ者は居らず、アッシャーの婚約者はグレイシアでほぼ決まりとなった。
誤算は、そうして実績作りに専念し過ぎてアッシャーとの間に溝が出来てしまった事だ。
領地経営に関わり、商会の経営もしていれば、アッシャーと会う時間も当然減る。
グレイシアとて寂しかったが、将来確実にアッシャーの妃と成る為、と我慢していた。アッシャーも理解してくれてると思っていたが、そうではなかった。
『シアは、僕と居るより仕事が楽しいんだね』
ある日、そう言われた。
そんな事ない。これはアッシャーの側に居る為にやっているのだ。
そう訴えても、じゃあ自分と居てと言われても、既にグレイシアの予定は埋まっている。先方の居る事だからグレイシアの一存では変更出来ない。
アッシャーは拗ねた。
このままでは不味い。
危機感を持ったものの、グレイシアは既に領地でも商会でも重要な役を担っており、簡単には仕事を減らせない。王子妃教育(王妃教育)の手を抜く訳にもいかない。
それでも少しずつ時間を作るよう工夫し、アッシャーとの時間を確保するようにしたが、その時には。
『グレイシアは王子妃の座が欲しいんだろ?』
なんて言われるようになっていた。
実績にばかり目を向け、肝心のアッシャーを蔑ろにしてしまったのは痛恨の極みだ。
今直ぐにでも仕事を放り出してアッシャーに引っ付いて居たいが、婚約はまだ確定していない。
この世界では、十五で成人と見做される。
それは十五に成らないと、神殿で祝福の儀を受けられないからだ。
祝福の儀では、神々より祝福と呼ばれる特殊な力を神々より賜る。
剣術や魔法のような能力や、思考を補助するようなもの、豊饒のような自然に影響を与えるものまで様々。
神々より賜るそれは、人間の都合より優先されるべきもの。
祝福の内容によっては跡取りが変更になったり、予定とは全く別の進路に進まざるを得なくなる。将来設計がここで変更される可能性が、常にあるのだ。
滅多に無い事だが、祝福次第で、アッシャーもグレイシアも、貴族でさえなくなる可能性がある。
ゆえに、婚約や跡取りの決定は、必ず十五を過ぎてから行われるのだ。
グレイシアとアッシャーは同い年。十五まであと数年。
祝福が判明して、問題が無ければ、正式に婚約者に成れる。
そうしたら今度こそ、仕事を減らしてアッシャーとの仲を修復しよう。今まで我慢していた分、傷付けてしまった分の埋め合わせをするのだ。
あと少し。
あと少しだけ……。
やがてグレイシアは十五になり、少し遅れてアッシャーも十五になった。
グレイシアは巌と勤勉の神から【因果応報】と【土魔法】を賜った。【因果応報】は文字通り、自身の行いがそのまま身に返るというもの。悪事を働けばひどい目に遭うが、同時に努力すれば報われる事を保証するものでもある。【土魔法】はそのまま、土に関わる魔法が使える。
努力家のグレイシアらしい祝福だった。
アッシャーの祝福は虹の七つ神:赤より【健康】と【長寿】を。
当たり障りの無い祝福だが、アッシャーは健康で長生きしてくれると神が保証してくれたのだ。
グレイシアは心底嬉しかった。
グレイシアもアッシャーも、何ら問題は無かった。
よって予定通り、二人の婚約は確定し、正式に婚約式を執り行うのを待つばかりとなった。
グレイシアは踊り上がって喜んだ。これまでの努力が報われるのだ。これでようやく、アッシャーの隣に立てる。
そう喜んだ矢先の事だった。
ある男爵家の令嬢が【聖魔法】を賜ったとの報が入った。
それと同時に、アッシャーとその聖魔法使いが婚約を結んだと知らされた。
『久方ぶりに現れた貴族産まれの聖女。王家に召し上げ、国母となっていただき、国を守っていただくのだ』
アッシャーがそう言い、己の妃に望んだのだと聞いた。
【聖魔法】。
それは瘴気より人々を守れる唯一の力。
王侯貴族とも一線を画す、神聖な存在。
こればかりは努力ではどうにもならない。
生まれて初めての挫折だった。
「はじめまして、ナディアと申します」
言って、目の前の少女は中途半端なカーテシーを見せた。
挨拶のタイミング、視線、笑み、何一つなっていない。
こんな有り様で、アッシャー様の婚約者に収まるなんて。
胸の内にドロドロとしたものが湧き上がる。高位貴族の矜持で表に出しはしないが、その内面は荒れ狂っていた。
「ナディア様の教育係を任じられました、グレイシア・ストレーです。どうぞよしなに」
手本として相応しい、完璧なカーテシーを見せる。
ほぅ、とナディアが見惚れるのが分かった。呑気な様子に、その首を締め上げたい衝動に駆られた。
グレイシアはナディアの教育係に任命された。
ずっと王妃を目指していたのだから適任だろう、とアッシャー直々に言われては、頷くしかない。
今までの努力がこんな形で使われるなんて。
何もかも放り出したい。
ナディアを始末したくて堪らない。
本当に手を出したりはしない。
人間にとって最大の脅威、瘴気。その瘴気に唯一対抗出来る存在が聖魔法使いなのだ。
