11 変えたい、変わりたい
「フィリア嬢は少し私に慣れる練習をしようか」
「えっ!」
にこにこと笑顔で告げたクリフォードの提案が突然過ぎて、フィリアはお茶を吹きそうになってしまった。
「まずは名前の呼び方。私もフィリア嬢のことをフィリアと呼ぶので、フィリアは私の事をクリフと呼んで欲しい」
「私の事をどのようにお呼びされようと構いませんが、殿下をお名前をお呼びするのも恐れ多いというのに、愛称呼びだなんて不敬ですっ!」
「うーん、愛称呼びが不敬かあ。6年もアレに付き合わされてきたからか根が深いなあ。……イーサン、アンナ、来てくれ」
少し離れて控えていたイーサンとアンナが近くまで来る。
「フィリアが俺の事を愛称で呼びたくないと言うんだ。友人として意見が聞きたい」
「あー、そうだなあ。無理に愛称呼びをさせようとするとクリフがフラれると思う」
「私もイーサンに賛成。フィリア様にはもっと時間を掛けられた方がいいと思いますわ」
「俺も最初はそのつもりだったんだけど、夜会があるだろう。俺は守ってあげられないし、少しは男に対して耐性をつけさせたい」
「当日病気になれば?そういうのはクリフが得意だろうって、痛っ!」
アンナが容赦なくイーサンの足を踏みつける。
「そこまでよイーサン、おしゃべりな男は嫌われるわよ」
「……と、まあ二人とは他の者がいない時はこういう風に話す事もある。」
(不敬っ!その話し方は不敬ですわっ!!)
フィリアの心の中では不敬という言葉が途切れなく浮かんできたが、クリフォードが不敬と思っていないようなので何も言えずに、口をパクパクとさせていた。
「お、お二人は殿下とは乳兄弟で、幼馴染のように育ったとお聞きしています。そもそもの私とは関係性が違うのではないでしょうか」
「では私と、貴女の関係は?」
クリフォードの指がフィリアの指先に触れる。驚いて手ごと引っ込めたかったが、これこそが不敬になってしまうのではないかと咄嗟に思ったので、手を引く事が出来なかった。
「こ、婚約者です」
「婚約の先には結婚があるって分かってる?」
クリフォードの大きな掌がフィリアの手と細い手首を包むように触れてきたので、フィリアはビクリと震えてしまった。
「で、でもっ、婚約者とは適切な距離を取ることが必要でっ…」
「適切な距離ってどのくらい?」
「決して触れ合わない距離ですわっ」
フィリアの顔を覗き込みながら、クリフォードの掌はフィリアの手の甲を優しく撫でる。
そしてフィリアを覗き込んでいる顔がフィリアの見つめながら徐々に近づいていく
囚われてしまいそうになるくらいに、深く青い瞳がフィリアをじっと見つめている。
どうしていいのか分からなくなってしまったフィリアは顔を真っ赤にして俯き、フィリアの手を壊れ物を扱うように優しく撫で続けるクリフォードの手を見ていた。
クリフォードの手は意外にも指が節くれ立っていて、掌は硬く凹凸を感じた。
そして柑橘系の香りがしたと思ったら、お互いの息が感じられるほどクリフォードの顔が近づいてきたので、フィリアは咄嗟に息を止めて瞳をきつく閉じた。
「貴女の言う適切な距離って、誰が決めたの?」
低い声でそっと囁かれる。
婚約者との距離……、フィリアにそのルールを科したのはランドルフだ。
一般的には、社交界でも節度をわきまえればある程度の婚約者同士の触れ合いは許されている。
「……あ、そうでした」
フィリアが我に返ったようにそう答えたら、クリフォードはにっこりと笑い、フィリアの頭を優しく撫でた。
「……はー!びっくりしました。クリフォード様がフィリア様を襲ってしまうのかと思いましたわ」
そう言うとアンナはヘナヘナと床に座り込んだ。
「俺もそう思って焦った」
イーサンは顔を真っ赤にしながら額の汗をぬぐう。
「ここでそんな事をするわけがないだろう」
