わからないこと
部活がある歌子と別れた私は、いつものバス停まで1人で歩いていた。太陽は低くなりはじめ、私の影は不気味なくらい長く伸びた。ヒグラシの鳴き声を耳に入れて歩くうちに、早く家に帰りたいという気持ちが湧きあがった。
最寄りのバス停は学校を出て徒歩10分の所にあるので、考えごとをしていればあっという間だ。と、前方に木村の姿があった。途端に私の足は重石をつけたかのように重く感じられた。行き先が同じだなんて――と、私はつい溜息を漏らした。
私はあくまで他人として、バス停のベンチに腰掛けた。学生鞄と体育袋を脇に置き、しばらく目前の木村を見ないことにした。とは言っても、それはそれで居心地の悪いことだった。
時刻表の看板前で棒立ちしたままの木村は、首を捻って私の方を見た。
「……後ろにいないでくれない? 気ぃ散るから」
「嫌だよ」
反射的に言うと、木村は少し間を置いた後で「あ、そう」と低く返答した。機嫌が悪いことをあからさまに態度で訴えた私だったが、木村はあくまで冷静な面持ちのままだった。この瞬間も下に見られたような気がして、私はムカムカした。
「ねぇ――」
今朝言えずしまいになっていた文句を言おうと口を開くと、立ったままの木村はなぜか手のひらを上にして私にさし出していた。そんな行為を理解できなかった私は、その手を訝しげな視線で見つめた。それから彼の目を見る。
「――なに?」
「ノート」
「……あっ!!」
ようやく木村の出す手の意味がわかった。返すのを完全に忘れていた私は、急いで鞄のなかを漁った。木村幸人と書かれた数学ノートを確かに鞄に入れたはずだったが――なぜかノートは鞄のなかになかった。手を前に出したまま待つ彼の前で、私は探す手を止めた。
「ごめん、忘れてきちゃったかも」
「……」
怒鳴られるだろうか? それとも呆れられるだろうか? 私は意味もなくアスファルトの道路に視線を巡らせたあと、気まずそうに木村の顔を見た。
「どこに忘れて来たの」
「学校」
「じゃあ、明日でいいや。もうすぐバス来るし」
「えっ、でも明日数学の授業あるでしょ? なくちゃ困るよね」
「そうでもないよ。だって――鳥井と違って予習はしてあるし」
「……なにそれ。っていうかさ、何で私が問題わかんないってことに気がついたわけ?」
私の質問に、木村は何故かそっぽを向いた。授業の時も、確かそんな素振りをしていた。すぐに視線は戻ったが、質問に答えるつもりはないらしい。木村はなんとなく、とだけ呟いた。後ろの席にいたとはいえ、前の席の人物が予習を忘れてきたことを察知するなんて難しいことではないだろうか。
「それよりさ……」
私は意を決した目で話しかけた。木村は無表情のままじっとこちらを向いていた。
「どうしてあんなことしたの?」
「ごめん」
「……」
意外な一言に、私は面喰った。また酷い言い訳でもされるのではないかと思い、身構えていたのだが――予想は瞬く間に裏切られた。今朝見た木村の顔と、今の顔は全く違うのではないかと疑いをもつほどだった。
「意味分かんない。だって――あんなの人の親切を踏みにじるのと同じことでしょ。ちゃんとさ……説明してよ。パパたちが育てたんだよ、あの野菜」
「説明できない」
「はっ?」
私は歯がゆい気持ちで眉をひそめた。ベンチから立ち上がった私は長身の木村に踏み寄った。木村は逃げるように私に背を向けた。
「もしかして、野菜が嫌いだから?」
(なんなんだろう……この会話。なんか幼稚園児と会話してるみたいだし)
いくら詰め寄っても一向に応える気配はなかった。完全に沈黙を貫きとおす木村は、何事もなかったように時刻表の前に立った。しかし、こんな所で諦めるほど軟ではなかった。その時丁度バスがこの場に到着したので、私はとりあえず木村と同じようにバスに乗車した。
私を含め、バスのなかには山上高校の生徒は3人ほどだった。しかし私と木村を除いた1名は名前も知らない先輩だ。
「あっ……ちょっと」
無駄な会話は好まないのか、木村は私を気にかけることなくバスの後方席へ向かう。すかさずひっつき虫のように木村について行った私は、窓側に座る木村と1つ座席を空けた所に座った。
それから数秒後、バスが走り出した。