とある敵兵の記憶にて
その日、オレは二人も化け物を見た。
人間に魔族を『化け物』扱いする奴が沢山いるのは知っているが、人族や亜人族……つまり、人間にはもっととんでもない『化け物』がいたらしい。
オレは、魔族の名家『レッド・ラッド家』に仕える『ハーフヴァンパイア』だ。父親は純粋なヴァンパイアだが、母親が低級の悪魔だったらしい。小さな頃に両親とも人族に殺されたから、その顔はもう思い出せない。
行くあてがなく彷徨っていたところ、ブラッド様に拾っていただいたのだ。
今日は魔族の連合軍をブラッド様が指揮するとのことで、そのそば付きとしてついてきていた。
初めのうちは進軍はうまくいっていた。理由は簡単、敵の数が少なすぎたのだ。
まだ化け物の存在を知らないオレは、ブラッド様のそばに馬を寄せる。
「人間側、戦さの準備、全然できていなかったみたいですね」
「ははっ、みたいだねぇ。ここに来るまで、数人の人族と獣人にしか会ってないもの」
やはり、聞いていた通り、人間は知能がそれほど高くないらしい。大した軍師がいないからこんなに対策がされていないのだろう。
「その通りです。まさか、人族や獣人があれほど強いとは思わなかったですが、それでも数でねじ伏せられます」
魔族以外の人間という存在は、魔族に比べれば大した力がないと聞いていたが、それは嘘だった。彼らは一人でこちらの兵士十人程度圧倒するのだ。
オレが冷静にそう分析するが、ブラッド様は何がおかしいのか笑う。
「はははっ、心配しなくても、あれは異常だよ? 普通の人間はあれの……そうだね、二十分の一くらいの強さかな」
二十分の一……まぁ、実際オレが聞いていた人間の強さはその程度のものだ。
「では、人間は精鋭のみをぶつけてきた……と言うことですか?」
「いんや、それは違うねぇ。正しくは『精鋭をぶつける他なかった』が正解さ。この辺りの人間、多分だけど人間領の中でも『強者』しか住んでないんだよ」
強者しか住んでいない町……どういうことか気にはなったが、それを尋ねることは出来なかった。
もう少しで最初の人間の町『ペイジブル』に到着するという時、丘の上に立つ人間が見えたからだ。
そこにいたのは六人……いや、その背後に複数人いることが伺える。こちらを見下ろすように居座る彼らを見ると、少しイラッとする。
「ねぇ、ちょっと進軍を止めてくれるかな」
「……え? あの人数のためにですか?」
「ああ、頼んだよ」
ブラッド様はそれだけ言うと、わざわざ馬から降りて軍の先頭に進んでいく。
すぐさま部下に止まるように命令を下したオレは、ブラッド様が見える位置にまで馬を進めた。
アレのためにわざわざ止める? 止めずとも捻じ伏せることができるだろうに、どう言う意図があるんだ?
気にはなるが、ブラッド様の言うことは絶対だ。
すると、ブラッド様はなにやら親しげに話し始めた。
「おやぁ? こんなところで邪魔をするお馬鹿さんがいると思ったら、君たちだったのかい」
「本当に、迷惑な魔族だ」
敵の一人、馬に乗った白い髪を持つ騎士が呟く。
何だあの不届き者は。ブラッド様のことを知っているようだが、そこに敬意は読み取れない。
それから、彼らにしか分からない会話をした後、ブラッド様は続ける。
「本題に入ろう。君たち、もしかしてその人数で僕らと戦うつもり?」
「……そうだ」
そんな気はしていたが、バカらしい。あいつらは自殺願望でもあるのだろうか?