そう言うとクリフォードは何事も無かったかのようにお茶を飲むのだが、そばにいるフィリアにはクリフォードの手がわずかに震えていて、余裕があるように見せていたクリフォードも、実は緊張をしていた事に気が付いた。
(この方はきっと“演技”をされる方なんだわ。さっきのは私のためにしてくれた演技で、今は素のクリフォード様に戻られたということかしら)
フィリアは自分からクリフォードに触れてみたくなった。
フィリアはクリフォードの袖の端をそっと摘まんで少しだけ引いてみる。フィリアにはここまでが精いっぱいだ。
それに気付いたクリフォードが『どうしたの?』と尋ねているかのように優しく微笑む。
「あの、……クリフ様とお呼びしても、よろしいでしょうか?」
「もちろんだよ。よろしくね、フィリア」
「はい。よろしくお願い致します……クリフ様」
それから数週間が経ち、夜会まであと数日となったところで、クリフォードからドレスを直接プレゼントされた。
「開けてもいいでしょうか?」
「どうぞ」
そっと箱を開けると、中には明るい黄色のドレスが入っていた。
(青いドレスではないのね)
「きっと似合うと思う。それを着てアレを見返してくるといいよ」
「はい、ありがとうございます」
もっと喜んでもらえると思っていたクリフォードは、予想とは少し違ったフィリアの反応に首をかしげる。そばで見ていたアンナが助け舟を出した。
「フィリア様っ、クリフォード様はご自分とご一緒に出られる夜会で青いドレスを作りたいとおっしゃっていました」
どういう事か気付いたイーサンもアンナの後に続いた。
「王太子殿下とダンスを踊られるご予定なので、王太子殿下のお色は入れたくないともおっしゃっていました。これは男の嫉妬です……ぐふっ」
お前は一言多いと言わんばかりに、クリフォードが無言でイーサンの腹に拳を入れていた。
「私と兄上は瞳の色が同じだからね。青色のドレスを着てダンスを踊ったらフィリアが兄上に懸想しているのではないかと誤解されてしまうかもしれないよね。兄と違う色といったらこの髪の毛だけれど、私が隣にいないのにこの色を着ても良いことなんて無いでしょう?私はこの夜会でフィリアの評判をひっくり返したいと思っているんだ」
「私の、評判……ですか?」
「キミはエルデン王国の中で一番裕福なポナー伯爵令嬢で、王位継承権2位の私の婚約者なんだ。あのような者たちに貶められ続けているのが、私はどうしても許せない」
頭の中にこれまでフィリアを馬鹿にしてきた令嬢や令息たちの顔が浮かぶ。
冷たい瞳に嘲るような囁き声、フィリアを見て冷笑するいくつもの顔。
――枯葉令嬢
彼らの顔を思い返すと氷を当てられたように心の中が冷たく固まってしまう。
これまでフィリアは婚約者にも相手にされず、婚約者の恋人達にバカにされ続け、ダンスすら踊れず見た目が地味な枯葉令嬢だと囁かれてきた。
今のフィリアの社交界での立場は底まで落ちている。
フィリア自身はそんな立場を諦めて受け入れてしまったというのに、クリフォードはそれを変えてくれようとしている。自分を応援してくれる人がいてくれて、フィリアは嬉しかった。
(クリフォード様がこんなに私の事を考えて下さるのが嬉しい。今まで社交界に私の味方なんて誰もいないと思っていたけれど、今は一人じゃない)
「私の立場の事まで考えて下さるなんて…、嬉しいです。ありがとうございます」
フィリアの瞳から涙がこぼれ落ちた。
クリフォードの思惑が外れて自分の評判が変わらなかったとしても、これからはせめてもう少し堂々としていきたい。フィリアは強くそう思った。
(クリフ様が私の評判を変えたいと思われていらっしゃるのなら、私も自分を変えてみたい)
「あのう、そろそろお支度に取りかからせて頂いてもよろしいでしょうか」
そう言ってアンナがフィリアにハンカチを渡し、ドレスを試着するために客間へと案内していく。