聖魔法使いに頑張って貰わなくては、世界はあっと言う間に瘴気に覆われ、人間は住処を失い、滅びてしまう。
人類の命綱と言っていい存在なのだ。危害を加えるなど言語道断。
分かっている。彼女は神に選ばれた。だからアッシャーにも選ばれた。
神殿との連携も重要だ。神々の庇護の象徴たる聖魔法使いを伴侶とすれば、アッシャーの地位は確固たるものになるだろう。
例え実務能力が無くても、聖魔法使いを娶るメリットは大きいのだ。それは理解している。
かといって、立ち居振る舞いがお粗末では話にならない。彼女には王子妃に相応しい振る舞いを身に着けて貰わなくては。
そう、全てはアッシャーの為に。
アッシャーが統治する未来の為。アッシャーの幸せの為。
だから、グレイシアはアッシャーが他の女と結ばれる為の準備にも協力する。
アッシャーの為なら、グレイシアは何でも出来るのだ。
そう言い聞かせ、狂いそうな己を抑え込んだ。
ナディアはいい生徒だった。
最初は出来の悪さに苛立ったが、ナディアは素直で指摘された事は直ぐに受け入れ、直した。勉強も熱心だ。呑み込みも悪くない。どうやら広い世界を知り、夢中になっているようだ。
ナディアは男爵の生まれ。それも社交にはあまり熱心ではない家で産まれ育った。ナディアはこれまで領地を出た事も無かったらしい。
そんな環境から教養も知識も求められる水準が低かっただけ。教えれば出来る子だった。
ナディアに教えるようになって、変わった事が一つ。授業の度にアッシャーと顔を合わせるようになった。それにより、以前よりアッシャーと顔を合わせられるようになったのは、皮肉な話だ。
「ナディア、励んでいるか?」
「はい、殿下。今日は地政学を教わっておりました」
毎回授業の終わる頃にやってくる来る王子。自分達が何年も前に終わらせた範囲について語るナディアに、微笑ましげに頷いて見せる。
……私には、一度も向けられなかった、顔。
「ストレー嬢の教え方はどうだ? 彼女は優秀だが、人を思い遣るのが苦手な質でね。やり難くはないか?」
「いえ、そんな事はありません。グレイシア様は私が楽しんで学べるよう、面白い小話を交えて教えてくれるんです。お陰で授業が楽しいくらいです」
「そうか? 君はいい子だな」
「はぁ……?」
言って、ナディアの髪を撫でるアッシャー。
私には、そんな真似一度もしなかった。それどころか、手を握ったのも八つの時が最後。
見せつけるようなそれに、グレイシアは淑女の微笑みを貼り付けて耐える。
「ナディアは大事な聖女だ。くれぐれも無理はさせるな。自分を基準にするんじゃないぞ。いいな?」
「はい、殿下」
最後にグレイシアにそう声を掛け、アッシャーは退室する。
ナディアと話す時のアッシャーは楽しげで、くつろいでいるように見えた。
グレイシアと居る時は、いつも気を張っていて窮屈そうだったのに。
王子妃として、教養、社交術、政治能力は必須だ。国政に参加するのだから当然だ。
それと同時にある、『妻』としての役割り。
この政治家と妻の両立は難しく、最初から放棄し、夫に愛人を持たせ自分は政治に専念する、と言う妃も居る。
それは普通に行われる事で咎められる事ではない。
しかしグレイシアは、アッシャーの妻になりたいのだ。
そこに『王子妃』と言う立場が不可分で付いていたからそちらも頑張っただけ。王子妃が王妃になる可能性も高かったから、それに備えて勉強の範囲を広げ、実績を積んだだけ。
グレイシアは誰かとアッシャーを共有するなど真っ平だったから。政治の上でのパートナーも、私生活でのパートナーも、自分一人のものにしたかった。
私なら出来る。両立させてみせる。
そう意気込んで、失敗した。
アッシャーはきっと、グレイシアに王妃としての能力なんて求めていなかった。
欲しかったのは、共に居て安らぐ相手。多分、グレイシアが美しいだけの人形だったなら、アッシャーは求めてくれていた。グレイシアを愛してくれた。
けれどその時は、別の誰かが『王妃』に立たされただろう。グレイシアの身分は愛妾。そんなのは嫌だ。
私は、どうすれば良かったのだろう……。
それはナディアが王都に来てそろそろ一年になろうという日の事だった。
ナディアから『相談したい事がある』との手紙が来た。内密に、王宮にも神殿にも聞かれたくないとの事だったので、ストレー公爵邸に招待した。
ストレー公爵邸自慢の庭を一望出来るサロンに案内されたナディアは堂々としていた。
去年、初めて会った時には落ち着きが無く、調度品や絵画にいちいち目を丸くしていた頃とは大違いだ。成長したものだ、と感慨深く思う。
ナディアはアッシャーとの婚約を阻んだ憎い相手だ。しかし、彼女が望んだ事ではないのだ。彼女は悪くない。
一年掛けて、グレイシアは己のナディアへの感情に折り合いをつけていた。
一通り型通りの挨拶を済ませると、ナディアは早速切り出す。
「率直に申し上げます。私はアッシャー殿下と結婚したくありません。殿下の婚約者の座を降りる方法はありませんか」
