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夕食を終えたハルは、物音を立てないように書庫の扉を開いた。この部屋には試験と関係のない本ばかりあることは明白で、こんなところをアイラに見つかれば、また小言をくらってしまう。
しかし背中に視線を感じ、恐る恐る振り返る。使い魔の黒鳥のエモンが、じっと自分を見ていた。
彼は、にやっと笑った。鳥が笑うなどあり得ないことだが、ハルにはそう見えた。ハルは、人差し指を口にあて、そして声に出さず喋った。
『干し肉、買ってあげるから内緒にして』
干し肉は、エモンの好物だった。しかし、エモンは首を傾げ、同じように口を動かした。
『最高級の、水牛のやつだぜ』
ハルは、一瞬ためらった。水牛の干し肉を買えば、自分の数ヶ月分のお小遣いが吹っ飛んでしまう。しかし今、自分が試験勉強をしていないことをアイラに知らされたら堪らない。ハルは、渋々うなずいて条件を呑んだ。
書庫へ入ったハルは、『覚醒』について調べ始める。その仕組みがわかれば、マナの力になれるかもしれないと考えていた。
書庫には先祖が集めてきた数百冊の魔導書があり、ハルは魔導に関する壁にぶち当たったときは、この書庫を訪れることが多かった。山のような書物を1つずつ当たるのは骨が折れたが、答えが見つかることもあった。
しかし今回はどうだろうと、ハルは内心不安だった。『覚醒』の仕組みがわかっているのならば、既にそれが知識としてもたらされているだろう。確実性がないものだから、曖昧なものとして、噂のように伝えられているのではないか。
それらしき数冊の本を本棚から出したハルは、机に置き、椅子に座って読み始める。室内に窓は無いが、誰かが入るとそれを感知して自動的に魔導灯がつくようになっており、辺りは本を読めるほど十分明るい。
取ってきた本のどれにも、『覚醒』について詳しいことは書かれていなかった。あくまでそういう事象が確認されている、ということだけであった。ハルはそれらの本を戻し、また別の本を探した。
「魔力が欲しいのか?」
音もなく近くに立っていたゼンに、ハルは肩をびくつかせた。
「い、いえ、『覚醒』について知りたくて……」
ゼンは隣の椅子を引いて座ると、積み重なっている本の一番上を取ってめくり始めた。
「『覚醒』?」
「急激に魔導の力が使えるようになることです。あの、そういったことって、神様の中にはありました?」
「無いな。魔導の力は、生まれたときより使うことができた。それ故、初めに学ぶのは制御の仕方だ」
「なるほど……」
「魔導の力を欲している者がおるのか」
「まぁ、そんなところです」
「『覚醒』が起これば魔導の力を得られると。安易な考えだな」
ゼンは、本をめくった。ハルは、何も言えなかった。確かに安易で愚直な考えだ。しかし今、彼女が頼れるのはこの望みしか無いのだ。
「あの……魔導の力を伸ばす方法ってご存知ですか?」
「魔石を体に取り込めば良い。人間が強力な『魔』の力に耐えられるとは思わぬがな」
「それは禁忌とされています……そ、それ以外には」
「無い」
ハルは、頭を抱えた。やはり魔導の力を伸ばす方法は無いのではないか。ただ、そうなると、マナが魔導師になるのは諦めなければならない。まだ今なら別の道に行くことも間に合うはずだ。
しかし、彼女は諦められるだろうか。魔導の名門である家の事情もあるし、両親からも期待されているだろう。
「あの……ゼンは、もし自分のなりたいものがあって、まわりからもそうなることを期待されていて、けれどその力が足りなくてなれなかったとしたら、どうしますか?」
「愚問だな」
答えるまでも無い、という素振りだった。ハルはわかっていたが、それでも知りたかった。いや、愚問という言葉を聞きたかったのかもしれない。
「ですか……」
「天上界300年の治世を築いた私に対する問いとは思えぬな」
「そ、そこを何とか」
「諦めて別の道を探す。その職に近いもので、自分がなれそうなものをな」
恐らく自分もそうするだろう、とハルは思った。
「しかし本人にそうするつもりは無いように見える」
「え?」
「かといって元の道を死に物狂いで頑張っているようにも見えない、か」
言い当てられてしまい、ハルは言葉を失った。
「それを何というか知っておるか」
「え? ええと……」
「『甘え』だ」
「な……」
ゼンは、本を閉じた。そして金色の瞳をハルに向ける。いつもより真っ直ぐな視線に、ハルは怖くなって手を握りしめる。これは神に対する人間の本能だ。
「能力が無いことを言い訳に逃げていれば、誰も責めないからな。自分で助けて欲しいとも言わず、誰かが手を差し伸べるまで、助けてくれるまで待っている。狡猾で、卑屈で、子供じみている」
「そんな……彼女には事情があって……」
「事情?」
「その……親の期待とか、家系とか……」
ハルの言葉に、ゼンは口の端を歪めた。冷たい、底冷えのするような笑みだった。
「親の顔色を伺って生きていくのは、さぞ楽しいのだろうな」
「家を、血を守るっていうのは、魔導師にとっては大切なことなんです……! 彼女はそれに応えようとしているだけで……今までだって、すごく頑張ってて……」
「それは、周囲の者が賞賛してくれるからであろう。自分の評価が上がったと感じるから、頑張る。それだけだ」
ゼンの言うことは、正しいのだろう。しかし、ハルには納得できなかった。彼女はただ、どうしたら良いかわからないだけなのだ。
「きっと彼女は……迷っているだけなんです。それも、甘えだと言うのですか」
「迷っていること自体は問題ではない。全てを諦め、誰かの導きを待っていることが問題なのだ。とりあえずでも良いから、さっさと道を決めて進んでしまえば良い」
「それは、ゼンのように能力の高い者ができることです。皆が皆、そうじゃない」
「能力の低い者は、甘えて当然だと?」
「そうじゃないです!ただ……」
その時、扉を叩く音がし、間もなく開いた。ティアが顔をのぞかせ、その肩には、エモンが乗っている。
「お姉ちゃん、アイラが湯浴みを済ませちゃって、って」
「あ……うん、わかった」
ハルは立ち上がり、書庫を出ていった。ゼンは本を机の上に置いて、書庫を出る。すると、ティアが不安げに見上げてたずねた。
「お姉ちゃんと、喧嘩した?」
ゼンは首を横に振り、ティアの頭を優しく撫でた。
「大丈夫だ」
「旦那、ちょっと言いすぎじゃねぇかな」
エモンが、小声で言った。
「300年以上生きて、酸いも甘いも何もかも知り尽くしているあんたが、まだ18歳の小娘を正論でねじ伏せるのは大人げないぜ」
ゼンは、短く息を吐く。
「そうだな……」