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まだはじまる前のお話。

作者: 蛍火栞

「若林さんと付き合うのは、今はちょっとそういうこと考えられないです。」

月湖さんがそう切り出したのは、改札から少し離れた広場でのことだった。

辺りには帰りを急ぐサラリーマン、遊びに出かける学生。

いろいろな人が通り過ぎる雑踏に私と彼女は、そこだけ切り取られたような世界に存在していた。

僕の思考は完全に止まっていた。

目の前が真っ白になる、そういう言葉がしっくり当てはまる。

僕の目には、すこし俯きがちな彼女の姿しか見えていなかった。

心の底から愛していた。

寝ても覚めても彼女のことしか考えられない。

そんな毎日を過ごしてきた。

大好きな女の人に振られた。

そんな経験をしたのは別に今が初めてじゃない。

数の問題ではないけれど、何人かは人生において大好きになった人に愛を伝えた。

そのうちの何回かは成功し、そのうちの何回かは失敗した。

ごくごくその点においては普通の人と言えるかもしれない。

「えっと、でも僕、月湖さんのこと世界一好きで、他の人のことなんか考えられなくて。」

そんな陳腐な日本語しかひねり出せない自分がどうしようもなくむなしかった。


彼女、和泉月湖のことを知ったのはSNSだった。

最初はネット上の女性の写真なんて全く信用していなかった。

大人の遊び場のホームページや芸能人の写真は加工ソフトでいいように弄くり回され、スマートフォンのアプリではどんな顔も美人に映る。

そんな時代。

嘘を嘘とわかる人でないと使うのは難しい。

もう十数年以上前に発せられた有識者の発言は、非常に的確で真実だった。

それでも、僕はこの人を、彼女を、月湖と名乗るこの女性の姿を信じずにはいられなかった。

僕の中の何かが"くらり"と揺れたのだ。

その日から、喉に閊えた小骨のように彼女の姿が脳裏に焼き付いたのは紛れもない事実だった。

彼女は僕のことを知らない。

僕は、彼女のことを知りたくなった。

どうすれば彼女に出会えるのだろう。

そんなことを思う日が続いた。


彼女のことが頭を離れずに過ごしてしばらくが立ったある日のことだった。

僕は秋葉原のファミレスで泥水のようなコーヒーを飲み煙草を楽しみながら談笑していた。

ふと、友人が用を足しにトイレに立ったとき、前の席から声が聞こえた。

テーブルには男性の操作するノートパソコン、そして一眼レフ、カメラマンだろうか。

そして向かいには女性の姿が見えた。

僕からは女性は後ろ向き、机の脇には大きなキャリーケース。

そんなことを思っていると、男がディスプレイを女性に向けた。

画面が僕の目の前にも垣間見えた。

遠くて詳しいキャラはわからないが、今放送しているアイドルアニメのコスプレ写真だった。

僕はその時気づいた。

なんて頭の回転が遅いんだと呆れもした。

コスプレ写真があるということは、それを撮っている人がいる。

コスプレをする人にとって近しい存在、そして、その写真を誰よりも早く、多く手に入れられる存在。

それは、カメラマンだ。

二人の笑いあい、楽しげな情景はトイレから戻った友人に遮られた。

「若林さん?どうかしました?知り合いとか?」

「ん?いや、なんでもない。知り合いに聞こうと思ってたこと思い出してさー。」

僕の脳には、すでに彼との会話などタスクの最下層に押し込まれていた。

足早に会計を済ませ、ネット通販サイトと検索エンジンでカメラについて調べていた。

そして、知り合いの中で一番カメラに詳しそうな人へメッセージを打ち帰路についた。

未知の世界、本当にノウハウも知り合いもいない。

ただ、そんなことは何も気にならなかった。

1mmでも彼女に近づける方法、その糸口が見えた気がした。


外は気温がやっと二桁に届くか届かないか。

しかも、世間は大晦日。

年の瀬のそんな日に私は自宅から100kmははなれた首都東京のイベント会場にいた。

年に二回の大型同人誌即売会。

その隣のイベント会場では大型のコスプレイベントが行われていた。

カメラの準備をしていると、ふと知った声の主が目の前に現れた。

「若林さんお久しぶりです!このまえの撮影会ありがとうございました!すごい素敵なお写真でほんと良くて!!」

「いやいやいや、皆さんきれいな方ばかりでー。あ、その衣装は見たことないですね!」

先週の撮影会の主催をしていたコスプレイヤー青葉さんだった。

「初出しなんです!ぜひ若林さんに撮ってほしくて!」