――殺す。
一瞬で頭が沸騰した。今、目の前にナイフがあったら考える前に手が動いてナディアを刺していただろう。
それ以外でも、体が動かなかったのは貴族教育の賜物だ。感情的な行動は、無意識に制限が掛かる。
それほどにグレイシアは己を律していた。
「何をおっしゃいます」
グレイシアが欲しくて欲しくて血反吐を吐いてでもと望むものを持つ貴方が、何を。
「この一年、私は聖魔法の習熟と同時に王子妃教育にも励んで来ました。その経験から思うのです。私に王子妃は務まりません」
「貴方は聖魔法使い。そちらに主軸を置くのは最初から分かっていた事よ。授業は付けているけれど、本当に王子妃の執務に取り組まなくても良いのよ」
「それも聞いています。ですが、最低限の勤めとしても、年間行事や式典の出席、視察の類いに絞っても、聖魔法使いとしての責務を果たすには、時間が限られてしまいます」
「それは周りが支援するわ。貴方は――」
「グレイシア様」
何とか翻意させなければ。
テーブルの下で手のひらに爪を立てながら説得するグレイシアを、ナディアは真っ直ぐに見詰めた。
「聖魔法使いの責務は、瘴気の対応です。その場に居るだけで心身を蝕む瘴気の中に進み、瘴気に穢された穢れ物と戦うのです。実際に戦うのは訓練された騎士達ですが、その騎士達を瘴気から守るのが、私の役目です。私は彼等が戦闘に集中出来るよう、万全の態勢でいなくてはならないのです。その為に――貴族の一員としての勤めが、邪魔なのです」
「それは……」
聖魔法使いとしての責務。
それを持ち出されてはグレイシアは弱い。瘴気に関しては勿論、戦闘に関しても素人なのだ。
ナディアが社交での疲れを残した状態で瘴気の中を進むのが、どれほどの危険を招くのか、グレイシアでは判断出来ないし、出来たとしても説得力に欠ける。
どう返したものか。
悩むグレイシア。しかし、続くナディアの言葉が、グレイシアの運命を変えた。
「それに、聖魔法使いと婚姻を結ぶ事で、アッシャー殿下は王太子に選ばれると聞きました。それが本当なら、殿下にとっても不幸な事です」
「なんですって?」
殿下にとっても不幸。
その一言が、グレイシアを大きく揺らした。
「……政治を知らぬ小娘の戯言ですが、殿下に玉座は荷が重いかと」
「不敬よ、ナディア様」
アッシャーが王に向いていない事など承知の上。だからこそアッシャーを支えるべくグレイシアは頑張ったのだ。
けれど、どうしてだろう。グレイシアの何かが揺らぐ。
何か……何かが飛び出そうな……。
「グレイシア様、貴方は、アッシャー殿下が王となった時、殿下が幸福になれると思いますか?」
「…………!」
「アッシャー殿下を玉座に据えるべきだと、本当に思うのですか?」
雷に打たれたようだった。
アッシャーはこの国の第一王子だ。最も次の玉座に近い者だ。次に玉座に座るべきはアッシャーだと、当たり前に思っていた。
それが正しい道筋。その考えは変わらない。けれど。
何がなんでもアッシャーを王にしなければならないのか?
……違う。
グレイシアは即結論を下す。分かっていた筈だった。アッシャーは王には向いていないと。
王になる事はアッシャーに多大な負荷を掛けると、予想して。だからこそグレイシアが頑張るのだと奮起した。
そしてグレイシアが頭角を表した結果、アッシャーの王位継承は確かなものになったのだ。
グレイシアを王妃にする為に、アッシャーを玉座に着けようとなったのだ。
それが、婚約者が聖魔法使いにスライドしただけ。
アッシャーが王に望まれてる訳ではないのだ。王子王女は、他にも居るのだから。
グレイシアの頭が高速で回転する。
今まではアッシャーが王になる前提で物を考えていた。そうするべきだと思い込んでいた。
どうして気付かなかったのだろう。アッシャーと結ばれる為に邪魔なのは、ナディアではない。
第一王子と言う立場なのだ!!
アッシャーの性格。現在の評判。王の態度。グレイシアの現状。国益。ナディアの立場。カチリカチリとパズルを組み上げるように絵が浮きあがる。
……いける。いけるわ!
私はまだ、アッシャーを諦めなくて良いのね!
……けれど、それではアッシャーの立場は。アッシャーの気持ちは。
――大丈夫よ、結婚してしまえばこっちのもの。愛して愛し尽くせばアッシャーも分かってくれる。それに王になったってアッシャーは幸せになれないもの。これはアッシャーの為でもあるの。
幽かに顔を出した良心も、この一年で熟成されたドロリとしたモノに塗り潰された。
想いを踏み躙られた時、純粋に相手を思っていた少女も共に踏み潰され、居なくなったのだ。
グレイシアは一つ息をついて改めて目の前の少女を見遣る。
グレイシアの黙考に、静かに付き合ってくれたナディア。
憎たらしく思った。殺してやろうとすら思った。ナディアさえ居なければ、アッシャーとの未来は約束されていたのにと恨んだ。
逆だ。
彼女はグレイシア達が真に幸福になる道を示してくれたのだ!
天使、いいえ女神だわ!!