「そうだって……ホント、馬鹿なんだねぇ」
ブラッド様は、軽く笑うとあたりを見渡した。
「そういえば、あの馬鹿筆頭……確か、シルドー、だったかな? は、いないみたいだけど、どうしたの?」
シルドー? 誰なのだろうか。話の流れ的に彼らのリーダーのようだが、この一世一代の事態に仲間といないところを見ると、大したことない男なのだろう。
「もしかして、見捨てられちゃった? いや、それとも逆かな? 見捨てちゃった? まぁ、彼に着いていく程の魅力、感じなかったけどさ」
ブラッド様がそう言った瞬間、空気が変わった。寝ていたドラゴンの尻尾を踏んで起こしてしまったような、そんな感じ。
彼ら六人……特にメガネのメイドと例の騎士、フードを被った女……いや、男か? から殺伐としたオーラが放たれた。
ブラッド様はそれに気付いているだろうが、それを気にした様子もなく続ける。
「あーー、じゃあ、お姉さんたち、僕の傘下に入らない? その無謀っぷりに免じて入れてあげるよ。そりゃぁ、多少僕らの『オモチャ』にされるだろうけど、それでもここで犬死するよりましでしょ?」
流石はブラッド様だ。敵にさえそのような温情を与えるとは……。本来なら、彼女らはこのまま蹂躙かれて、そのうえで慰みものされて殺されるだろう。
しかし、提案しているのだ。彼女らが命だけは助かる術を。
そんな寛大な我が主人は、下僕になる相手に対して自ら名乗る。
「そういえば、名前を伝えてなかったね。初めましての人もいるし……家来になるんだ。うん、名乗っておくよ。僕の名前は、『ブラッド・レッドラッド』レッドラッドが姓で、ブラッドの方が名前に……」
ブラッド様が……
吹き飛ばされた。
オレの横をものすごいスピードでブラッド様が通過する。
「ブラッド様!?」
オレはすぐさま馬から降りると、ブラッド様のところまで駆けていった。
「僕は大丈夫だよ、仕方ないね……こうなれば戦いだ。僕がさっきの男を相手する。だから、他の五人は任せたよ」
主人は、そう言うと背中に翼を生やした。
「みんな、生きて帰るんだよ? 僕がテイムした魔物、彼らを利用して安全に戦うんだ、いいね」
このお方は……オレの命を拾ってくださった時もそうだった。今も、いつだって自分の命より部下や身内の命を最優先にする。
なら、それを手助けするのがブラッド様の側近であるオレの役割だ。
「任せてください!」
「ふっ、いい顔ができるようになったじゃないか」
ブラッド様は、飛び立った。
「ブラッド様、貴方のおかげですよ」
それからは、例の『化け物』とブラッド様の戦いが始まった。
オレはそれを放って、残り六人の討伐へと目をやる。
「残り六人、何としても殺せ! ここで殺さなければ、後々邪魔になるぞ!!」
その声に従って、部下たちが駆け出す。
「ちっ、これは死霊魔術! 死んだ仲間を利用しているのか!?」
例の六人の後ろにいた複数人、どうやら死霊魔術によって操られた魔族らしかった。
「道徳心の欠けらもないな」
オレたちは死んだ者たちを使う、なんてことはしない。それは味方のものであっても、敵のものであってもだ。
これは、敵に『デュラハン』がいるのか。
死霊魔術を使えるのは、魔族の中でもデュラハンの得意分野だったはずだ。普通の死霊魔術は、道徳上の問題から『魔物』の死骸などで広く使われている。
己の仲間の死体に手に持つ槍を刺す。それは拷問に近かったが、それでもブラッド様のためにとオレは槍を振るった。
そして、また一人屍の命を刈り取ったところ前方に火の龍が現れた。
な、なんだあの魔術は!?
「退けぇぇええ!!!!」
オレは最大限、いやそれすら超える声量で呼びかける……が、それでも多くの魔族が犠牲になる。
「クソがっ、『ダイヤモンドナイト』あの騎士とアサシンを殺せ!」
こうなれば、出し惜しみはしていられない。切り札であった準SS級の魔物へと指示を出す。
その指示を受けて、ブラッド様が施した魔術が作動し、ダイヤモンドナイトを例の騎士のもとへと走っていった。
「これで、あとは三人……メイドとフード、それから緑の亜人か」
緑の亜人は気配からしてもそれほどの脅威にはならないだろう。問題は残りの二人だ。
その二人を探すべく、首を回す。
いた。メイドとフードは背中を預けあって戦っている。
「あのメイド……人じゃないのか」
彼女は手を銃に変形させており、その周囲にはよく分からない物が浮遊していた。
「『アンバーマンティス』ついてこい!」
相手がどのような存在であっても、彼らを倒すのがオレの使命だ。それも被害は最小限に抑えつつ。
