第29話 魔王が怖くて帰れない!
やばい、絶対に、やばい――
俺は今、二回の人生の中でも指折りの窮地に立たされている。目の前に立つのは、魔王。その魔王が、委縮する俺に視線を下ろし、睨め付けているのだ。
なぜ、このような状況に陥ったかというと、それは数刻前に遡る。
「中間の結果返すぞー」
学校でのホームルーム。チャイムと共に黒髪を靡かせ登場したのは、二十代とも三十代とも取れる、年齢不詳のすっぴん顔。常にジャージで、男とは無縁の様相をした我がクラスの担任。
教壇で仁王立ちすると、束ねたテストの結果をひらひらと扇ぎながら、人によっては朗報、あるいは死の宣告を唱えたのだった。
「じゃあ、まずは安心院からだな」
「はい!」
「すげぇじゃねぇか! 安心院は今回よく頑張ったな!」
「分かりやすく教えてくれるひとがいたので……」
マヒロは、俺の方をちらと振り返り微笑んだ。
これは嬉しい。感謝されたことに対して、というのもそうだが、マヒロの成績が上がったこと、それ自体が何よりも嬉しかった。手放しで喜びを分かち合いたいところ。だが、俺にはそれができない訳があって――
「転生!」
「……はい」
「どうしたんだよ。今回はお前らしくもないな。最近転生が賑やかなのは嬉しいこったが、あんまし気ぃ抜くんじゃねぇぞ」
「……はい、すみません」
結果を見る前から心当たりはあった。テストを受けている時点で、あまり出来は良くないと分かっていたからだ。
ルディアと出会ってからというもの、突然の転移に振り回され、あまり勉強に手がつかなかった。それに奴とのゲームに付き合って――
って、それは自制心のなかった自分が悪いのだが。
幸いにして、マヒロに教えていた数学は満点を維持していたものの、暗記系が酷い。ここは単純に覚えれば答えられる問題。マヒロにも教えてはいなかったし、一番手薄になっていたところだ。
散々なテスト結果を見ながらトボトボと席に戻る。
心配そうに見つめるマヒロの視線がかえって辛い。
「地井!」
「はいよ」
「ま、お前は通常運転だな。卒業まで、全教科満点記録を保持してくれよ」
「へいへい」
トウマは渡された結果を見もせずに、丸めてポケットの中に押し込んだ。
そりゃあ入学当初はクラス中――いや、学校中が感嘆の声を上げていたものだ。だが最早この光景に皆、見慣れてしまった。
テスト結果だけではない。体育でもなんでも、異次元の記録を叩き出すトウマはもはや同じ人類ではない。あれはきっと”トウマ種”という別の生物なのだ。それでも本人いわく、変に目立ちたくないから手加減している。とのこと。嘘であって欲しいが、底が見えない以上はなんとも如何しがたい。
「今回良かった者もそうでない者も、期末は良い結果が残せるようしっかり勉強するんだぞー」
ホームルームが終わり、クラスメートは席を立つ。だが俺は、結果の酷さに立ち上がる気力すら起きずに項垂れる。いや、厳密に言うと、結果そのものに大きなショックを受けているのではない。
全くない訳ではないが、それより何より、結果によって引き起こされるある事柄。そのことが恐ろしくてたまらないのだ。
そんな様子を見て、マヒロがおずおずと俺の側までやってきた。
「ごめんね……私が教えてもらったばっかりに。
キラくんの勉強の邪魔をしちゃったよね」
そんなことは決してない。単に俺サイドの事情が要因だ。
だが、その事情を知らないマヒロは、本気で罪悪感に苛まれているのか、眉尻を下げ、肩を落とし、心底申し訳なさそうな顔をしている。
あぁ、頼むから、そんな顔をしないでくれ……
せっかく苦手な数学を克服し、自身の成績は上がったのだ。素直に喜びたいだろうに。本当なら俺は、ホームルームの直後に真っ先にマヒロの下に駆け寄って、結果を共に喜んであげるべきだったんだ。
「ぜ、全然関係ないよ! 単純に自分の努力不足だって!」
見せかけの空元気で、その場の雰囲気を取り繕う。
