決意
蛙の合唱が自然のBGMとなって、心のなかにまで届く。夏の風物詩は今晩も賑やかだった。夏が終われば秋の虫たちが賑わいだすだろう。
私は髪をドライヤーで乾かさないまま、パジャマ姿で自分の部屋にいた。妹は居間でテレビに夢中だ。(有名なマジシャンのネタバラシがあると言って目を輝かせていた)なので2階にはしばらく来ないだろう。
枕カバーが濡れるのもお構いなしに、私はしめった髪のままベッドに身を投じた。弾力の無い、硬い質感のいつものベッドがミシミシと音をたてる。素足で毛布とマットレスの感触を確かめながら、私は大きなあくびをした。
「はぁ……」
なんだろう、と思った。無意識に出た溜息がやけに寂しい。なんだか今、とても気苦労しているような気がした。もちろん溜息の原因は、木村にあるのだが。
帰りのバスが鎧村についたのは、どっぷり日が暮れた頃だった。眠っていた木村は誰に起こされる訳でもなく、1人で目を覚ますと私の次にバスを降りた。
私は今日の朝の出来ごとを振り返る。
木村に渡すことが叶わなかった野菜は、こっそり家の倉庫に戻しておいたから、親にばれることはまずないだろう。肝心なのは――なぜ、目の前でトマトを踏みつぶしたのか、だった。私自身、野菜は好きだった。野菜嫌いの気持ちがまったく理解できない訳ではなかったが、嫌いと言うならもっと他の方法で教えてくれても良かったではないか。内心不服どころではない。あれは、絶対的に木村の行為が間違っているだろう。私は強く思い込んだ。思い込まないと、変に同情や気をまわさなくてはならなくなる。
「よーし」
私は1人拳を天井に向かってあげ、ある決意をした。
(野菜が嫌いなら好きにさせればいいじゃん! 野菜を好きになれば、踏み潰したりなんてしないはずだよね。そうすれば説明だってちゃんとしてくれるでしょ。うん、そうしよう!)
なんて合理的な方法なのだろうと我ながら思った。しかし、それには課題が沢山ありそうだった。とりあえず、本人の同意無しでは何も始まらないだろう。それも素直に首を縦に振ってくれるとは思えない。では――どうやって野菜嫌いを野菜好きにさせる?
勝手に決意したはいいが、それは同時に彼と親しくしなければならないということだ。知らないに等しい彼を、これから知っていくということだが、あくまで説明させることが目的なので、理由さえ知れればいい。
ここまで考えて、自分はなんでここまで理由にこだわるのだろうと思った。不思議だった。心のどこかで他人を決め込んでいるのに、心のどこかでは野次馬のような好奇心が渦をまいている。
本人に直接問いただしても、彼はきっとその硬い口を開けないだろう。決して彼のことを許しているわけではない。でも朝のように怒るのはやめよう。決意したからにはやってみようと思った。
(そうだそうだ……明日ノート返さないと)
むくりと体を起こし、椅子に座ると油性マーカーで右手の甲に「ノート」と書いた。書きながら汚い字だと思った。
その時、部屋のドアの向こうから猫の鳴き声が聞こえた。ペンを戻し、ドアを開けるとそこにはヒナがいた。
「ヒナ、どうしたの?」
私の問いにヒナはミャーと鳴く。緑色の目が何かを訴えている。
「もしかして明美がテレビに夢中でご飯もらってないの?」
ヒナは何度も鳴いた。どうやらお腹が減っているらしい。しかし居間の誰にも相手にされなく、私の所へやって来たのかもしれない。
「もうー、ママもおばあちゃんもいるのに、誰も猫にご飯あげてないの?」
猫に文句を言いながら、私は階段を下りて行った。その後をヒナが追いかけた。
居間に行くと、母と妹と祖母がテレビを食い入るように見ていた。やはり、完全に猫の餌やりは忘れられていた。
マジック番組を見て「おぉ!」だの「凄い」だの言う妹たちを横目に、私は台所の棚から猫用の餌を取り出し、小皿に移した。するとヒナはすぐに食べ始め、その様子に気がついた他の猫も小皿に集まりだした。
(明日も学校か)
ふと時計を見れば、既に午後21時をまわっている。私は皆と一緒にテレビを見ようとはせずに、自分の部屋に戻った。