第4話 日常回なんて許さない!
「う、ううぅ……」
身体が鉛でできているかのように重い。瞼はまるで、堅牢な城門の如く固く閉ざされている。
だがそれも当然か。ごく普通の高校生だった俺には身に余る出来事だった。きっと身体も精神もヘトヘトなのだろう。
とはいえ、これからは異世界で生きていかねばならない運命だ。人権が保障されている訳でもなければ、誰かが守ってくれる訳でもない。覚悟を決めて、しっかりと自立していかなくては。
そんな、崇高な志の下に目を覚ます。
しかし、目に映る光景は馴染みのあるもの。知識として知っているということではない。正真正銘、慣れ親しんだ場所。
「ここは、俺の部屋?」
何が起きても驚かないつもりでいたが、これはこれで逆に肩すかしを喰らったような感じだ。確かに異世界の森へと連れていかれたはずのだが、ここは紛れもなく現実世界の自身の部屋。
天界・異世界・現実世界。そんな、一貫性のない場面転換に頭の整理が全く追い付いてこない。まずは冷静に深呼吸をし、起こった出来事を順番に並べていくことにする。
事故に遭って、転生して、そして女神と出会った。
異世界に来て、化物を見て、転生者を始末した。
そしてその後に気を失った、はず――
……あ……
「あっはっはっはっは!」
馬鹿馬鹿しかった。たまらなく可笑しかった。気が狂ったかのように笑い転げた。いや、狂った『ように』ではない。俺はきっと本当に気が狂ってしまったのだ。
だって、だって――
「なんだよ転生って、なんだよ異世界って! そんな非現実的なことありえる訳ないだろ!
高校生にもなって下らない妄想して、挙げ句現実と見分けがつかなくなって、完全に俺は頭のおかしい奴だ。結局のところ転生も異世界も、そして女神の存在も、全て夢だったって話だ!」
痛みすら感じるほどによじれる腹を、両手で押さえつけながら息を荒げる。とことん笑いすぎて涙まで浮かんできた。
「大体、女神様があんな鬼畜な訳ねぇだろ。絶対もっと清らかだって」
爆ぜるような笑い。まさに爆笑という言葉が相応しい。
ようやく腹の弾倉が底をつき、目に浮かべた涙を拭っていると、ぼやけた視界の端に一つの紙袋が映った。何気なく視界に入ったその袋、中央には取扱い店の店名が記載してある。
『角山書店』
「……え?」
それは街の繁華街に並ぶ老舗の本屋。
通学路にはあるものの、普段はそれほど利用する本屋ではない。そもそも本屋には頻繁に通うものではないし、それが例え新刊の発売日でも、ついでに読書のつまみでも買えるコンビニの方に足が向くものだ。だから俺はこの角山書店をあまり使わない。
しかし、つい最近この本屋を例外的に利用している。通りがかりに気になって、衝動的に買った本。新刊のみのコンビニでは手にすることのできない、本屋を利用する必要があった漫画。
だが、あるはずはないのだ。あってはならないのだ。そんなことは決して。もし俺の記憶にある本が、その袋の中に入っていたのなら、それは即ち――
恐る恐るその紙袋に手を伸ばす。そしてその口を開き中を覗く。
『Fランク冒険者の無双伝記』
「な、なんで……」
確かに俺は、角山書店でこの漫画を買った記憶がある。そして待ちきれずに公園で読んだんだ。でも結局中身はつまらなくて、不満を垂れながら公園を、出た。
そしてその後、トラックに、轢かれた……
「お、おかしくないか? 辻褄が合わない」
記憶にありながら、矛盾するのだ。覚えていながら、あってはならないことなのだ。
この本があるということ、それはつまり公園で本を読んだことも、トラックに轢かれたことも、その全てが夢ではなく現実ということになってしまう。もしそうなのだとしたら、俺がさっき笑い飛ばしたあの事象は? あの世界は? あの存在は?
実際に起こった、現実?