「ナディア様」
「はい」
「私、アッシャー様が好きなの。どうしても、アッシャー様と結婚したいの」
「そうなのですね」
「ナディア様、私とアッシャー様が結ばれる為に、協力してくださる?」
その問いに、ナディアは心底嬉しそうな笑みを浮かべた。
「はい、喜んで」
それでいい。
そう言われた気がした。
▶ ▶ ▶ ▶ ▶ ▶ ▶ ▶ ▶ ▶
ナディアは田舎の男爵家に産まれた。
貴族と言っても裕福ではなく、当主たる父を含め一家全員領民に混じって畑を耕す暮らしをしていた。
自分はどこかに嫁に行かされるのか、それとも家を出て自力で生きて行くのか。
そんな風に考えていたナディアにとって、【聖魔法】を得たのは青天の霹靂だった。
すべてが一夜にして変わった。現実を受け止め切れずにいる内に、あっと言う間に王都の神殿の使者が来て王都に連れて来られた。王都のアレコレに目を回した。そして。
「は? 婚約? 誰と誰が」
「貴方とアッシャー王子殿下よ。……納得して署名したのではないの?」
ナディアは知らないうちに王子の婚約者になっていた。
心当たりはある。王都に来て直ぐの頃、必要だからとあれやこれやと署名したのだ。内容は覚えていない。我ながらバカかお前は、と思うがあれは仕方ない。
ナディアは、あっと言う間に事が進んで心の整理がつかないうちに王都に来て、怒涛の如く様々な説明を聞かされたのだ。
これから神殿で暮らす事と神殿での過ごし方、聖魔法についての説明、春になったら学園に通う話、それまでに淑女教育を見直す話、後見は誰にするかと立て続けに話されて止めに国王夫妻と対面させられて……。
もう、まともな思考力なんて残ってなかった。
そのタイミングを狙ってやられた気はする。
しかしこちとら男爵令嬢。いくら聖魔法使いになったからって、王家に逆らえる訳がない。
神殿の者は気にせず断ってもいいと言ってくれたが、ナディアの父が、兄が、この先もこの国の貴族としてやって行くのだ。選択肢なんて初めから無かった。
それに相手は第一王子。たかが男爵令嬢から見れば勿体ない相手。こちらが申し訳無いと思うくらいの相手だ。
いずれは王妃にとまで言われ恐ろしくなったが、聖魔法使いの聖務優先で良い、王妃としては飾りだとか。それなら可能かもしれない。
とにかく拒否権など無いのだ、やるしかない。
この時は、そう思っていた。
引き合わされて一月。ナディアは早くも婚約者に嫌気が差していた。
第一王子、ウザい。ひたすらウザい。
とにかく自慢話ばかりでこちらの話を聞こうとしない。
そちらから婚約を持って来た癖に有り難がれと言わんばかりの態度。
王子妃教育を押し付けておいて、その教育が順調だと文句を言う。あーだこーだ言っていたが、要約すると『自分より頭の良い女になるな』と言う事だった。
それからそちらから騙し討ちのように結んだ婚約なのにまるでナディアの方が望んだかのように言い触らしたり、パーティーの席でことさらナディアの田舎臭さをあげつらい、その上『不出来な婚約者を受け入れる寛容な王子』ぶったり、流行り遅れのドレス送っといてナディアのセンスに嘆いて見せたり。
殺していい? いいよね? ダメ? タ○潰すくらいは良くね???
ナディアはうずく拳を必死に宥めた。荒くれな領民とも仲良く付き合って来たナディアは割と血の気が多かった。
それでももう決まった事。相手がどんなクズだろうと務めは果たさなければならない。
そう耐えて来たが、ナディアが聖魔法使いとなってもう直ぐ一年になろうという頃、それは起きた。
「ナディア! 良かった見つけた。出掛けるよ」
「アッシャー殿下? すみませんが今から穢れ溜りの浄化に行くので――」
「知ってる。だからこっそり抜け出すよ。静かにね」
「は?」
言ってナディアの腕を掴み、引っ張るクズ王子。
「殿下! ですから仕事がむぐっ」
「静かにってば! 今キーアン国の商隊が着いた所なんだ。キーアンの交易品は人気で、良いものは直ぐに無くなってしまうから急がないと」
は? そんな理由で、聖魔法使いが居なきゃどうしようも出来ない大事な任務をすっぽかせって?
ガチで殺すぞてめぇ。
この時ばかりは、心のままに王子の股間を蹴り上げた。
「ギャッ」
「っ、誰かー!!」
王子は駆け付けた神殿騎士にとっ捕まった。
そのまま婚約破棄になんねぇかな、と思ったがそう上手くは行かず、ちょっとした行き違いとして不問にされた。
王子の愚行を咎めない変わりに、ナディアの暴挙も水に流す、と言う形だった。
もう我慢ならん。
瘴気の対処がどれだけの重責か、この王子は分かっていない。
訓練され、平気な顔で戦いに行く騎士達だって、本当に平気な訳じゃない。瘴気は目の前にするだけで恐怖を掻き立て、精神を蝕む。そして瘴気に汚染されると、体の中をミミズが這うような不快感に襲われ、それだけで正気を手放す者も居るのだ。
誰だってそんな目に遭いたくはない。
でも誰かがやらないと瘴気は国土を呑み込み多くの人が犠牲になってしまうから、踏ん張って戦うのだ。
その覚悟を。
その献身を。
あの男はなんだと思ってる!!
