17 劇場で
フィリアとクリフォードは昼食を食べた後に劇場へと向かった。
王太子のフレデリックがチケットを取ってくれたのは『奇跡と軌跡』という名の演目で、平民の騎士が王宮の騎士団長へと成り上がっていく喜劇だった。
劇場そばの馬車停めは混んでいて、前方にある劇場の入口には一階の立ち見席と自由席目当ての客が作る長い列が出来ていた。
「すごい人気ですね。あら、この列は私たちが観る予定の劇場ではないようです」
フィリアは聞いていた劇場名が少し先に見える、隣の劇場である事に気が付いた。こちらも立ち見席目当ての列は出来ているが、この劇場に比べたら遥かに短い。
クリフォードが目の前の劇場を見ながら目を細める。前髪で隠れて見えないが眉を顰めている表情だ。
「この劇場の演目は……今王都で一番人気らしいけど、私たちが観に行ったら笑い者になりそうだね。私は隣の喜劇の方がいいね」
そう言われてフィリアは目の前の劇場の看板に書かれた題名と宣伝文を見て驚いた。看板には『王子と公爵令嬢の恋』『真実の愛は誰もが虜になる』と書かれていた。
「クリフ様、あの演目は……」
「架空の国の王子と公爵令嬢の恋愛劇らしいよ。令嬢の方は体の弱い弟王子と婚約をしていて、弟王子を支えていたのだけど、弟王子は令嬢の手厚い看病の甲斐なく亡くなってしまい、兄王子が婚約者を亡くした公爵令嬢を慰めるうちに愛が芽生えるとかいう話だったかな?兄王子の婚約者は二人の愛に心を打たれ、自ら喜んで身を引くらしいよ」
フィリアは驚いて動きが止まってしまった。
(そのままだと不敬に当たるから少し変えているけれど、これはまるでランドルフ様たちの事に似せて作られた物語だわ。現実でもランドルフ様とマレーネ様がご婚約をされたら、この物語が実話だと勘違いをされなければ良いのだけど)
「世間では私たちはこのように思われているのでしょうか?」
「あの二人に連なる誰かが人気の役者を使って流行らせたのだろう。二人を知る上位の者は誰も信じていないけれど、一部の下位の者や平民となると信じているかもしれないね。……私達が観る劇も始まるから、そろそろ行こう、フィリア」
そうして二人はイーサンを伴い、隣の劇場の2階席専用の入り口へ入って行った。
フィリアとクリフォードが案内されたのは2階席中央のボックス席で、ドリンクも提供された。『奇跡と軌跡』は喜劇だけあって、つい笑ってしまう場面も多く、楽しく観れた。
劇が終わり、舞台ではカーテンコールが始まった。観客たちは舞台の余韻に浸りながら拍手を送っている。
フィリアも舞台上で汗を輝かせている役者達へ拍手を送るが、晴れやかな気持ちにはなれなかった。
(きっとこんな気持ちでいるのは私だけね)
いつもだったらもっと楽しく笑えるはずなのに、フィリアの心には隣の劇場の演目が小さな棘のように心の中に残っていた。
「フィリア、どうした?」
心配そうにクリフォードが浮かない表情のフィリアを見ている。今の彼女の気持ちを分かるのは彼だけかもしれない。
「とても楽しく素晴らしい劇でした。ありがとうございます」
クリフォードは隣に座るフィリアの頭を優しく撫でる。
「ごめんね、あの劇が流行っていたのは知っていたのだけど、まさか隣の劇場で公演をしているとは知らなかったんだ」
「いえ、王太子殿下のご好意は大変ありがたく思っていますし、こちらの劇も楽しかったです」
「ご好意……か、そろそろ出よう。出口は混んでいると思うから私から離れないように気を付けて」
クリフォードは確認するように杖を撫でてから立ち上がり、背後に控えていたイーサンに目配せをして歩き出す。
劇場にスロープは無く、階段だけだったが、クリフォードは杖と手すりを上手く使い先頭になって階段を降りる。フィリアの後にイーサンが続く。
劇場から出てみたら、隣の劇場も同じ時間に演目が終わったらしく、二つの劇場から出て行く観客達で、劇場前の通りは人で溢れていた。
フィリアはクリフォードに言われた通り、ゆっくりと歩くクリフォードの後ろにくっついて歩いていた。
突然前方から怒鳴るような叫び声がしたので、フィリアは前を見た。フィリアたちの前には平民と思わしき汚れた服装の男が片手を振り上げて立っていた。振り上げた手の先にはきらりと光る何かを持っている。
「イーサン!フィリアを頼むっ!」
クリフォードがそう言うと、同時に男が怒鳴り散らしながら向こうから駆けて来る。
「貴族なんてのはなぁ!この世からいなくなっちまえばいいんだよぉぉ!!」