「いいですね!外行きましょうか?それとも中で場所さがします?」


カメラを持ってもうすぐ1年と半分が経とうとしていた。

カメラを買ってからというもの、狂ったように各地へ撮影に足を運んだ。

真夏のカンカン照りの屋外イベント、シェアスタジオ、冬の大型合わせ撮影会、森での創作ポートレート撮影。

多いときは月に7回、少なくても月に3回は撮影にでかけた。

本も読み漁った、風景も星もとにかくシャッターを切った。

写真展にもできる限り通った。

知り合いのツテも使ってプロのカメラマンの撮影の手伝いにも行った。

この1年半、何かに取り憑かれたと思われたかもしれない。

カメラを覚え、ライティングも時間がかかるけどなんとか…。

構図は言われればなんとななる。

コスプレカメコと言うにはまだまだひとり立ちできてないひよっこだった。

残念ながら、親鳥と言える人はいなかった。

捨てられた小鳥にしてはわりと生き残っていけてるのではと思えていた。


「ふぅ、36枚…かぁ。」

現在時刻は午後3時を少し回ったところだった。

少しずつ会場内には人が増えてきた。

隣のイベントが4時には閉会になる。

そこで満足できない大多数はこの会場にあふれることとなる。

「自分のきれいな写真を撮ってもらえるのが楽しいんでしょ?」

よくこの趣味を知らない人はよくこんなことを言う。

僕も、最初はそれがこの趣味の本質で根幹だと信じてやまなかった。

カメラマンも上手ければもてはやされ、いい機材さえあれば良い写真が取れる。

そんな幻想をぶち壊してくれたのは他でもない、自分の写真だった。

今でも鮮明に覚えている。

あの日出会った奇跡のような写真。

昨今話題の聖杯を奪い合うソーシャルネットワークゲーム

邪竜の魔女と化した百年戦争の復讐の聖女。

夕日に佇む彼女の一番美しい姿。

僕は、そんな彼女の写真を撮りたかった。

それがどうだ、今日撮った写真にそれに値するものがあるか。

そんなものはなかった。

自分自身がそれを一番理解している。

時間だけが無情にも過ぎていく、そんな会場の中に僕は居た。


もう帰ろうか。

居心地のいい秋葉原に寄って、友人とバカみたいに笑い、泥水をすするのも悪くない。

濁流のように流れる人の流れの中を私は眺めていた。

騒がしく人の多い会場内。

運良く座れた隅の椅子、もうここにずっと前から座っているような気分だった。

早すぎてスローモーションのように見える人の流れは、この上なく私にとっては無意味な光景に見えた。

一体いつまで、私はこうしているのだろう。

そう思い、荷物を片付けようとしたときだった。

ふと、僕の目に一人の人物が目に止まった。

流行りのジャンルだ、そんなに珍しい衣装でもない。

それでも、私はその姿に、歩を進めずにはいられなかった。

あの写真の、あの聖女が私の脳裏を掠めた。

気づいたときには席を立ち、声をかけていた。

「すいません、お写真撮らせていただいてもいいですか?今、夕日がキレイなんですよ。」

「はい、いいですよ。私今来たところで、撮ってもらえる方にあえてよかったです。」

それが、私の待ち望んだ彼女だと気づくのにそう時間はかからなかった。


「若林さんって言うんですね!私、和泉 月湖といいます。よろしくおねがいします。」

僕と聖女の百年戦争がここに幕を開けることになる。

そんな日だった。


彼女は僕のことを知っている。

僕は、もっと彼女のことを知りたくなった。

どうすればまた、彼女に出会えるのだろう。

そんなことを思う日が続いた。

月湖さんと私は、それからいろいろなところへ撮影にでかけた。

年明けてすぐの夜の池袋、春には桜舞う公園、夏には海浜公園、夏の終わりには彼岸花、秋には紅葉、ありとあらゆる場所へ二人ででかけた。

二人で食事だけでかけたこともあった。

ときには秋葉原へも二人で足を運んだ。

中止になったイベントに行けず、二人でやけくそになって遠出したこともあった。


そして秋の終わり、僕は彼女に思いを伝えた。

精一杯の思いを伝えた。

僕は月湖さんを愛している。

誇張なく、世界中の誰よりも彼女のことを愛していた。

運や偶然でここまでこれたのかもしれない、彼女にとっては星の数ほどいるカメラマンのうちの一人だ。

体裁のいい、動く三脚だなんて言う人もいる。

それでも、彼女の側に居れた時間は、私にとってかけがえのない時間だった。

けれどー

「若林さんと付き合うのは、今はちょっとそういうこと考えられないです。」

彼女の言った言葉が胸に刺さった。


勝手に盛り上がっていたのは私だけ。

自信過剰なんじゃないの?