絶対に婚約破棄する。
問題は、ナディアは聖魔法使いというだけで政治的能力が無い事だ。ただ婚約破棄を望むだけでは国と神殿の間に溝を作ってしまう。あんなゴミクズの為に国の情勢を不安にさせるのも業腹だ。それは避けたい。
そこで、ナディアはグレイシア・ストレーに相談を持ち掛けた。
かつてあのゴミクズ王子の最有力婚約者候補だったグレイシア。
その経歴からナディアの教師となり、淑女の鑑としてナディアを導いてくれた彼女。
公爵家に産まれ育ち、百戦練磨の貴族達の中で幼少期からその才覚を発揮してきたグレイシアなら、ナディアの言い分を聞いてくれるのではないか、良い案を授けてくれるのではないか。
グレイシアは相談の手紙に直ぐに応じてくれた。
そして内容を切り出せば――向けられたのは、殺気。
なぜ。予想外の反応にナディアは気を引き締める。怯みはしない。この一年、伊達に瘴気と戦ってきた訳じゃない。
ナディアは王子妃には成れない。王妃などもっと無理。そう訴えてもグレイシアはナディアを説得しようとするばかり。
どうすれば。考えながら無理矢理捻り出した言葉が打開の糸口となった。
「それに、聖魔法使いと婚姻を結ぶ事で、アッシャー殿下が王太子に選ばれると聞きました。それが本当なら、殿下にとっても不幸な事です」
ゴミクズ王子の幸福など知ったこっちやない。むしろ不幸になるだろう国民の方が気の毒だ。
そんな気持ちで出した言葉だったが、グレイシアは目に見えて動揺した。
なぜ。自分の言葉を反芻し、ふと思い出したある噂。
『グレイシアはアッシャー王子にベタ惚れだ』
あんな素敵なグレイシア様がクズ王子に? ナイナイ。そう一笑に伏していたが、まさか。
「私、アッシャー様が好きなの」
沈黙の後、顔を上げて言うグレイシア。
嘘だろオイ。愕然とするが、それならばナディアとグレイシアは共闘出来る。
「ナディア様、私とアッシャー様が結ばれる為に、協力してくださる?」
ナディアは会心の笑みを浮かべた。
色々予想外だったが、結果オーライ。
そしてグレイシアは即座にクズ王子を王家から追い落とす計画を立てた。
グレイシア様素敵。
人気の無い学園の廊下。配置に着いたナディアとグレイシアは合図と共に歩き出す。
グレイシアがゆったりと歩き、その後ろからナディアが早足で近付き、追い抜く。その瞬間、グレイシアは態勢を崩し転ぶ。
ナディアは直ぐには止まらず、目の前の柱の影に張り付いてまた合図を待つ。
「成功です。アッシャー王子に無事目撃されました」
やがて現れた協力者の言葉に、ほぅと息を吐く二人。
柱の影から出てグレイシアに手を差しのべるナディア。
「ありがとうございます。――アッシャー様のご様子は」
「お二人の姿を見た後、鼻で笑い、立ち去りました」
「ホントにゴミだなあいつ」
忌憚なく毒を吐くナディアをグレイシアは宥める。
グレイシアの考えた作戦。それはナディアがグレイシアを虐げてるように見せかけ、弱ったグレイシアをアッシャーに助けさせる、というものだった。
ゆえに今、二人は狂言の『いじめ』を演じている。
「アッシャー様は承認欲求を拗らせているから、いじめられてる女の子を見れば引っ掛かる思うの。特に、頂点に居ると思ってた女が落ちぶれる様はアッシャー様に受ける筈よ」
その考察自体には同意する。しかし、なんでそんなゴミクズ男が好きなのか。
ふとした時に問うと。
「あら、私はアッシャー様が立派な方だから好きになった訳ではないわ。アッシャー様だから好きなのよ」
と言う。
なんだろう、割と良い台詞の筈なのに、何も響かない。むしろ薄ら寒い。
「恋ってそんなものよ。どんなダメな人でも、落ちたら思わずにいられないの。ナディア様にもいつか分かるわ」
「一生分からないままでいいです」
グレイシアは容姿にも身分にも才能にも恵まれた。
恵まれ過ぎて、帳尻を合わせるように男運をごっそり削られたのではないだろうか。
時に示し合わせて勉強会をすっぽかし、時にグレイシアが自ら池に落ち。
狂言のいじめはしっかり効果が出た。グレイシアとアッシャーは急速に距離を縮め、共に出掛けるようにまでなった。
そうなれば三人の関係の変化は広く知られる。ナディアとグレイシアはある日国王に呼ばれた。
そこでグレイシアはありのままを話し、国王夫妻に協力を求めた。
アッシャーに『ナディアはいじめを行う最低な人間』と思い込ませ、糾弾させた後に冤罪だと証明、聖魔法使いを不当に貶めた罪で身分を剥奪する。
国家反逆罪も適用可能な計画だ。当然国王は怒りを顕にし、威圧して来た。が、グレイシアの方が上手だった。
と言うより、王家は致命的なミスをしていた。
ナディアが言う。
「そもそもの話、一体いつ、私は第一王子殿下の婚約者になったんです?」
「は?」
アッシャーとナディアの婚約が成って既に二年が過ぎている。今頃何を言うのかと国王は訝しむ。
ナディアもなぜこの話を蒸し返すのかと疑問だが、グレイシアの案だ。ナディアはグレイシアを信じた。
「陛下、ナディア様は王都から遠い地方の産まれ。突然【聖魔法】を賜り、気持ちの整理の付かぬまま聖務の説明を受け、そのまま王都に連れて行かれ。さぞ疲労困憊なさっていたでしょうね」
ほぅ、と溜め息を吐きつつ気遣わしげな視線をナディアに送る。
「そもそも長い移動にお疲れだったでしょうに、そのような重大な決断をさせるなんて。配慮に欠けますわ」
「それは、少々気が逸ってしまったのは認めるがしかし、」
「その上、ナディア様に聖魔法使いとしての権利の事をきちんと説明なさってませんでしたね?」
あ、とナディアはここでピンと来た。
「私、十五年男爵令嬢をやっていたのです。聖魔法使いになったからと急には意識の切り替えなんて出来ませんし、そもそも聖魔法使いがどんな存在なのか、よく分かってませんでした。……まさか、王家からの縁談を断る権利まであったなんて、思いもしませんでした」
「そ、それは!」
「勿論、これは教育係だった私にも責任があります。この事はきちんと公表して、二度とこのような事態にならぬよう徹底的に調査しましょう」
「待て、それは」
国王の焦る様子に、ナディアはドン引く。
王家がナディアにした事は、想像以上に不味いことらしい。ナディアには二人の遣り取りの半分も理解出来なかった。
要するに、王家がナディアにした事を公表し、王家全体に被害を出すか。アッシャー一人を罪人とし、切り捨てるか。
そういう二択を突き付けた。……で、合ってる、かな?