アンバーマンティスがその大きな図体を動かす。
「魔術師から狙え!」
槍を突き出し、フードを被った敵に突撃する……が、それはメイドによって止められる。
彼女がオレに狙いを定めてビームを撃ってきたのだ。
「させません」
「ちっ、」
ひとまず身を引くことになってしまう。あの攻撃、一発でも当たれば俺は死ぬだろう。
「アンバーマンティス、敵を殺せ」
アンバーマンティスにただ一つ、絶対の命令を下す。瞬間、敵の二人の間に鎌が振り下ろされた。
「これは、準SS級の魔物ですか」
メイドは至極冷静にその攻撃に対応し、一斉にビームを放った。しかし、そう易々とやられはしない。アンバーマンティスはその鎌で全ての攻撃を受けきると、次はこちらの番とばかりに、無数の斬撃を放った。
メイドにあたり、頬から血を流す。
「イチジク!!」
フードが心配の声をあげる。
「大丈夫です。それより攻撃に集中してください」
その言葉と同時に、フードからとんでもない魔力を含んだ光が飛んできた。当たった魔族たちが蒸発する。
これは、距離をとっても不利に働くだけか……
「接近戦だ! 接近戦にもちこめ」
魔族の部下へと一気に命令を下すと、彼らは己の死すら恐れることなく、二人のもとへと突っ込んでいった。
しかし、メイドもフードもそれが危険と分かって居るのか、近寄らせないように全力で抵抗してくる。
その時だ。例のフードたちの頭上に複雑な魔術式が生成されようとしていた。
「近寄れ! 死にたくないなら寄れ!!」
オレの言葉を信じて、魔族たちが二人のもとへと駆ける。
……が、彼らには『死』が待っていた。
極大魔術を完成させたフードが、それを発動させたのだ。
「くそっ!! 早すぎる!」
しかし、それでもアンバーマンティスは怯まない。メイドとフードの前で戦い続けていた。
これは行くしかない。また魔術を放たれたら面倒なことになる。
オレは先頭をきって、アンバーマンティスたちの側まで走った。たどり着くとアンバーマンティスの背後からメイドの腹部へと槍を繰り出す。
「……っ、痛いですね」
「刺さった!」
思わず声に出してしまった。ようやくこの手で一撃入れることに成功したのだ、少し気分が上がってしまうことくらい許して欲しい。
「調子に、乗らないでください」
「それはこっちのセリフだ」
それからオレとアンバーマンティス、それと敵を取り囲んだ魔族の同胞たちによる攻撃は続いた。質で勝てないなら数で。これは屈辱以外のなにものでもなかったが、そうも言ってられないくらいに彼女たちは『強者』だったのだ。
そして二人と戦い始めて数十分経った頃、次第に追い詰められていたオレは、ついにメイドの攻撃をこの身に受けた。
オレは歯を食いしばり、痛みを堪えながら槍による一撃を放つ。
それは呆気なくかわされる……が、同時に攻撃したアンバーマンティスの鎌が炸裂した。
それはメイドの片腕を大きく抉った。
血が吹き出して地面を濡らす。
「よし! このまま……」
ここまでの攻撃で敵二人の身体はボロボロだ。片方のフードはうつ伏せに倒れ、メイドの方は片膝をついている。
そのために数多くの同胞が命を無駄にしたが……とにかく、そんな仲間のためにもこのまま敵の命を削り切るしかない。
「死ねぇぇえええ!!!」
ブラッド様の死人を減らすという約束は守れなかったかもしれないが、この二人を倒すという命令は守れそうだ。
槍を持つオレの目と、武器も構えない無表情なメイドの目が合う。彼女は少し悲しそうに見えた。しかしそんなこと構うものか、こちらは何人も殺されている。こんなところで躊躇するわけにはいかない。
その時、声がした。
それは、後方の少し高い位置から。
「お前らぁぁあ!! 聞けぇえ!!」
オレは思わずそちらの方を振り向いてしまう。
「魔族共、お前らの将の命、預かったでぇえ!!」
化け物だ。化け物がブラッド様の首をもって、岩の上に立っていた。
ブラッド様は、腕も足も折られているのか、プラリと垂れ下がっていた。どうやら再生できないように、四肢は繋がったまま機動を奪われたらしい。
見るに耐えない光景だ。
かつて死にかけのオレを助けるために動いてくれた足は無惨にひしゃげている。そして、かつてオレを救うために差し伸べてくれた手はあらぬ方向に曲がってしまっていた。
「ブラッド様ぁぁぁあああああ!!!!」
オレは叫んでいた。
確かにブラッド様は不死身で、無力化するにはあんな方法しかないのだろう。しかし、おおよそ知能のある生物のすることとは思えない、極悪非道の行いだ。
化け物は全ての人に対して告げる。