「でも……」
「ちょっと思うところがあっただけ、テストのことは気にしてないよ。
それより! マヒロは今回成績が上がってみたいで良かったね! いつかマヒロから教わることになっちゃうかもなぁ」
マヒロは嬉しいような、それでいて、少し困ったような笑みを浮かべていた。
家に帰る足取りが、重い。
こんな時ばかりは、この陰鬱な気持ちを一時でも忘れさせてくれる異世界が恋しいとさえ思ったが、ここ暫くルディアは家に帰ってきていない。
少しの間家を出ると、必ず戻るから待ってなさいと。そう言い残して、ふわりと宙に消えていった。神にも用事はあるのだろうが、その時の憂いを感じさせる面持ちが少しだけ気になった。
遂に家の玄関まで辿り着いてしまう。取っ手になかなか手が出ない。躊躇っていると、唐突に家の扉が開いた。
「あら、キラ。帰ってきてたのね」
「か、母さん……ただいま……」
咄嗟に浮かべる苦笑い。だが母は、腹を痛めて俺を生み、ここまで育てた人間だ。俺の表情から、すぐに何か後ろめたいことがあるということに感付いた。
「キラ、ちょっと来なさい」
「は、はい……」
くそ、なんと間が悪い。
しかし、最近母はちょくちょく外を確認している。それで何か起こる訳でもないのだが、要はルディアの帰りを待ちわびているのだ。母にも同じく、暫く留守にする旨を伝えて出ていったようだ。
踵を返し先を行く母。その後に付いてリビングに向かう。
「さあ、出しなさい」
テーブルを挟んで面と向かい合う状況。さすが母親。全てを理解している。何かいい手はないかと考えたが、こんな短時間でも思いつくはずもない。黙っていても後が酷くなるだけ――
恐る恐る、鞄の中からテスト結果を取り出して、それを母へと献上する。それを手に取り結果に目を通しはじめると、にわかに母の頭上には、見えない角が生えてくるのを感じた。
そう、俺が恐れる事柄とは――
そして冒頭に戻るのである。
「キラ! 一体何なの!? この成績は!」
鬼の形相で怒鳴る母。その迫力は雷様を越えて、魔王といっても差し支えない。弁解したいところだが、訳を話そうにも『転生者を始末してて勉強できませんでした』などと言えるはずもない。
俯き、黙って、魔王のお叱りをその身に受ける。
「キラ、あんたには同じことで前にも一度だけ怒ったことがあるけど……どうやら忘れてしまったようね」
「…………」
「別に私は教育ママじゃないわ。キラが勉強できなくたっていい。ただ、他の何かに努力を注いでいるのなら、ね」
母は姿勢を正すと、真っすぐに俺の瞳を見返した。
「私はキラの為に言ってるの。母さんだって勉強が全てじゃ無いなんてことは分かってる。キラの性格や良いところはたくさん知ってる。それっぽっちでキラを嫌いになったり、見限ったりはしないわ」
転生キラを語る母の目は、優しく慈愛に満ちたものだった。だがその直後、再び眉を寄せると、険しい顔を覗かせる。
「だけどそれは、私があなたの母親だから。赤の他人はそうはいかない。そしてこれから広がる世界には、キラのことなどを何一つ知らない者が大勢いるの。キラは、そんな世界を生きていかなければならないのよ」
「わ、分かってるよ」
「いいえ、キラは分かってない。それがどれほど非情な世界かを。キラ、あんたは漫画やアニメが好きよね?」
「う、うん」
「彼らは常に世界の中心。だけどキラは唯一無二の主人公じゃないの。キラの人生の主人公はキラだけど、それは世界のすべての人に言えること。この世の全員が主人公。だとしたら、その中で強く生きていくには、少なからず努力は必要だわ」
「そう、かもね」
「キラの良いところは知っている。でも客観的に見れば、キラは勉強しかできない子。酷いことを言う親かもしれないけれど、それが世間のキラへの見方。
他に何か努力できるものがあればそれでいい。だけど、そのつもりがないなら、せめて勉強だけは頑張りなさい。