「分かった、そなたの計画に協力する。それで良いな?」
「ご理解いただけて感謝しますわ」
「私も、自由の身になれればそれで構いません」
合意を得て会談は終わった。
その帰りの馬車の中で、ナディアはグレイシアに訊ねた。
「ねぇ、王家が騙し討ちみたいに婚約決めた事、そんなに不味い事なの?」
「ええ、そうよ」
さらりと肯定するグレイシア。
「王家は、貴方にまだ貴族意識がある事を利用し、断ってはいけないと思い込ませた。この事が神殿に伝われば、それだけで神殿はマインセン王家を見限る可能性が高い。更に国民に知られれば、王家への支持も落ちる。また、この事が国外に知られれば格好の攻撃材料になるわ」
「……ええと、そんなに?」
「あら、これでもまだ一部よ」
「…………」
「聖魔法使いは、それ程の特権階級なの。聖魔法使いが居なければ、人間は生きていけないのだから当然ね」
「………………」
ナディアはガックリと項垂れた。二年掛けてだいぶ聖魔法使いとしての役割りを理解したと思っていたが、まだまだ甘かったらしい。
「私、勉強頑張るわ。もう、こんな事態になりたくないもの」
「ええ、是非。私も微力ながらお手伝いしますわ」
そして月日は流れ、卒業パーティーの日。
「偽聖女ナディア! 貴様との婚約を破棄する!」
ナディアはその場で捕まり、王宮に軟禁された。
牢に入れられなかったのは、事前に通達があったからだろう。連行する騎士も世話役の侍女も罪悪感で一杯という顔をしていた。かえって申し訳無い。
そして数日後、国王夫妻の帰還と共にアッシャーは投獄された。こちらは本当に牢屋行き。
そして裁判が開かれ、アッシャーは無事平民に身を落とされ、ナディアはようやく解放された。
▶ ▶ ▶ ▶ ▶ ▶ ▶ ▶ ▶ ▶
アッシャー・マインセンは至って平凡な子供だった。
国王の嫡男という特別な立場に産まれた、平凡な子。それがアッシャーの第一の不運だった。
第二の不運は、真実特別な子供グレイシア・ストレーに好かれてしまった事だ。
グレイシアは早くから才覚を発揮し、並び立つアッシャーの凡庸さを際立たせた。
心からの賞賛を送られるグレイシア。
口先だけの賞賛しか得られないアッシャー。
王宮と言う魔窟の悪意も、幼いアッシャーに容赦なく襲い掛かった。
そうして肥大した自意識と劣等感を抱えたボンクラ王子は作られた。
自分を慕う婚約者候補を突き放し、傲慢に振る舞い、賞賛を求めて的外れの行動をとって周りに迷惑を掛けてはなぜ認められないと憤慨するアッシャー。
次の分岐点は、聖魔法使いが現れた時、その少女を婚約者に据えた事だったのだろう。
聖魔法使いは、田舎臭い、鈍臭そうな地味な娘だった。
――婚約者にするなら、あんな娘が良い。
一目見てそう思った。聖魔法使いだから、と理由付けはしたが、実際は見るからにアッシャーより格下で、従順で言いなりに出来そうだったからだ。本人は絶対に認めないが。
しかし、聖魔法使いはちっとも従順じゃ無かった。
教養もろくに無い癖にハッキリとものを言い、意見する。せっかく誘ってやってるのに、『聖魔法使いの任務があるから』と袖にする。
あげく、希少な交易品を手に入れる機会をやろうとしたら暴力を振るわれた。
こんな野蛮な娘だったなんて。これだから田舎者は。
父に婚約破棄を願い出たが、そもそもアッシャーが悪いなどとほざいて無視された。
あんな事を言って、神殿が怖いだけではないか、情けない。
だが、それから間もなく事態は変化する。
最初は、ナディアがグレイシアに態とぶつかり転ばせる所をたまたま目撃した事だった。
アッシャーは鼻で嗤った。あの程度の娘に転ばされるグレイシアも、幼稚な真似をするナディアも滑稽だった。
それに、仲が良いとばかり思っていたが、そうでもないらしい。その事に、胸がすく思いだった。
グレイシアが一人、ぽつんと教室で待ってるのを見つけた事もある。聞けば、ナディアの補習に付き合う為だとか。
そのナディアはだいぶ前に帰った。そう教えてやればショックを受けた顔をして俯いた。
大声で笑い出したい気分だった。
……けれど同時に、何かが疼いた。
