#01 - 3
突風のように疾く駆ける人影。
それは地の上を駆け、樹の肌を駆け、空の下を駆ける。文字通り『縦横無尽』に険しい森の中を駆け巡り、怪物を翻弄しながら立体的に並走していた。
どこか現実離れした光景であり、むしろ人間離れした超人的な動きを見せている。
一方で疲労困憊のシロウはそれでも精一杯、森の獣道をひた走り続けていた。
命の危機に瀕しての必死の走行だが、早くも燃料不足に陥っていた。やはり空腹が一番堪えているようだ。悲しいほど体に力が入らない。
闖入者の介入によってわずかに怪物の意識が逸れただけでもありがたい。走るペースを少し落とすことができたからだ。誰だか知らないが本当に助かる。
まだ若いシロウはスポーツに青春を捧げている身だ。毎日鍛えられているはずの気力体力だが、すでに限界が近付いていた。
怪物が激怒して吼えた。
うっとおしい人影を狙って大角を振り払ったが、当たらない。人影の代わりにぶつかった大樹が根元からへし折れた。その激突音だけで胆が冷える。
後方では人影が怪物に纏わり付いて、ちょっかいを出すようにチクチクと牽制してくれている。やはり助けてくれるのか、敵意を自分に向けさせてシロウと怪物を引き剥がすような行動だ。
まだ走ることを止めるわけにはいかないがわずかに余裕ができた。シロウは走っている獣道を囲む茂みのあちこちに目をやる。
逃げられそうな脇道らしい脇道はどこにも見つからない。かといって尖った枝葉が密集したところに強引に突っ込めば、素肌を切るくらいでは済まないかもしれない。
だがもう、真っ直ぐ『逃げる』だけでは駄目だ。
せめて戦っている人影の邪魔にならないように『隠れる』ことも選択しなければならない。
シロウは思い切って左方向の茂みに飛び込んだ。
その拍子にさっそく頬が切り裂かれた。マシな場所を選んだつもりだったが、ほかにも肌が露出している手の甲や首筋のあちこちに擦り傷を作る。それでも気にするヒマなどはない。
そのほんの数秒後に怪物が勢いよくすれ違う。
かすってもいないのに風圧だけで体勢を崩される。
あわや転倒しそうになるシロウ。どうにか踏み止まるが、けっきょくは無駄だった。
シロウが飛び込んだ茂みの先は、ちょっとした崖になっていた。
「うわああああああああああッッ!!」
崖を派手に転がり落ちたシロウは大樹にぶつかってようやく止まった。
ゲホゲホと咳き込む。堅い幹に背中を叩き付けながらも大きなケガはない。
痛みに耐えたしかめっ面のまま顔を上げる。シロウが今いる場所は突然ぽっかりと森が拓けた空き地のようなところだ。オフィスビル一棟くらいなら建てられそうな広さがある。
周囲にはまた深い森林が広がっている。だが一か所だけ傾斜が見える場所があった。おそらくそっちからシロウが落ちたのだろう。
どうやら落ちた崖はそれほど高くないようだ。どちらかと言えば急勾配の坂に近かった。しかし勢い余れば、ご覧の有り様である。
「ぐぅぅ、うかつだった……」
怪物から逃げ切ったと思いきや、あわや転落エンドが待ち受けているとは考えもつかなかった。
シロウの身体に致命傷どころか大したケガもなかったのは、ただ単に運が良かっただけだろう。
まだそれほど遠くない崖のむこうからは断続的に怪物の咆哮が響いていた。地面を踏み鳴らす音や木々がへし折られる音も聞こえてくる。
まだあの人影が怪物と戦っているのだろうか。
「なさけねぇ。格好悪いな、俺……」
シロウは自虐的に顔を歪めた。自分を笑うこともできない。
勇敢に怪物に立ち向かうあの人影と、みっともなく逃げ惑った挙げ句に隠れようとするシロウ。二人の間にはどれだけの差があるのか。
シロウにだって剣の心得がある。戦えるはずだ。
だが剣道であの怪物が倒せるのか?
この木刀であの怪物を倒せるのか?
「……まずは生き残ることが先決、か」
苦い表情のまま呟いた。それは先の自問自答に対する答えではない。
シロウは立ち上がる。思いきり歯を食いしばったのは、全身に残る痛みのせいだけじゃない。
こんな時でも木刀を杖代わりに使わないのは、彼の【剣士】としての最後のプライドだった。
――――咆哮と地響き。
また近付いている。いつの間にか怪物との距離が縮まっていた。
たまたま偶然なのか、それとも諦めずにシロウを追ってきているのか。
その咆哮が聴こえてくる方角は少しずつ変わっている。きっとあの崖は迂回することも出来たのだろう。怪物はぐるりと迂回して、この空き地に迫ろうとしているようだ。
「くっ、まずい。なんとかこの場を離れないと」
シロウの身体に目立ったケガはない。
だが泥のように纏わり付く疲労と、落ちた時の痺れるようなダメージが残ってクラクラしている。チカチカしていた視界がようやく回復したばかりだ。
おそらくこの状態のままでは逃げ切れない。
――――ひと呼吸。
シロウは木刀を構えた。
そっと目を閉じて集中する。
無理なのはわかっている。無策で無謀だし、無茶だということも承知の上だ。ひょっとしたらこの行動は無駄かもしれない。
だがしかし『逃げる』ことも、『隠れる』ことにも失敗した。ならばもう――――『戦う』しかないじゃないか。
いきなり知らない場所に飛ばされて、わけのわからない状況のまま【怪物】に追われて、なにも出来ないまま死んでたまるか。
腹をくくったシロウは戦意に燃えた目をかっと見開いた。
「最後の最後まで足掻いてやる。絶対に諦めてやるものか!」
シロウはわずかに燻ぶっていた闘志に火をつけた。今にも潰れてしまいそうだった弱々しい表情が、しだいに剣士のそれに変わっていく。
痛みを無視して全身を奮い立たせる。
木刀を強く握り、意識を集中する。
怪物のいるであろう方角に切っ先を向けたままの姿勢で待つ。
先程まで負け犬のようだった表情が嘘みたいに変貌する。強く気高い狼のそれだ。
気が付くと尖った犬歯がむき出しになっていた。どうやら今度はちゃんと笑えていたらしい。
戦闘態勢のシロウが気を放つと、それに応じたかのように怪物の絶叫が辺り一面に響き渡った。どうやらむこうもやる気らしい。
その直後の奇妙な静寂に気付くが、警戒を解かない。
「――――来た」
うっそうと生い茂る枝葉の隙間、そこから何かが勢いよく飛び出してきた。
それは撃ち出された砲弾のようにきれいな弧を描きながらクルクルと回転していた。
それはシロウが警戒していた【怪物】ではなかった。怪物の飛ばした岩石や木の破片ですらない。
やがてシロウの目の前まで飛んでくる。
ふわりとやわらかく着地したそれは――――人間だった。
「……なっ、えっ?」
それは怪物に立ち向かっていたあの人影だった。