今日も朝ごはんが美味しかったです。
10月4日は天使の日ですってよ、奥さん。
台風が過ぎた後の、どこか行き場のない暖かさ。だけれど風はもう秋のもので、十月はいつもこんな風に過ぎる。
薄いカーディガンの腕をまくって、わたしはいつも通り道を歩いていた。この時間にスーパーに行けば、肉も野菜も安売りをしているはずなのだ。
休日の閑散とした通りは、わたしの歩みを妨げない。それなのにわたしが歩みを止めたのは、そこに不審な人物が見えたからだ。
髪は見事な金髪。この小春日和に分厚いダッフルコートを着て、道に這いつくばっている。あまりにも不審だ。だけれども、わたしの他には誰も足を止めようとはしない。こんなに不審なのに。
「あの、」
小さじ一杯の勇気と、大さじ三杯の好奇心。そんな心持ちで、わたしは彼に声をかけた。
「何をしてるんですか?」
彼はしばらく何も言わなかったが、やがてぽつりと「探し物」とだけ言った。
「何を探してるんですか?」
「神様」
「神様?」
彼が一度も顔を上げないまま、会話は途切れてしまった。
外国の人なんだろうか、とわたしは考える。そうだとしたら、神様とは何を示すのだろう。文化が違うと、わからないことばかりだ。
「もしかして、神社のこと?」
ためしにそう言ってみると、彼はようやく顔を上げた。
「神社? ……この国の宗教施設か。いるかなぁ、そんなところに」
憂い顔だが、興味は湧いたようだ。彼は立ち上がって、わたしを頭から足先までじろじろ見た。
「案内してくれるか?」
「ええ、いいですよ」
「名前は」
「塚原です……ああ、神社の名前でしたか?」
「いや、君のだよ。塚原ちゃんっていうんだね」
「あなたは?」
彼はちょっと笑った。薄い灰色の瞳が、一瞬見えなくなる。
「俺は天使だって言ったら、びっくりする?」
わたしは言葉を失って、それから首を横に振った。「いい名前です」と自然に口走っていた。
「名前じゃなくてさ、役職的なものが」
「わたしは名前を聞いたのに」
「天使に名前が必要だろうか」
「必要でしょう? たとえば他にも天使がいるなかであなたを呼ぶには、なんて呼べばいいの? それともその役職はひとりなの?」
「確かにそうだ。考えておくよ」
どっと疲れた。どうやらわたしは、とてもアブない人に声をかけてしまったようだ。
なあ塚原ちゃん、と自称天使はつぶやく。
「あんまり怪しいやつには話しかけない方がいいぜ。今みたいに、変なことに巻き込まれんだ」
確かに、そうかもしれない。
「この前だってそうだっただろ」
「この前?」
「小学生と楽しそうに会話をしていた男に『この子たちと知り合いですか』と話しかけて以来、君はストーカー被害を受けている」
「嘘……な、なんでそれを」
「見えちゃったのさ、天使だから」
そう、なんでもなさそうに言う男を、わたしはまじまじと見る。この男こそがストーカーなのではないか、という疑いを込めてだ。しかし彼は、あの日の不審者とは似ても似つかない。整形手術をしても彼のようにはならないだろう。
わたしはなんとか気持ちを落ち着かせて、話を変えようと試みる。
「天使さんは、暑くないんですか。コートなんて着て」
「この季節にはこの格好がスタンダードなんだと思っていたけど、そんなことはないみたいだね」
「今日は暖かいですから」
「そうだった、人ってのはその日によって着ている服が違うんだった」
忘れていたよ、と彼はひとりごちる。わたしはそろそろ、彼が普通の人間ではないことを認め始めていた。少なくとも常識的な人間ではなさそうだ、という意味で。
「その……あなたが天使だったとして」
「現在進行形で天使だ」
「簡単に言ってしまっていいんですか?」
「君にならいい」
「わたしになら?」
ダッフルコートのポケットに手を突っ込んで、彼は天を仰ぐ。
「普通、俺の姿は誰の目にも止まらない。俺は生者ではないから、生きている者が視認できるはずはないんだ。だけれど君は俺に気付いた」
「えっと……わたし、死んだんですかね」
「どう思う?」
「生きてます……今日も朝ごはんが美味しかったです」
彼は足を止めて、わたしのことを見た。それから、喉を鳴らして笑う。「そりゃあいい」と言ってまた、灰色の瞳が薄くなった。「幸福とはこのことだな」とつぶやいてまた歩き出す。
答えは出ないままだけれど、わたしはもうそのことに関して何かを言うのはやめた。代わりに、なんとはなしに「神様って本当にいるんですか」尋ねてみる。