決定的となったのは、グレイシアが池に落ちた事件。
悲鳴に駆け付ければ、グレイシアが池で溺れていた。流石にこれは洒落にならない。最低限の良識は残っていたアッシャーは躊躇い無く池に飛び込み、グレイシアを引き上げた。
ずぶ濡れでガタガタと震えるグレイシア。
「だ、大丈夫か……?」
「っ、アッシャー様……!」
グレイシアは震え青褪めながらも、アッシャーをひたと見詰め、笑みを浮かべた。
「また、助けてくださったのですね」
熱を帯びた眼差しに、その台詞に、遠い記憶が呼び覚まされた。
幼い日の、怯えるグレイシア。その時感じた、助けなければという思い。
なぜ、忘れていたのか……。
その日から、グレイシアとの距離が縮まった。
王子妃教育を受ける理由が無くなったグレイシアは、アッシャーの誘いに喜んで乗って来た。
共に食事をし、観劇に行き、時にはお忍びで街に出て。
グレイシアはアッシャーと居られるのが嬉しいと、アッシャーの側に居られて幸せだと全身で訴えて来た。
どうして自分は、グレイシアを嫌っていたのだろう。
グレイシアを愛おしく思った。
そうなると邪魔になるのがナディアだ。さっさと婚約破棄してしまいたいが、国王が承諾しない。
どうしたものか。ふとそう漏らした時、グレイシアの様子が可怪しくなった。
なんでもないと隠そうとするグレイシアを説き伏せ聞き出すと、とんでもない事実が出て来た。
グレイシア曰く、ナディアはまだ聖魔法が上手く使えないからと、用意された護符や聖水を頻繁に使い、聖魔法自体を使う所を見ていない。
不審に思い調べると、【聖魔法】を賜ったと確認したのはナディアの地元の神殿で、王都の神殿では確認をとっていないとの事。
その事実が示すのは一つだけ。
ナディアは聖魔法使いではなかったのだ!
ナディアはグレイシアを池に突き落とした疑いもある。グレイシアは頑なに認めないが、あの日からナディアを見ると怯えた素振りを見せるのだ。
あの娘を野放しには出来ない。罪を暴いて罰を下さなければ。
早速陛下に知らせようとしたアッシャーをグレイシアは引き留めた。
「いけません殿下! 神殿に弓引く真似をすれば、どんな目に遭うか!!」
「だからって不正を放置する事は出来ないだろう」
「ですが、そんな怖ろしい……」
青褪めるグレイシアに、アッシャーは奮い立った。
「大丈夫だグレイシア。僕なら上手くやれる、任せてくれ。それより、殿下じゃないだろう?」
「アッシャー樣……。本当に、任せてよろしいの……?」
「勿論」
あのグレイシアに頼られている。
その事に高揚して、一切の事実確認をしていない事に、アッシャーは気付かない。
国王夫妻が国際会議で国を離れている日に決行しようと思い立ったのはグレイシアがその話題を振ったからだし、衆目の前でその所業を明らかにすれば、仮に公的な裁きを免れても世間に裁かれるだろうと卒業パーティーの場を選んだのもグレイシアの誘導の結果だか、アッシャーはあくまで自分の策だと自負していた。
そしてパーティー当日。予定通りナディアを糾弾し、捕らえて牢に閉じ込めた。
その数日後、急ぎ帰って来た国王によりアッシャーは投獄された。
アッシャーは怒り狂った。なぜ自分が悪し様に言われるのか。どこまで自分を認めないつもりかと。
そして開かれる裁判。
ナディアの悪事を白日の下に晒し、今度こそ自分が讃えられるのだ。
しかしアッシャーの主張は全て退けられた。証拠が無いと。そんなもの用意してない。アッシャーは他者を説得する、納得させる、と言う発想が無かった。王子たる自分が告発したのだから裁かれて当たり前。そう信じて疑いもしなかった。
そんな主張、誰も受け入る訳がない。
挙げ句、ナディアはそれらがグレイシアの自作自演だと言い出した。証拠も示した。
バカバカしい。見苦しい足掻きだ。
アッシャーはそう思ったが、国王や重鎮達はナディアの無罪を認めた。
その上、グレイシアがいじめは自作自演だと自白した。アッシャーの気を引く為にやったのだと。
じわじわと、アッシャーの頭にその意味が浸透していく。まさか……まさか自分は謀られたのか。
自分を騙したのか、この女は!