周りには平民が多く、いかにも貴族といった出で立ちをしているクリフォードは目立っていて、男の目にすぐに映ったらしく、男はクリフォード目掛けて駆けて来ると、持っていたナイフごとクリフォードへ突っ込んで、二人して地面に倒れる。
「きゃあぁぁ!」
「人が刺された!」
そばにいた女性が叫び声を上げ、どこかで男性が叫び声を上げる。
「あっ、あっ……俺は、俺は…」
クリフォードを刺した男は我に返って震えているが、道端に落としたナイフには先ほどまでは無かった赤い血が付いていた。
男は周りにいた男たちに一斉に押さえつけられてから両脇を抱えられるようにして、どこかへ連れて行かれる。
全てが計算された劇のように、一瞬で起きた出来事だった。
しかし、倒れたままのクリフォードの脇腹辺りには赤い染みが広がっている。モスグリーンのコートを着ていたので、血の赤さが嫌に目立つ。
フィリアは男が叫び声を上げた時に、咄嗟にイーサンが前に立ち、クリフォードを背にしてフィリアを庇うように抱きしめてきたので、フィリアには何も見えなかった。
「クリフ様っ!」
フィリアはクリフォードのそばに駆け寄って、ワンピースが汚れる事も気にせず道路に座ってクリフォードの手を握る。
片手で脇腹を押さえ、大きな体を丸く縮めるクリフォードは息も荒く、固く目を閉じている。
「クリフォード殿下をすぐに馬車へお連れしろ!」
イーサンがそう叫ぶと、近くにいた平民の服装をした何人かがクリフォードに駆け寄り、クリフォードの両肩を抱えるように立ち上がったところで、ちょうど馬車が来たので、クリフォードと一緒に乗り込む。
イーサンはドア側のカーテンを閉めると、反対側の窓のカーテンも閉めるようにフィリアに伝えてからドアを閉めた。
王家の紋章を付けた馬車がゆっくりと動き出す。少しずつ馬車のスピードが上がったところで、荒かったクリフォードの呼吸がピタリと落ち着き、クリフォードの瞳がぱちりと開く。
「クリフォード様!」
クリフォードの頭を自分の膝に乗せていたフィリアは、クリフォードの瞳が突然開いたので、驚きの表情を浮かべている。
「驚いたよね、こんな茶番に巻き込んでしまってごめんね」
(茶番?まさか、あれがお芝居だったという事なの?)
「さっき刺されて、ちっ、血が出ていましたっ」
「あれはね、刃を潰したナイフを使ったんだ。最初の予定だと演劇用のおもちゃみたいなナイフを使う予定だったのだけど、近くで見るとすぐに分かるから変えたんだ。血は刺したヤツが用意したから分からないけれど、鶏か何かの血を使っているのだと思う」
クリフォードの倒れた姿を見た時に自分がどんな思いでいたのかクリフォードは分かっているのだろうか。
そう思うとフィリアの中で、何事も無くて良かったという気持ちと、怒りの感情が湧き上がってくる。
フィリアの瞳からはたくさんの涙があふれて、クリフォードの頬の上に落ちてくる。
「何でっ、……こんな事をっ!ふざけて、いらっしゃるのでしたらっ、私はっ、あなたをけ、けっ軽蔑しまっ……うっ、うっ」
「そうだよね、怒っているよね。俺もこんな事なんてしたく無かったから、なるべくフィリアに迷惑を掛けないようにしたつもりだったのだけど、怖かったよね」
クリフォードは血が付いていない方の手を伸ばしてフィリアの涙を拭う。
「今王都でランドルフ達の物語が流行っているから、兄上が俺とフィリアの美談を欲しがってたんだ。最初は俺の事を外して進めていたのだけど、途中でイーサンがバラして俺も知る事になった」
「じゃあ、あの刺した方は?」
「俺を刺したヤツ?あいつは俺の部下で、影として動いてもらっている。兄上は役者を使おうとしていたのだけど、どこかで情報が漏れて本物の刺客にすり替わる恐れもあったから、信頼のおけるアイツに代わってもらった。良かったら後で会ってみる?」
「……そうだったのですね」
フィリアの声は少し落ち着いてきていた。
「それに何も知らない者が駆け寄る事もあるから、刺された時には、出来るだけこちらの人間を置いて、周りを固めていたんだ。だから色々と手際が良かったでしょう?あと、ウチの影に混ざって身のこなしが素人とは思えない、知らない顔の者がいたけど、伯爵家からも影が来ていたようだね」
「お父様もご存知だったのですか?」
「俺はよく知らないけれど、兄上から話を通してあるらしい。おそらく兄に半ば強制的に了承させられたのだろう」
馬車が離宮に付くと、クリフォードはまた怪我人の演技を始めたので、怪我を信じた使用人たちを青ざめさせた。
そうして翌日の新聞には『第二王子、重体』の文字が大きく見出しを飾った。