「この男の命、助けたる!! 代わりに、今すぐ撤退しろ! さもなくば……分かっとるわな?」
こいつらは……こいつらだけは……
ふつふつと怒りが込み上げてくる。あまつさえ死者の遺体を利用するという非人道的なことをした挙句、人質をとるとは……
オレが何もできないでいると、ブラッド様から声が聞こえた。それは一人分の声だったが、オレにははっきりと、しっかりと聞こえた。
「僕、ブラッド・レッドラッドが命ずる!!」
ブラッド様だ。ブラッド様は己の命が危うい中でも命令を下す。
「この……まま、侵攻、せよ!!!!」
「「「「ウヲォォオオ」」」」
オレたちは呼応する。ブラッド様の命令に忠実に従うという意思を示すため。
ブラッド様の命が惜しくないのかと言われれば、そんなこと聞いてきた奴のことを一発殴り飛ばして言ってやる「惜しいに決まっている」と。
しかし、ブラッド様の『意志』を無視することがオレにとって何より許し難い愚行なのだ。
改めてメイドの方を見る。彼女はもう立てない状況だった。あとは喉もとを掻っ切ればオレの勝ちだ。
槍は吸い込まれるように敵の喉へと進んでいく。喉まで残り数センチ。
ガンッ
何か障害物にぶつかった。
「……何をした!?」
そこには『何もない』しかし、『何かある』のだ。もう一度槍を打つが、やはり何かに阻まれる。
「マスター……本当に馬鹿ですね」
メイドはそう言って空を見た。それに引きつられるように、オレも空を見上げる。
「あれは……空飛ぶ……馬か?」
翼を生やした馬のような生物が空から降りてくる。次第に風圧が強くなり、オレは距離を取る。
馬が地上に降りてくるにつれて、誰かが乗っていることがわかる。
眠そうな目をした黒髪の男だ。
「あっぶねぇ……ってヨシミ、生きてるのか?」
緊張感のない声がその男から発せられる。
「ヨシミならまだ息はあります」
「そうか、ならセーフだ。セーフ」
男は、周りのことなどお構いなしに、二人を馬の上に乗せた。そして、こちらを見る。目があった。
「じゃ、俺は他にも回収しないとだめだから」
「……はぁ!? ふざけるな!!」
俺は駆けて行く……が、どこからともなく発生したカミナリが目の前に飛んできた。バックステップでそれを避けるが、馬は高くに上昇してしまっていた。アンバーマンティスもそれを眺めることしかできない。
「側近殿! 敵の援軍が到着した模様です!!」
背後からそんな声が聞こえてくる。
「今のみたろ! 援軍ならさっきここに来た!」
苛立ちを抑えられずに思わずキツイ言葉になってしまう。しかし、どうやら援軍はこれまでのように少数というわけではないようだ。
「援軍の数、約一万! 丘の上に待機中!!」
「くそっ、主力が来たか……」
オレは丘の方を見る。確かにそこにはこちらを見下ろすように立つ騎士たちがいた。青と白の旗をたなびかせている。その中心には先程馬に乗って現れた男が立っていた。
「あれ、側近君……こんなところにいたの?」
そんな、心地の良い声が後ろから聞こえた。オレはすかさず体を回転させる。
そこには、身体中から血を流したブラッド様がいた。手足は再生したようだが、血が足りないのかその顔は青白く、いつものような余裕の笑みは見られない。
「ブラッド様!! ご無事でしたか」
「ああ、シルドーが来てあのリューとかいう化け物を仲間の救援に向かわしてくれたんだよ。お陰で助かっちゃった」
シルドー、それが誰かは分からないが、ブラッド様の命が無事だったのならそれで良い。オレは敵の方を指さす。
「ブラッド様、あの軍勢どうしますか?」
「どうするって……そりゃもちろん皆殺しさ」
ブラッド様は酷く冷たくそう告げた。視線は敵にぶつけている。表情に変化はないが、目だけは獲物を狩る肉食の生物のようだった。
「僕たちはもう大人しくしている訳にはいかないんだ。今すぐにでも『人間の領地』を僕たちのものとしなければならない」
「それは、もちろんであります!」
オレたちは絶対に人間領を占領しなければならないのだ。
そんな決意のもと敬礼をすると、オレは槍を構えて敵の方へと歩き始めた。そばに立っていたアンバーマンティスの脚を叩く。
「一番槍は頼んだぞ」
魔物であるアンバーマンティスからは返事がないが、オレの横に並んで一緒に進んでくれた。オレの後ろには同じ志を持った仲間がついてきてくれている。
敵の本隊……いや、その前に一人立つ男まであと数百メートル。
「あの男、油断だけはするなよ」
部下にそう伝達する。彼からはどうも危険な香りがしたのだ。オレがそう忠告したタイミングで、彼は何やら後ろの騎士から受け取った。
「拡声器か?」