更に、ナディアを偽物呼ばわりした件に言及される。それもグレイシアの虚言で自分は悪くないのに、きちんと確認せず、鵜呑みにしてナディアを糾弾した事を非難された。
悪いのはグレイシアなのに、なぜ。
アッシャーは王位継承権と王籍を剥奪され、平民となった。
その上グレイシアとも結婚させられた。あんな悪女と婚姻させるなんて父上は何を考えているのか。神殿も神殿だ、嫌がっているのに婚姻の儀を強要するなんて、何が聖職者だ。権力の犬め。
アッシャーははグレイシアと辺境に追い遣られる事になった。放棄された何も無い荒れ地だ。そんな所に住めだなんて、処刑と何が違う。
また業腹なことに、アッシャーは平民で姓も剥奪されたのに、グレイシアはソーサー男爵となった。
男爵程度でも貴族は貴族。アッシャーはその男爵の平民の配偶者だと言う。
あり得ない。逆だろう! どうして被害者の自分が平民で諸悪の根源のグレイシアが男爵なのだ!!
ちなみにこれは国王の采配で、要はグレイシア程の才を平民として放逐するのは惜しく、同時に恐ろしかったからだ。
平民は、権力が無い変わりに責任も義務も軽い。
グレイシアは貴族籍や商会の利権を奪ったくらいで無力化するとは思われず、自由にして何をするか分からなくするより、ささやかな権力と引き換えに責務を負わせる方を選んだのだ。
そして出立の日。
アッシャー元王子は両脇を騎士に抑えられ、罪人のように馬車に押し込められた。
飾りも何も無い粗末な馬車、平民の粗末な服が落ちぶれた事を嫌でも実感させる。
馬車は質素なだけで貴人用の最高級品に変わりはないし、服も簡素なだけで質は良いのだが、アッシャーにはそれが分からなかった。
「ナディア様、私の女神。貴方と別れるのだけが残念ですわ」
「女神って。それ定着するの?」
馬車の外で、性悪女二人が何やら話している。あんな女共が居なければ、自分は今頃王太子となっていたのに。イラッと来てカーテンを閉めた。
間もなくグレイシアも乗り込む。侍女も侍従も居ないまま出発した事に、また苛立つ。
グレイシアは窓越しにナディアに手を振り、見えなくなるとアッシャーと向き合う。
グレイシアはとろけるような笑みを浮かべた。
「ふふふ。しばらくは二人きりですわね。アッシャー様、お茶はいかが?」
言って備え付けの棚からお茶入りの水筒とカップを出すグレイシア。
世話をする侍女がつかない変わりにこうした物は用意されていた。
ずっと黙り込んでいるアッシャーに、お茶を差し出す。
その手はバシリと叩き落された。お茶が飛び散る。
「きゃっ」
「よくも平然と……! 貴様のせいで俺は――っ」
狭い馬車の中で立ち上がり怒鳴り散らすアッシャーは、唐突に目眩に襲われ姿勢を崩した。
「アッシャー様、危のうございますわ。座ってくださいませ」
グレイシアに支えられるまま、席に座る。グレイシアがアッシャーも隣に座ろうとするので突き飛ばしたかったが、腕が上がらない。
体に力が入らない、動けない。じわりと恐怖心が湧き上がる。
「すみませんアッシャー様。アッシャー様は暴れるだろうと思いまして、お茶に薬を仕込みました。ああ、私は耐性があるので効かないのです」
素直に茶に口を付けないのも予想出来たので、蒸気だけで効く物を。お茶もぬるめ、茶器も丈夫な物を用意した。更に床には絨毯も敷いた。怪我の防止目的だ。
恐怖がアッシャーを支配した。性悪どころではない、こいつは狂ってる! 化け物!
動けないアッシャーに寄り添い、指を絡ませるグレイシア。
やめろ触るな寄るな! 叫びたいのに、それさえも叶わない。
「アッシャー様、ずっと寂しい思いをさせて申し訳ありませんでした。もう、公務に煩わされる事も社交に時間を割かれる事もありません。領地の事は私が全て采配しますから、アッシャー様は何も心配要りませんわ。アッシャー様はただ生きていてくだされば、それで良いのです」
至近距離でうっとりとアッシャーを見詰めるグレイシア。端から見れば美女に迫られる羨ましい光景だが、アッシャーにとっては魔物の爪に掛かったも同然だ。
嫌だ。化け物。誰か助けてくれ、誰か。
胸の内で助けを乞うアッシャー。
「もう誰にも邪魔はさせません。片時も離しません。これからはずっと一緒ですわ。ずっと、ずぅっと……」
ソーサー領はこの後、中堅都市にまで成長を遂げる。
中堅とは言え、条件の悪く何も無かった地を短期間で育て上げたグレイシアの手腕は賞賛に値する。
おそらくはより大きくする事も可能だったが、グレイシアは意図的にそれ以上の発展を望まなかった。
その理由は夫たるアッシャー。
アッシャーは常にグレイシアの傍らにあったが、顔色に優れず、いつもぼんやりとして生気が無かった。
そんな夫の為にだろう、グレイシアは早々に領主の座を次代に譲り、晩年は夫の介護に専念した。
二人はいつまでも寄り添い、死後も一つの墓に葬られ離れる事は無かった。
《補足》
婚約者をナディアにと最初に言い出したのはアッシャーですが、その後はどちらかと言うと国王主導です。
国王はナディアを正妃に、グレイシアを側妃にするつもりでいました。グレイシアがアッシャーに惚れ込んでるのを分かっていたので、側妃でもアッシャーの為に働くだろうと考えたのです。
が、欲張った結果、色々失いました。
グレイシアがどう転んでも王家にダメージが入る形にしたのは、その下心を察していたためです。