いるよ、と彼は言った。それから「君はゲームってやる?」と聞いてくる。
「ええ、まあ」
「街を作るゲームって知ってるかな。最初は何もない街に、ハンバーガー屋とか遊園地とかを作るんだ。そうすると、プレイヤーの意思が全く反映されないキャラクターが、名前もないようなキャラクターが、たくさんやって来る。街を気に入ったり気に入らなかったり、住みついたり出ていったりする。俺は生前、そういうゲームが割と好きだったんだ」
「やったこと、あります」
「そのゲームと一緒なんだよ、この世界は」
「ゲームと一緒なんですか」
「神様というプレイヤーが作った世界で、君も俺も、世界を気に入ったり気に入らなかったり、住みついたり出ていったりしている。世界は神様の為すがままだ。だけれど俺たちの意思は神様でさえどうすることもできない」
いい考え方だとわたしは思った。わたしたちがノンプレイヤーキャラクターというのは、なんとなく受け入れ難いけれど。
「死んだら、どうする?」と、唐突に天使はわたしに尋ねた。『どうなると思う?』ならば答えようもあるものを、まるで選択権があるかのような口ぶりだ。実際、選択権はあるのかもしれない。
わたしはいつの間にか、目の前の人物が天の使いであることを前提に考えてることに気づいた。
「やっぱり、来世に期待してます」
「輪廻転生」
「ありますか、生まれ変わりって」
「あるよ、だけど」
「だけど?」
「何物も持ち込み不可だ。君が君であるこの世界で得たものは、全部消える。セーブ禁止。それでも転生したいか」
「んー、そもそも死にたくないですけど。でも、死んじゃったら仕方ないです。次に行かなきゃ。ぐずぐず留まってても、何も出来ないんでしょう?」
「そうだ、ね」
それから彼は寒そうに、また深くダッフルコートのポケットに手を突っ込む。こんなに暖かい日差しだというのに。
「ここまででいい、ありがとう」
唐突に足を止めて、彼は言う。確かに神社はもう目の前だ。「そうですか」と言ってわたしも足を止める。ちょうどスーパーへの分かれ道だ。道はほとんど同じだったから、大幅な時間のロスというわけでもない。安売りは始まったばかりだろう。
「それじゃあ、また縁があれば」とわたしは言ってみる。困ったような顔をして天使は「近いうちに会えるよ」とつぶやいた。
どういう意味ですか、と尋ねようとしても、もうどこにも彼はいなかった。煙よりも跡を濁さずに、消えてしまった。なんだかそれも必然のような気がして、わたしは歩く。少しだけ早足で、歩く。
後ろから足音が聞こえた。わたしは「彼だろうか」と少し期待して振り向く。だけれどその一方で、「彼は足音なんてたてなかったな」と考えてもいた。
ぼろぼろのジャージを着た男が、わたしにぶつかってくる。しっかりと三秒、わたしは力強く押されて尻餅をついた。男は逃げていくけれど、わたしはその男の顔をちゃんと見た。あの日、小学生と話していた男だ。つまり、わたしのストーカーである。
鳥肌が立った。なんとか立ち上がろうとすると、お腹に違和感がある。
何か銀色のものが、刺さっていた。
「あ……」
それを指でなぞると、金属の冷たさが伝わる。「死ぬんだ」とわたしは思った。血は流れていく。たくさんたくさん流れていく。
人が集まってきた。
「向こうに走っていきました」とわたしはつぶやく。「ジャージを着ていて、あっちに走っていきました。早く追いかけて。ぼろぼろのジャージを」そうかすれた声で言っても、誰も追いかけようとはしない。だれもがわたしを助けようと手を伸ばしている。ありがたい話ではあるけれど、わたしはもう駄目だと思う。それならせめて、新たな被害者が出ないようになんとかしてほしかった。
「青いジャージの、」
わたしは眠りに落ちるまで、そう何度も繰り返したのだった。
◎◎◎◎◎
目の前に彼の金髪を認めた瞬間、わたしは飛び起きて「ひどいです!」と叫んでいた。
彼はすっかりくつろいでいて、真っ白な羽根と発光する割っかをつけていた。まるで質の悪いコスプレみたいだ。
暖かな光で溢れた部屋だった。窓も何もないけれど、小さめな扉がひとつ宙に浮かんでいる。
「わたしが死ぬこと、知ってたんでしょう」
「まあ。俺のことが見えるのは、死んだ人間かこれから死ぬ人間かのどちらかだからな」
「ひどい」
「だけれど聞いてくれ。これは本当に偶然のことだし、俺に会おうが会うまいが、君の死は決まっていた。それに、特別に大サービスしてあげたじゃないか。あんまり痛くなかっただろ?」