その全てが実を結ぶかは母さんにも分からない。だけど、その努力自体が、キラの自信となって、必ずキラを成長させる。努力はね、絶対に裏切らないのよ」
気が付けば、母の頭からは角はなくなっていた。
母は昔、貧しい生まれだったと聞く。だけど必死に頑張った。努力して、無利子の奨学金で大学にも通った。
そこで母は父と出会った。そして恋に落ち、その後に結婚した。
母の勉強は現在役に立っていない。それで仕事に就いた訳でもなければ、その知識を活かすこともなかった。
だけど、そのお陰で父と出会えた。そして今は裕福ではないが、普通の生活を送れている。結果として、母の努力は裏切らず、別の道での成功を見出した訳だ。
必ずしも、向けた努力が微笑んでくれるとは限らない。でも必ず、それを見ていた誰かがいて、そっと熱意を拾いとってくれるのだ。
「ごめん、母さん。今回は色々あって勉強に集中できなかったんだ。でも次は、努力して、必ず巻き返すよ!」
その言葉を聞いて、母は穏やかな表情を取り戻した。
「それでこそ転生家の人間! 努力の家系に間違いないわ!」
おちゃらける母につられて思わず俺の顔にも笑顔が零れる。
母さんは心配させたくない。色々と面倒事はあるけれど、学生の本分はきっちりやらなきゃな。
意気込みを新たに席を立つ。やる気のある内に勉強でもするかと、自室へ行く為リビングを出た。すると、扉を開いたその先には――
「か、帰ってきたのか!」
そこにはルディアの姿があった。だがしかし、薄く微笑んではいるものの、なんだか少しやつれているように見える。
「随分と長いお説教でしたね」
「言っとくけど、お前のせいだぞ。突然呼び出したりして、勉強する時間も碌に取れない。ゲームも俺を巻き込まずに自分でやってくれよな」
「全部、私のせいですか……」
ん? 様子がおかしいぞ。気味が悪いほどにしおらしい。いつもならここで、百倍返しの反論が飛び出るものだが。
なんだか罪悪感が沸いてくる。転移はともかく、ゲームは正直お互い様だ。悪い気がしたので、少しルディアをフォローしてやることにしたのだが――
「い、いや……全部ってか、その。お前だけのせいじゃないよ。ゲームに関しては俺の穢れた心が――」
その瞬間だった。
ルディアの顔は途端に引きつり、身を守るように脇を抱えて縮み込んだ。
「け……が……れ……る?」
「おいおい、どうしたってんだよ本当に。今日はなんだか様子がおかしいぞ。部屋で休んでいた方が――」
パチンッ
身を案じて、震える肩に手を乗せた。
その瞬間、触れた手を払いのけるルディア。
「え……?」
「わ、わたし……穢れちゃったの……汚れちゃったの……」
ぼそぼそと独り言を呟く。なんと言っているか、よく聞き取れない。
だが、異常な状態であることは確実だ。
こんなの全然、ルディアらしくないじゃないか!
「お前……本当に大丈夫かよ! この間一体、お前の身に何があったんだよ!」
「キラぁ……」
虚ろな眼差しで見上げるルディア、小さな声で俺の名を呼ぶ。
続いて何かを語ろうと、僅かに口が動いた気がしたが……
目を閉じ、口を紡ぐと、ゆっくりとその場から立ち上がった。
「なんでも、ないのですわ。少々疲れてしまっただけなのです。ですが、転生者波動を感知しましてね。それで、キラの下に戻ってきたという訳ですわ」
「そんな状態で、始末なんて行けるのかよ」
「直接拳を交える訳ではないですから、問題ないのですわ。さぁ、行きましょうキラ。私は、転生者を始末し続けなければならないのです。でないと、私の存在意義は――」
「…………?」
ルディアの思うところ。その真意は計り知れない。
切羽詰まっているのか、はたまた、そうでもしないと耐えられない。
そんな雰囲気を匂わす意志と行動。
そして、先を急ぐルディアの後を追い、俺は次なる異世界へと旅立っていった。