そんな、自分の脳で作られた言葉が私の心臓に、銃弾のごとく叩きつけられた。

怖い。

僕が彼女に捧げていたこの時間は無駄だったのか、それともそもそもそうとすら受け取ってもらえなかったのだろうか。

あの日出会ったのは奇跡でもなんでもなく、ただの数学の上での話だったのだろうか。

彼女にとって、私はただの顔のないカカシだったのだろうか。

考えれば考えるほど、なにもない。

明日も、未来も、彼女といる未来も、今は何も見えなくなっている。

けれども彼女とは、それからも撮影や遊びにでかけた。


12月も中頃を過ぎ、そろそろ街中をジングルベルが駆け巡るころ。

僕と月湖さんは、山奥の自然スタジオに来ていた。

日中の撮影を終え、僕の車で帰路についていた。

渋滞する高速に乗る直前、夕食を摂っていたファミリーレストランでその事件は起きた。

「すいません、駐車場番号15番にお止めの方でしょうか?」

恐縮した感じの店員が席を訪ねてきた。

たしかに僕の車は15番に止めていた。

そのことを伝えると、

「他のお客様が車をぶつけてしまったようで…急ぎ確認を…」

月湖さんと顔を見合わせ、駐車場へと向かった。

夜も遅く、空には奇麗な三日月が登っていた。


結論から言うと車は走行不能、夜間ということもありレッカーもレンタカー手配は翌日以降ということになった。

仕方なく近くのビジネスホテルに向かうも耐震工事で臨時休業。

山間のインター近くの殺風景な場所。

両手で数えられるほどの商業施設がぽつぽつとあるだけの陸の孤島。

立ち往生というより遭難と言う言葉のほうが似合っていた。


「若林さん、あそこにしましょう。」

月湖さんが指差した先は、古城というべき外観のホテルがあった。

僕はその見た目と看板に戸惑いを隠せなかった。

そこは、僕と彼女で行くには部不相応な場所だったからだ。


少し薄暗い室内、空調の音、ちょっと豪華な内装、大きなベッド。

彼女は僕の髪をなで、ずっとニコニコと僕のことを眺めていた。

僕は、裸で座る月湖さんに膝枕をされ、ずっと彼女のことを見ていた。

なんでこんなことになったのか、今となってはどうでも良かった。

「髪の毛、猫さんみたいだね。」

ずっと頭をなでていた彼女がそんな言葉を紡いだ。

僕は、彼女の体温をすべてで感じていた。

インター近くのごく普通のラブホテル。

やむを得ず駆け込んだにしてはやましい気持ちがなかったと言ったら嘘になる。


彼女とは付き合っているわけではない。

それどころか通算2度も僕が告白しても首を縦には振ってくれなかった。

僕は彼女のことを心底愛していた。

彼女も、僕の告白には嬉しいです、なんて答えてくれた。

それでも、僕と彼氏彼女としては付き合ってくれなかった。

そんな彼女と、一線を越えた行為に及び、まるで長く付き合ったかのような甘い時間を過ごしていた。

僕にはわからなかった。

行為の最中、何度も愛を伝えた。

それでも、彼女は嬉しいとしか答えてくれなかった。

肌をふれあい、唇を交わし、彼女の秘所にも触れた。

0.01mmの距離感も、彼女の声も、息遣いも、全て知ってしまった。

それなのに、彼女は言うのだ。

「でも、今はそういう気持ちになれなくて。」

そう、彼女はまた、その言葉を返した。



朝を迎え、二人でインター沿いの道を歩いていた。

ホテルを出てから特に喋ることもなく、彼女は私の後ろを歩いていた。

結局、朝まで行為に及び寝不足でひどく疲れていた。

ホテルを出る少し前に保険会社の手配したレンタカー業者から電話があり、受け取りの場所を指定された。

昨日食事をとったファミレスからすぐの店舗だった。

店の前にはありきたりな普通自動車が横付けされ置いてあり、車を受けとった僕らは彼女の家を目指した。

休日の朝の高速道路はガラガラだった。

僕は、運転しているという理由以前に、彼女のことをまっすぐ見れなかった。

自分の気持がよくわからなくなっていた以上に、彼女の気持ちが本当にわからなくなっていた。

彼女にとって僕は一体何なんだろう。

今までずっと考えてきたことだ。

彼女の理想のタイプは確かに僕みたいなタイプじゃない。

もっと落ち着きのあって、背も高くて、優しい人。

僕にとって理想の女性は彼女だった。

この数年、彼女のことだけを考えて過ごしてきた。


『でも、今はそういう気持ちになれなくて。』


この言葉の意味をずっと反芻していた。

彼女のことを、彼女の心を、意味をずっと考えた。

どんなに考えても私の中では答えは出ない。

当然だ、彼女は月湖なのだから。

彼女は私ではない。

彼女の秘密は、彼女しか知らない。

「月湖さん。」

「はい?」

疲れた身体でひた走る高速道路の先に海が見えてきたとき、私は重い口を開いた。

「月湖さん、僕は月湖さんのことをまだ好きでいていいんですか?」

他人が聞いたらきっと困惑するであろう言葉を僕は綴った。

「はい、そうしてくれるととても嬉しいです。」

静かに彼女は答えた。

横目に見た彼女は、こちらを覗き込んでいた。

「また、告白してもいいですか?」

短い沈黙のあと、彼女は少しうつむいて、顔を上げた。

運転していて良くは見えないが、助手席の彼女はきっとこちらをまっすぐ見ている。

カーナビが降りるインターを告げるアナウンスを流した。

もうすぐ、彼女の家だ。

そっと、彼女は僕の髪を撫でた。


はい、もちろんです。


彼女は、そう短く答えた。


そう、これはきっと。

まだはじまる前のお話。


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