#01 - 1
ふと、シロウが目覚めてまず思ったことは「暗い」だ。
地面に仰向けで寝転がったまま目を開けた場所は異様に薄暗く、息苦しいほど濃密な圧迫感が辺りを支配していた。
そっと静かに息を吸い込むが、思わずむせてしまう。
くさい。
すりつぶした緑草の汁を何倍にも濃くしたような青臭いにおいだ。その木々が生い茂る空間は田舎育ちのシロウでさえ今まで嗅いだことのないほど、それほど緑深い森林のにおいに満ちていた。
そこが薄暗いのは周囲に木々が尋常でないくらい生い茂っているからだ。こんなにぼうぼうと手入れされていない大自然は初めて見る。高く伸びる枝葉はまるで洞窟の天井のように空を覆い尽くしていた。
神社裏の雑木林だろうか。
たしか神社の裏手は崖になっている。ひょっとしたらそこから落ちたのかもしれない。
だが、違っていた。
ない。
ない。
どこにもない。
ぐるりと見渡しても落ちたはずの崖がどこにも見当たらない。それどころか地面はほぼ平坦だ。
ああそうか、周りの木が邪魔で見えないんだな。
きっと楽しいくらいコロコロと転がったのだろう。崖から離れてしまったのだ。
シロウの身体にケガはない。幸いなことに軽い打ち身すらなく、どこも痛いところはなかった。
この場所がどこなのかを知るためにも行動しなければならない。探索しなければならない。帰り道を見付けなくてはならない。
ここが神社裏の雑木林だとすると、どこか近くには目印になるようなものがあるはずだ。
例えば斜面には長い石段があり、登った丘の頂上には神社がある。御神木はその大きさゆえにどこからでも目立つだろう。なにも登らなくてもいい。下に降りられれば近隣の民家だってある。
シロウはよろよろと立ち上がり、ふらふらと歩き出す。
――――だがやはり、なにも見つからなかった。
シロウの周囲は樹木ばかり。ほかには地面の土と石だけだ。
彼が目覚めた場所は、どこかの見知らぬ深い森の中だった。
「なんだよ。なんなんだよ。どこなんだよ、ここは……」
やがて歩き疲れたシロウは木に寄りかかったままズルズルと座り込んでしまった。
頭が混乱したままどれくらい時が流れたのだろう、とりあえず落ち着こうとした行動のすべてが裏目に出てしまっていた。
けっきょく『ここ』がどこなのかわからない。
わかったことは、この場所が神社裏の雑木林ではないということだ。
わかったことは、この場所が足を踏み入れたことがないような深い森の中だということだ。
いわゆる熱帯地域のジャングルではない。例えるならば「太古の森林」。いかにもそんな雰囲気で、どこか神秘的で不思議な違和感がある森だ。
それはまるで日本ではないような――。
いったいなぜ、自分がこうなったのかはわからない。
いったいいつ、自分がこうなったのかはわかっている。
今朝はいつものように神社で剣の修行をして、幼なじみの少女が迎えに来て、それから長老に挨拶をして、切れていたしめ縄に触れようとしたら――――いつの間にか『ここ』にいた。
それはまるで神隠しのような――。
「ああもう。やめだ、やめだ」
体力よりも先に精神力のほうが参ってしまいそうだった。
もうわけがわからない。自暴自棄になりかけている。
もうひとつ、なにかきっかけがあれば完全に絶望して、喉が張り裂けるまで怒鳴り散らして、やがて狂ったように笑い出すか、あるいは壊れたように泣き出すか。
今のシロウはぎりぎりの状態だった。
そんな時、涙腺の代わりに胃袋が弱々しく泣いた。
そのマヌケた音色に、少しだけ肩の力が抜けた。
「……やっぱり体力が尽きるのが先かな? せめて朝メシだけでも食べたかったなぁ」
よく見えない空を仰ぎつつ呟く。なんだか目からなにか溢れてきそうだ。
未練がましいと思いつつ、シロウは所持品を再確認する。
くしゃくしゃのハンカチと小銭入れ(残金 五〇二円)、それから首に巻いていたハンドタオルだけだった。ほかに目ぼしいものは何ひとつ持っていない。
残念だが何度見ても持ち物は増えたりはしない。
今着ている制服と身に着けていた持ち物以外、すべての荷物を失くしてしまっていたからだ。
シロウが目覚めた時、学生カバンとスポーツバッグはすでに紛失していた。
始めはかるく考えていてどうでもいいように思えたが、スポーツバッグにはたしかスポーツドリンクと非常食兼オヤツのクラッカーが入っていたことを思い出し、少し残念に思った。
「あーあ、どこかに自動販売機でもないかなぁ?」
悪あがきのような現実逃避。
現状把握さえままならず、もともと少ない荷物でさえほとんど失くしてしまっている。挙句の果てに空腹である。そんなひどい有り様だ。
しかしそんな絶望の最中でも幸運なことに『武士の魂』『剣士の誇り』である愛刀だけは失くさず、その掌の中にあった。
シロウはその木刀だけでも無事だったことを純粋に感謝した。
持ち物はほかに何もなく、何もわからない絶望的な状況で【武器】があることにこれ以上ない心強さを感じていた。
シロウは木に寄りかかったまま、その木刀を強く抱き寄せた。
これが、この木刀だけがシロウの心の支えだった。