3 伯爵邸にて
馬車が待っている城門を目指してフィリアが急いで歩いていたら、先ほど王太子の側にいた気の強そうな側近に呼び止められた。
「お待ち下さいっ!」
側近の大きな声に驚いて、ビクリと震えてしまった。
いつもランドルフに怒鳴られていたせいで、フィリアは威圧的な男性が苦手になっていた。
(私の事なんて放っておいて欲しいのに。……ああ、そうだわ。もしかしたら先ほどの私の態度を咎めに追い掛けてきたのかもしれないわね)
涙は止まっていたが、目の回りはまだ赤くなっているだろう。目元を少し擦ってしまったから、化粧だって崩れている。フィリアはそんな顔をこの側近に晒したくは無かったので下を向いていた。
「先ほどは失礼しました。主からの命で馬車までお送りします」
「ありがとうございます。迷ったわけではないので、一人で馬車まで戻れますので大丈夫です」
早く立ち去りたいフィリアの気持ちに反して、側近は引いてくれない。
「主からの命です」
目の前の側近から王太子の威光をチラつかせられてしまい、フィリアは仕方なくハンカチで顔を隠し、男の言葉に従う事にした。
「わかりました。城門までお願いします」
先を歩く男の背中に隠れるようにして俯いて男の後を歩く。途中何人もの人とすれ違ったが、男のすぐ後ろを歩いていたお陰で顔を見られずに済んだのは、不幸中の幸いだった。
少し歩くと玄関口を通り抜けて城門まで辿り着く。馬車停めにポナー家の馬車を見つけて乗り込もうとしたら、側近がフィリアに疑問を口にした。
「どうして馬車を玄関口まで呼ばないのですか?」
フィリアの立場なら、城門まで歩かずに玄関の馬車乗り場で乗り降りをするのが普通だ。
フィリアも行きは玄関まで馬車で乗り付けるが、帰りは城門そばで待っている馬車へ誰かを呼びにやらないと、玄関口まで馬車は来てくれない。
本来ならランドルフの周りの者がする仕事だが、彼等がフィリアの為に動くような事はない。
「急に帰らないといけなくなったのです。送って下さりありがとうございました」
フィリアはそれ以上話を続けたくなかったので、顔を隠すように馬車に乗り込み、御者にドアを閉めてもらった。
馬車に揺られながらフィリアはふと考える。
王太子の命でフィリアを送った側近はどこまで王太子に報告をするのだろう。
おそらく王太子はフィリアの顔を知らないから、馬車の紋章を見た側近からポナー家の者だと知らされるはずだ。
第三王子の婚約者なのに、城門まで歩く令嬢だと知られてしまい、フィリアは恥ずかしかった。
(でもこんな思いをするのもこれが最後ね)
ランドルフとの婚約は無くなるので月に1度の王宮でのお茶会も無くなる。
これから王宮へ訪れるは、年に数回開かれる王家が主催する夜会くらいなので、王太子と会う事はもう無いだろう。
たとえ次に夜会で同じ場所にいたとしても、自分のような地味な女を王太子が覚えているとは思えないから大丈夫だとフィリアは自分に言い聞かせた。
フィリアが伯爵邸に帰宅した時には、涙に濡れた顔は腫れてしまい、ハンカチを使った事で更に化粧崩れを起こしていて、見られないものになっていた。
「お嬢さま!どうなさったのですか!」
フィリア付きの次女のマーサが青い顔をして驚きの声を上げた後に、優しく肩を抱いてくれた。
幼い頃に父親と母親が離縁したので、フィリアは母親の愛情を知らなかったが、母親よりも少し年上のマーサがいてくれたお陰で、寂しさを感じずに育つ事が出来た。
「ささっ、今すぐ湯浴みの準備を致しますので、お部屋でお寛ぎください」
そう言ってマーサは下女たちに湯浴みの準備を命じ、あちらではお飲みできなかったでしょうと言って温かいお茶の準備をしてくれた。
ソファに座らされたフィリアは化粧を落としてもらいながら、ぽつりとマーサに告げた。
「マーサ、まだ決定した事ではないから詳しくは言えないけれど、王宮でのお茶会は無くなるわ」
フィリアの言葉の意味をすぐに理解したマーサの目が驚きのために大きく開く。
「まあ!何て事でしょう……。お嬢さまはあんなに頑張っていらしたのに」
マーサはフィリアをそっと抱きしめる。ふくよかな体のマーサは温かくて柔らかい。フィリアの瞳から再び涙があふれた。ここは王宮ではないので、フィリアは我慢しないで泣きたいだけ泣いた。
「ありがとう、マーサ。大好きよ」
湯浴みをして落ち着いたところで、フィリアは父親であるポナー伯爵に今回の事を報告するための手紙を書いた。
国外で商売をしている父親が、今どの国に滞在しているのか知らないので、返事がいつ頃に届くのかフィリアには分からない。
王家の意向によっては婚約破棄が無かった事にされるかもしれない。ランドルフとの婚約が継続になったらフィリアにとっては地獄が待っているので、破棄でも解消でもどんな形でもいいので、とにかくランドルフとの婚約が無くなって欲しいとフィリアは強く願っていた。
もしかしたら、ランドルフとあの公爵令嬢が婚約破棄の事を言い広めているかもしれない。
何を言われているのかがわからないので、この婚約がどうなるのかがはっきりするまではフィリアは屋敷で大人しく過ごす事にした。
手紙を送ってから10日ほど経った頃、家令のハンスから数日ほどしたら父親が帰ってくると伝えられた。
この10日間はいつ王宮から呼び出されるかと怯えながらフィリアは暮らしてきた。幸いそんな事態にはならなかったが、ふとした時にランドルフの暴言を思い出してしまい、何度も嫌な気持ちになった。
屋敷の中でも気分を明るく持つためにおしゃれでもしようと思って、クローゼットを開ける。
クローゼットの中は深緑色や臙脂色等の濃い色のワンピースやドレスが多く、明るいパステル調のものはほとんど無かった。
(改めて見ると、私の服って似たような色ばかりだわ)
この色合いは決してフィリアの好みではない。フィリアの一番好きな色は明るい黄色で、子供の頃はよく着ていた。
しかし、明るい色の服では地味な顔が余計に目立つ、とランドルフに言われたので、暗く落ち着いた色合いのワンピースやドレスばかり着るようになっていた。
(あら、この色……)
暗めな色調のクローゼットの中でフィリアの目に入ってきたのが、ラピスラズリのような色合いの、青いワンピースだった。
(王太子殿下の瞳は確かこんな感じのお色だったわ)
王太子は隣国の王女と政略で婚約を結んでいる。王太子は23歳だか、王女はまだ15歳なので、王女が18歳になったら両国を挙げて盛大な結婚式を挙げる予定だ。
青いワンピースを見ていたら、フィリアの記憶の中にあるウッディな香りが蘇ってきた。あの時フィリアに掛けられた、落ち着いた声はとても優しかった。
(王太子殿下だから、臣民にはきっと誰にでもお優しいのよ)
フィリアは自分の中から湧き上がってきそうになった感情を心の中の深い場所に押し込めて蓋をした。