82話 とんかつ
『向日葵』。
それがイリスの心を虜にした食堂の名前だ。
カレーを始めとした独創的な料理が数多く並び。
それだけではなくて、オーソドックスな料理もある。
隠れた名店として人気が高い。
その味の虜になる人はたくさんいて、イリスもその一人になった。
人間を滅ぼす?
まずはその前に腹ごしらえだ。
昔の偉い人も言った。
腹が減っては戦はできぬ。
「ごきげんよう」
「あ、お客さん。いらっしゃい!」
看板娘のチサトが迎えてくれた。
歳は十五。
『向日葵』を営む夫婦の一人娘だ。
その容姿と気持ちのいい性格で、看板娘として人気が高い。
彼女目当てで店に通う客もいるほどだ。
「よかった、また来てくれたんですね」
「ええ。あのような話をされたら、確かめないわけにはいきませんので」
「えへへ、営業成功ですね。じゃあ、こちらにどうぞ」
再びカウンター席に案内された。
テーブルに案内されて、後で相席を頼まれたらたまらないので、イリスとしてはむしろカウンター席を望むところだ。
「今日はどうしますか?」
「そうですわね……」
また『かれぇ』を食べたい。
あの辛味と刺激は癖になる。
ただ、他の料理も興味があった。
「なにかおすすめはありませんの?」
「おすすめですか? そうですねぇ……今日はいい豚肉が入ったみたいなので、とんかつなんてどうでしょう?」
「『とぉんかぁつ』? 奇妙な響きの料理ですわね……」
「いえ、とんかつです」
「まあ、せっかくなので、その『とぉんかぁつ』をいただきましょう」
「はい、わかりましたー!」
イリスはわくわくしつつ、料理ができあがるのを待つ。
豚肉と言っていたから、豚肉を使った料理なのだろう?
シンプルに焼くのだろうか? それとも煮込む?
楽しみだ。
ついついよだれと腹の音が……
「あら、はしたないですわ」
すぐにキリッとした顔に。
「おまたせしましたー!」
「あらまあ」
料理が運ばれてきて、キリッとした顔はすぐに崩れた。
「これが『とぉんかぁつ』……」
なにやら茶色の衣に覆われているもの。
それと、千切りのキャベツが脇に添えられていた。
なるほど、確かに豚肉だ。
断面から香ばしく焼けた豚肉が見える。
脂身が残されていて、じゅわっと肉汁があふれてしまいそう。
しかし、この茶色の衣はなんだろう?
不思議に思いつつ、イリスは一切れ、肉を口に運ぶ。
「……んっ!?」
衣はサクサクだ。
それだけじゃなくて香ばしい。
ほのかな甘味も感じる。
卵のようだ。
サクサクの衣とほんのりとした卵の甘味。
それらが豚肉を包み込み、肉の旨味をしっかりと閉じ込めていた。
「これは……素晴らしいですわ!」
豚肉はとても柔らかい。
歯がいらないのでは? と思うほどで、簡単に噛み切れてしまう。
衣がしっかりとついているため、旨味が逃げていない。
それだけではなくて、ぎゅっと凝縮されていた。
肉の旨味と脂が口の中に広がり、幸せも広がる。
「これは……『とぉんかぁつ』のソースですの?」
一緒に提供されたソースは真っ黒だ。
しかもどろりとしている。
イリスは迷いつつ、ソースを『とぉんかぁつ』にかけた。
そして、ぱくりと一口。
「あら」
まず最初に感じたのは甘味だ。
甘味の強いソースは不思議と合う。
深みがある味のため、絶妙な加減で肉の旨味を引き出してくれていた。
甘味と旨味の二重奏。
いつまでもこの幸せに浸っていたい。
「とはいえ……」
食べ進めていくと、少し手が鈍くなってきた。
おいしい。
確かにおいしいのだけど、肉はボリュームがあって、脂身がたっぷり。
衣もサクサクで楽しいけど、こちらも油を使っているらしく、ずっと食べていると少々くどく感じてしまう。
そんな時、脇に添えられた千切りキャベツが目に入る。
なにげなく食べてみると、
「まぁ!」
みずみずしいキャベツが肉の油のくどさを消してくれた。
さっぱりとしてて、とても心地いい。
キャベツを食べることで、一度、リセットされていくのがわかる。
そうなると、また肉が欲しくなる。
くどいと感じていたはずの肉が恋しい。
サクサクの衣にたっぷりのソースをかけて、一口で頬張りたくなってしまう。
そして、またキャベツを間に挟んで……
「……はふぅ」
気がつけばイリスは『とぉんかぁつ』を完食していた。
肉だけではなくて、千切りキャベツも綺麗に食べていた。
なるほど、素晴らしい料理だ。
『とぉんかぁつ』は肉だけではなくて、キャベツと一緒に食べるからこそおいしい。
また一つ、新しい発見があった。
「ごちそうさまでした」
「はい、ありがとうございます! あ、お客さん、からしは使わなかったんですね」
「からし?」
「はい。からしも一緒に使うと、さらにおいしく食べられるんですよ」
「この黄色いソースが……あむ」
そんなにおいしいのなら味見をしてみよう。
そう思い、イリスはからしをパクリと食べて……
「っーーーーー!?!?!?」
その後、しばらくの間、イリスは涙目になって悶えるのだった。