「い、いやいや! まさかそんな訳……」
「あるのですわ!!」
「うわぁあああ!!!」
唐突に背後から降りかかる声に、心臓が大きく飛び跳ねる。後ずさるように振り返ると、そこには――
半透明状態となったルディアが腕を組み、汚らわしいものでも見るかのような、じっとりとした視線で俺を見下ろしていた。
「なぁにを一人でぼそぼそと。悪かったですわね、がさつな女神で」
「あ……ぐ……」
き、聞いてたのか。一体いつからここにいたんだ。
「まあ信じられない気持ちも分かりますわ。ですがご安心なさい。あなたはちゃあんと死にましたし、転生者を始末したのも事実ですわ!」
人を驚かせたことも、死んだことも、転生者を始末したことも。安心できる要素など何一つないのだが。強いていうなら自分の部屋に、いや、現実世界に戻れたことが、安心というかホッとできたといったところ。だがそれは同時に疑問な部分でもある。
「な、なんで俺は自分の部屋に? 異世界に行って、転生者を始末することになったんじゃなかったのかよ!」
「それはもちろんですわ。ですが、一応役には立ったので、普段は現実世界の日常生活に戻してあげることにしましたの。私、とおっても優しい清らかな女神なんですわよ」
「そ、そうなのか。それはありがた……」「ただしッ!」
「もしまた始末をお願いする際には、四の五の言おうが問答無用で異世界に叩きこむので覚悟するのですわ!」
や、やっぱりね。そんな甘い奴な訳はなかったか。
またあのような面倒なことをしなければならない。そう思うと気が滅入るが、死んだことが事実であれば助けられたことも疑いのない事実であって――
となれば無論、俺はルディアの言うことを聞かない訳にはいかなかった。
「わ、分かったよ。ところでお前、その姿は一体……」
普通なら真っ先に聞くべきところが後回しになってしまったが、ルディアの以前とは異なる半透明状態の姿について言及する。
「この世界の人々を驚かすわけにはいきませんから。この状態では、姿はあなたにしか見ることはできません。触れることはできますけどね。ですがそんな理由より!」
「この美貌と!」
「ナイスバディ!」
こんな女神 of 女神の私が人間界にいると一度知れれば、異世界転生希望者が山のように発生してしまうのですわ!」
は……?
こいつは一体何を言っているんだ。まさか本気で言っているのだろうか?
得意げにセクシーポーズを決めるルディアを呆れ顔で眺める。まったく大層な自信をお持ちなことだ。ただ、その鬼畜な精神はさておき、見た目だけは綺麗なことは確かである。そして、その身体も――
「鼻の下伸びてますわよ」
「う、うるせぇ!」
狼狽える様を見てケラケラと子供のように笑い始めるルディア。その姿に女神らしい厳かな佇まいは一切感じられない。まったく、大人なんだかガキなんだか……
「ま、見とれてしまうのは分かりますけど。あんまりボサッとしてないで、さっさと学校に行く支度でもして健全な学校生活を営むのですわ」
「それは、そうさせてもらうけど。でもお前はどうするんだよ!?」
その言葉を聞いたルディアは、すかさず俺の眼前に指をさす。
風を切るように差し出されたその指は、すっぱりと俺の前髪を切断し、はらりと床に舞い落ちた。
「神である私に対して何をするかですって? 無礼な! 私はこう見えても忙しいのですわ! やらねばならないことが沢山あるのです!」
「な、なんだよ。やることって」
「見たい動画や積みゲーが山ほどあるのです! それこそ天を目指したバベルの塔のように。神の私は、それらに手を下さなければならないのです!」
「暇じゃねぇか! くだらねぇバベルの塔だなオイ!」
ツ、ツッコミどころが多すぎる。
ここまで多いと、どこから切り込んでいいのか分かったもんじゃない。
「まぁ、そろそろ茶番にも飽きてきましたし、とやかく言ってないでとっとと学校に行くのですわ。用があればこちらから異世界に送らせてもらいますから」
さ、最悪だ。授業中は止めてくれよ、本当に。
「じゃ、じゃあ行ってくるわ」
学校への支度を済ませると、そう一言いい残して部屋を後にする。
だがルディアは、そんな俺の言葉には耳も貸さず、部屋の本棚の漫画を夢中になって漁っているのだった。
一日にも満たない僅かな時間の出来事だったが、その日の通学は懐かしさを覚えるほどに、ルディアと過ごした時間は強烈だった。
外は、異世界で過ごした時間が嘘のように、異常なほどに通常だ。何かが起こるのではと内心ひやひやしていたが、特に何が起きることもなく学校に到着する。
教室に着き机に鞄を降ろすと、それに気付いたトウマが足早に近づいてきた。
「よおキラ! 昨日の夜に連絡したのに返事も何もないからさ。何かあったのかと思ったよ」
あ、まずい。その間は気を失っていた。
今朝も色々あって、すっかり確認を怠っていた。