今更降伏宣言でもするのだろうか? いや、はたまた降伏勧告をするつもりなのかもしれない。
ま、どちらにせよ殺す。
彼は拡声器をこちらに向けた。一瞬魔術を警戒したが、どうも魔力を感じられない。
「敵さんこっちら」
その声を聞いたとたん、何か……心のうちにあるものが呼び起こされる。目の前にいるあの男のことが憎くて憎くて仕方がない。あの男を殺したくて殺したくて殺したくて殺したくて殺したくて殺したくて殺したくて殺したくて殺したくて殺したくて殺したくて殺したくて殺したくて殺したくて殺したくて殺したくて殺したくて殺したくて殺したくて殺したくて殺したくて殺したくて殺したくてコロシタクテ……
「手の鳴る方へ」
パチンッ
頭の中で外れてはいけないタガが外れるのを感じた。全ての神経が男へと集中する。
それと同時に走り出そうと……
パシンッ
走り出そうととしたところで、誰かにビンタされた。
己の知能がが急速に蘇ってくる。
オレは、何をしようと……
そうだ、あの男が憎い。あの男が。殺さなきゃ、殺さなきゃ
「側近君、もう一回ビンタされたいの?」
「ブラッド様……? 私はあの男を殺さないと」
「殺すのはいいけど、冷静さを保たないとね」
「私は冷せ……いえ、すみません。冷静さに欠けていました」
オレは頭をブンブン振ると、大きく息を吸った。
「今のは、なんですか」
「さぁ? でも、あの音を聞いた皆んなは彼にくびったけになるみたいだね」
確かに、オレはブラッド様に助けていただいたが、他の者たちはあの男に向かって一直線に進んでいく。
すると、その時を待っていたかのように……空に亀裂が走った。『空』に『亀裂』が走ったのだ。
「あ、あれは!?」
「なんだか、マズそうだね」
亀裂はその大きさを広げていく。
パリンッ……パリパリッ
亀裂が延びていくにつれて、そこから放たれる負のオーラがピリピリと肌を刺激する。
「あ、あれは……なんだ」
どうにかしなければならないのだろうが、身体が動かない。恐怖もあるのだが、この経験したことのない事態に何をしたらいいのか分からないのだ。
「側近くん、ダメだ。あれは、見ちゃだめだ!」
「ブラッド様……」
ブラッド様が見るなと叫ぶがもう遅い。俺は亀裂を見たままそう呟いていた。
ブラッド様から返事は返ってこない。いや、何か言っているのかもしれないが、オレの神経はあの亀裂に集中していた。
心臓の音だけが速くなっていくのを感じる。
そして……
亀裂が開いた。
パキパキパキッ……キュゥイイイィィィ
「眼だ」
開いた先には、眼球があった。真っ黒な、真っ黒な吸い込まれそうな漆黒の眼球が。
悪寒が全身を覆った。
ドッドッドッドッ
心臓の音。
視界が潤む。
気がつけばオレは涙を流していた。
膝が、腕が、体が震える。
眼からは全てを屈服させる権威を感じた。
唖然とそれを見ていると、その視線を拒むようにブラッドが立った。
「何です? ブラッド様。邪魔です」
世界にあんなものがいるなら、目の前に立つブラッドに敬意を払う必要はない。
「側近君、君はもうダメだ」
「ダメ……とは?」
「もう、命はないってことさ」
「何を言って……」
その時、脚に何か違和感を感じた。潤んだ瞳で自分の脚を見る。
「あ、あれ……オレの足、石になってる?」
「そうだね。石になってる」
「はっ、ははっ……」
見れば、例の『眼』は閉じていた。
オレは思わず笑う。
「ブラッド様、オレ……」
「ごめんね、守ってあげられなくて」
「いえ、これまで守ってもらってましたから」
本心が溢れ出る。
体が次第に石へと変わっていく。もう胸の辺りから下は動けない。
「最期に、教えてくれないかな。何が見えたの?」
ブラッド様は、そう言って歪な笑顔を作ってオレの顔を見た。いつもの笑みではなく、無理矢理作ったような笑顔。
ブラッド様なりに気を使って下さっているのだろう。
「『眼』です。あれは、見るとダメみたいですね」
「そう……」
「ブラッド様、そんな悲しそうな顔をしないでください」
「か、悲しそうな顔なんて……」
「ははっ、最期にそんな顔見れるなんて、オレはラッキーですよ」
「何を……」
「ブラッド様、これ以上は駄目みたいです。妹君のこと、どうか大切に」
「言われなくても大切にするよ」
「では……ありがとう……ご、ざ……」
心臓が動いていない。
オレは、石に……なるのだろう。
「先に行って、まっ……いてよ……」
ブラッド様の小さな声が聞こえる。
オレは、貴方のそばにいられて幸せでしたよ。
ブラッド様。
こうして、オレの人生は『化け物』によって終わらされた。




