事件
「ごめんくださーい」
これで3回目のノック。
一夜明けた早朝、私はすっかり準備を済まして昨日疑っていた古民家に訪れていた。背中には学校鞄、左手には母がおすそ分けと言って用意してくれた、野菜が詰まった籠がある。
(まったく、なんでこの家チャイムがないのかな?)
中で人が動く気配もなく、私は徐々に不安になってきた。もしかしたら――ここは木村が引っ越してきた家ではないのかもしれない。4回目、私は祈る気持ちでノックをした。
(出て来て!)
ガチャッ
「あ……」
玄関ドアの鍵を解除する音と共に、ドアは横へスライドされた。家から顔を出したのは、木村幸人本人だった。
「あ……」
2人は「あ……」で動きをピタリと静止させた。状況が飲みこめていないのか、木村はロボットのように静止したまま虚ろな眼差しを向けた。
「えーっと、木村君のことママに話したら野菜をあげてって、頼まれたの。だから、はいどうぞ――」
持っていた籠を幸人の眼前に突きだした。少し荒っぽかったかな――そう思った時、籠のなかを覗いた幸人は何故か表情を曇らせた。
「……ん? どうしたの? 私の家農家だから、美味しい野菜沢山なるんだよ。まぁ、この辺じゃ野菜なんてどこでも育てられてるけど。食べ方はいろいろあってね――」
野菜の美味しさを自慢するのは好きだった。ついいつもの調子で熱が入った私は、一方的に話を始めてしまった。
木村は籠の中から真っ赤なトマトを取り出し、手の中で転がした後――
グチャッ
「?」
今の音はなんだろう。私は説明の途中で音の正体を知ることとなる。
私の目の前には、無残に潰された赤いトマトがあった。パンパンでツヤのある大粒で甘いトマトが目の前で、木村の足によって潰された。
私は恐る恐る木村の顔を見た。抑えきれない怒りがプルプル全身を伝う。
「ちょっと……」
母がこれからお世話になるからと言って、良い野菜を選んでくれた。それなのに、木村はそれを……それを――
私の頭のなかは真っ白だった。
「何で踏んだの……」
私が残りの野菜が入った籠を引っこめると、この後木村は信じられない言葉を口にする。
「――俺、野菜大嫌いだから。特にトマトは」
意味がわからなかった。野菜が大嫌いだから貰いものを目の前で踏みつぶす? 一体何を言っているのだろうか、この男は。
「ふざけないでよ……」
「鼻血」
「へ?」
鼻血と言われ、私は自分の鼻に指を当ててみた。離すと、指には真っ赤な血がついていた。顔まで赤くなっているのか、頭が沸騰したヤカンのように熱い。
「この……馬鹿!」
幼稚なセリフを吐いたと思った。でも、本当にそうだから言ってやった。
「じゃあ――俺に野菜なんて持ってくるなよ」
ガシャン!
「ちょっ、ちょっと! 出てきなさいよ!」
何度ドアを叩いても木村は出て来なかった。丁度セミが鳴き始め、空しい時間がおとずれる。一瞬の間に起こった出来事は、にわかに信じられない出来事だった。
私は口をつぐんだまま、閉ざされた玄関の前で立ち尽くしていた。おすそ分けされることなく残った野菜は、籠のなかで元気をなくしたようにも見えた。
潰れて破裂したトマトを呆然と見つめ、私は複雑な心境になった。
――俺、野菜大嫌いだから。特にトマトは。
木村の一言が、氷のように突きささる。私のことを言っているのではないのだろうが、「トマトが嫌い」という言葉が不自然なくらいに引っかかった。
(パパたちが育てた野菜……どうしてこんなことするの? 木村の馬鹿! 絶対おかしいよ! もう顔も見たくないんだから!!)
私は今すぐにでも殴りかかりたいと思ったが、そんな怒りをセーブして自分の家に走って帰った。
家に戻ると、寝起きの明美が私の顔を見て悲鳴をあげた。
「ギャァァァ! お、お姉ちゃん血! 血! 鼻から血ぃ出てるって!!」
「いちいちうるさい! 鼻血くらいで叫ばないでよね」
そう言いながら鼻から血をダラダラ流す私は、心配する妹の横を通り過ぎた。
むっすり顔で靴を脱いだ私は、二階へ続く階段を駆け上って自分の部屋に引きこもった。
「ほんとうに、なんなの?」
頭のなかがくしゃくしゃして、ベッドの上に体投げた。目をつぶれば転校生木村幸人の顔がポンポン浮かんでくる。
「もう! 木村の馬鹿! 木村の馬鹿! 木村のバカー!!!」
犬のように吠えていると、すかさず母が2階に駆けつけてきた。
「……一体何の騒ぎ? まぁ! トマト――あなた血まみれじゃないの!」
母の声も聞こえているようで聞こえていなかった。
「あの人頭おかしいよ……」
ベッドの上で大の字になる私に、母はティッシュ箱を渡してくれた。
「もしかして、木村君のこと? なにか、あったの?」
「……」
その問いに言葉を詰まらせた。怒りにまかせて暴露してしまえばよいものを、なぜか口が開かなかった。
「……なんでもないよ。ただ、ムカついただけだから。あと、この鼻血は私が勝手に流しただけだからね」
「なんでもないのに鼻血がでるの? あんまり鼻血しないのに……もしかして、木村君に変なことでもされたの!?」母は眉をひそめて尋ねる。
半分正解。おすそ分けした野菜を目の前で意図的に踏みつぶされる――という、変なことをされたのだ。
でも、私はそのことを言わない。母が悲しむと思ったからだ。
(ん? 私どうしてこんなところで気ぃ遣ってるんだろう……気持ち悪いなぁ)
「野菜は渡せたの?」
「……うん」
私は平然と嘘をついた。木村が野菜嫌いだということも。
「それにしては浮かない顔ね?」
「そうだよ」
不機嫌な目つきで部屋の壁を睨む。私は目の前であげた物を踏まれて笑っていられるほど、優しくない女なのだ。すぐに怒りが湧くし、感情的になってしまう。悲しいというよりも、私は今、驚愕している。
「……制服脱ぎなさい。鼻血で汚れてるじゃないの。洗濯しておくから、今日はワイシャツで行きなさい」
「ねぇママ。私の顔赤い?」
「そうね、いつもよりは赤いわよ」
「やっぱり……」
私はティッシュ1枚で鼻詮を作り、自分の鼻穴に突っ込む。鼻血は両方から出ているらしく、2つの穴を塞ぐと息苦しくなった。
「あー、呼吸がぁぁ……」
「大袈裟ねぇ。着替えたら早くバス停に行きなさい? ちゃんと顔も拭くのよ」
「うん」
血のついたセーラー服を受け取った母は、先に階段を下りて行った。遠ざかっていく足音を黙って耳に入れながら、私は学校に持って行くポケットティッシュを探した。
(木村に文句言ってやんないと!)
顔も見たくない気分だったが、文句を言うために真正面から言ってやろうと思った。