「悪い悪い、昨日は疲れてたみたいでさ。帰ってすぐ寝ちゃったんだよ」
「珍しいじゃん。帰ったらいつも勉強してんのに、その為に部活も入ってないんだろ?」
「まぁね」
「勉強も大事だけどさ! 時には一緒に遊ぼうぜ? やっぱキラといるのが一番気が楽だよ」
そう言うと、トウマは俺の肩を軽快に叩いた。時々ムカつくところもあるけれど、やっぱりトウマは気の許せるいい奴だ。
「ところでさ、昨日この辺りでトラック事故があったみたいだぜ?」
ギクッ
「昨日の夜送った内容もそれだよ。繁華街の近くの公園らしいんだけど、うちの制服を着てたらしく目撃者もそこそこいるみたいなんだ。でも、肝心の被害者がどこにも見当たらねぇんだってよ!」
それってきっと、いや、間違いなく俺の話に違いない。
内心かなり心を揺さぶられたが、トウマにそれを悟られてはならない。疑いが掛からぬよう、顔だけは平静を保ちつつ言葉を返す。
「お、おいおい! 被害者が消えるだなんて、そんなことある訳ねぇだろ! 見間違いだよ、見間違い! それにうちの学校の生徒だったら、もっと学校中大騒ぎになってるはずだって!」
「でも最近多いらしいぜ? この手の事故。事故だけじゃなくて人ひとり消えちまう現象らしいんだ。この前お勧めしたろ? 異世界転生の漫画。もしかしたら転生って本当にあるのかもしんねぇな! 夢があるぜぇええ!!」
あるんだよ、本当に。実際はまったくもって夢のある内容ではなかったけどな。
「じゃあそろそろ授業も始まるし、また後でな!」
ふぅ。
かなり動揺してしまったが、まさか転生して、異世界に行ってたなんてバレることはないよな? バレたところでなんだ、という気もするけれど。
いや、もし仮に異世界が存在するだなんてことが世間に知れたら、異世界転生目的の自殺者なんかが増えてしまうのかな?
「その通りですわ!」
「うわっ!」
教室内に絶叫が響き渡る。トウマやクラスのヒロインやら、室内のクラスメイトが一斉にこちらを見ているが、不器用ながらもなんとか笑って誤魔化した。
その場を収束させると、改めて声のした方に振り返る。
教室の窓の外側。そこに、まるでカエルにように張り付いたルディアが、俺の席をまじまじと見下ろしていた。
くそっくそっ! 毎度ビビらせるなよ、このクソ女神め! つぅか心の声を読むなよ。
「別に心の声は読めませんわよ。なんとなくそんな気がしただけですわ」
そ、そうなのか? なら仕方ない……って!
今も俺の考えを読んでるじゃねぇか!
「それはいわゆる漫画的表現というやつですわ」
メタ……
「それはさておき! うかつに転生のことを話すのではないですわ! 漏らしたりしたら、今度こそ地獄に叩き落としてやるのですわ!」
こ、怖いこと言うなよ……某占い師か、こいつは。
だがもし俺が口を割ってしまったら、この女神に限っては脅しではなく次こそ本気で消してくるだろう。
とりあえずこのままという訳にもいかないので、挙動が不自然にならないよう周囲に気を配りながら、窓を開けてルディアを教室の中へと入れてやった。
「わざわざ学校まで来て、一体何の用だよ」
突如押しかけて来た理由。それを息を吐くような、ひっそりとした小声で尋ねる。
「何を寝ぼけているのですか。そんなの分かり切っていることでしょう? これから異世界にGOするに決まってるのですわ!」
「えっ!? 今から?」
「今回は割と早めに発見できましたが、異世界は種類も多くなにより広大なのですわ。いくら転生者が増えているからといって、現地人はそれを遥かに上回る人口量。転生者の波動を感知するのには、それなりの時間が掛かるのですわ」
転生者を見つけるのが困難だということは分かった。だがそれが一体なぜ、今すぐ異世界に行かねばならないという理由になるんだ?
「つまり! 見失わない為にもキラの都合を待っている猶予など無いということ! 感知したらすかさず始末。それが私のポリシーなのですわ!!」
あ、なるほどね……って!
「で、でも! 今からじゃクラスの皆にバレるって……」
既に教室内にはクラスメイトのほぼ全員が揃っている。おまけにトウマとも今朝話してしまっているし、絶叫を上げた際にも皆に強く存在を認知されてしまっている。
異世界に行こうものなら、この場から消える場面も見えてしまうし、もし仮にそれを免れたとしてもだ。登校していることが知られている以上、消えた後でも騒ぎになってしまうであろう。
「そんなことは百も承知。問題ないのですわ! 始末した転生者同様に、あなたもこの時間この場所に戻して差し上げるのですわ!」
「え? だ、だけど……」
「つべこべうるさいのですわ! 契約違反はソッコー処刑ですわよ! では、行きますわよぉおおお!!!」
「ちょ! まってぇ……」
俺の意見は全く聞き入れてくれないルディア。そうして俺は、またまた異次元の空間へと放り込まれたのであった。