「だけどあんな死に方をするなんて」
「それは俺じゃなくてあの男に言ってほしいもんだな」
そうだ、とわたしは思い出して拳を握った。
「あの男はどうなったんですか?」
「捕まったよ。君の――――ふふふ」
突然天使は笑い出した。ぎょっとするわたしを尻目に、天使はしばらく笑い続ける。「君の遺言だったからね!」
「何がおかしいんですか?」
「だって最期の言葉が『青いジャージ』だなんて。痛みが軽減されていたにしたって、もっと訴えるべきことがあっただろうに」
「必死だったんです!」
「文字通りね」
意地の悪い天使だ、とわたしは膨れ面をする。その様子を見て、天使はまた目を細めた。
「いやぁ、しかし大団円だったね。あんなにたくさんの人が君を助けようとして。あともう少しで助かるところだったんだよ。君が回らない口で『あっちに〜』とか『青いジャージが』とか言って周りの人を困らせたりしなければ、助かっていたかもしれない」
「もう、本当に性格の悪い天使ですね! そんなことあるわけがないのに。決まっていたんでしょう?」
「そうかな、人の意思は強いぞ。いいかい、たくさんの意思は、それだけで神様の力さえ覆す」
「覆されなかったじゃないですか」
「それは君が恐ろしくお人よしだったからだ。それに、君の死は神が決めたものじゃない。神は特定の者の終わりなんて決めない。人々の意思が――――君を刺した男はもちろん、たまたま今日はあの道を通らなかった小学生や、あの男を朝から叱り飛ばしたあの男の母親や、全く関係ないようなサラリーマンまで、たくさんの意思が起こした死だ」
「壮大ですね」
「ああ、神様の知らない壮大な死だ」
複雑な気持ちだけれど、なんとか納得してわたしはうなづいた。それに満足したように天使は「さて、どうしようか?」と尋ねる。
「あんなに慕われていた君のことだ。もちろん未練はあるだろうね」
そうは言われても、まだ死んだことに実感がない。
たくさんの人が心配してくれて、涙ぐんでくれて。家族はどうするだろう、友達はどうするだろう。
悲しんでくれるだろうし、泣いてくれるだろう。もしかしたらいつまでも引きずって、暗澹たる気持ちになっているかもしれない。そんなの、わたしには知る由もないけれど。
「正直な気持ち、言っていいですか?」
「もちろん」
「薄情なやつと思われるかもしれないし、嫌なやつと思われるかもしれない」
「俺はずいぶん悪人を見てきたから、大丈夫だと思う」
「わたし今とっても、満足してるんです。わたしが死ぬ時に、あんなに人が集まってくれて、悲しそうな顔をしてくれて。よかったなあって。できればこのまま、死んでしまいたいなぁって」
どうやら天使は、言葉を失ったようだった。わたしのことをじっと見て、ようやく「おかしな子だ」とだけつぶやく。
「じゃあ、転生できるかい」
「ええ」
そうか、と言って天使は深くうなづいた。先程から宙に浮かぶ扉を、ぽんぽんと叩く。
「今回は事前に君に会っていたからね、君のために扉を選んでおいたんだ」
「まさかこの扉を開けると生まれ変われる……?」
「そのまさかだ」
「ずいぶん簡単なんですね。閻魔大王とか神様とか、まだ会ってないんですけど」
「会いたいかい? 閻魔大王なんてのはいないけどね」
「悪人とかが死んでも裁かれないんですか?」
「死人はみんな死人だ。善人も悪人もない。そうだな、強いていえば俺たち天使が、独断と偏見で次の世界を決める」
「それでいいんですか」
くすくすと笑って、天使は悪戯っぽく片目をつむってみせた。
「所詮神様のゲームの中の、ノンプレイヤーキャラクターだぜ。俺も君も」
それもそうだわ、とどこか諦め心地で、わたしは扉に手を伸ばす。「俺はさ」と天使は一段と砕けた口調で言った。
「君に期待してんだ」
「期待?」
「君は持ち前のおせっかいで、次の世界でも苦労するだろう。前よりもっと苦労するだろう。それでも」
「苦労するのは嫌ですけど」
「またここに戻ってきた時に、俺に『今日も朝ごはんが美味しかったです』って言ってくれよ」
扉が、ひとりでに開く。まばゆい光がわたしの視力を奪った。力強く、背中を押される。
「頑張れ、新人」
柔らかな光はまどろみへと形を変え、わたしを飲み込んでいく。綺麗な金色の髪と、清々しいエールだけが、わたしの脳裏にいつまでも消えないまま、新しい世界に抱きしめられたのだった。
この天使様は生きていればわりと歳くってますよ。