世界の共通部分-インターセクション-
世界の交差点。それを意識することはあまりないだろう。
だけどヒトは、生きているだけで様々な交差点にさしかかるのだ。
夏の陽炎が立ち上るスクランブル交差点。
僕は其処にただ立ち尽くすだけだった。
横断歩道ですれ違うヒト。
それぞれの世界を想像すると、気が狂いそうになる・・・。
頭上では、モノレールがたくさんの命を乗せて蒼空を散歩していた。
決められた道を通るだけだが、千葉駅では路線が分岐する。
そこでヒトは路線変更することができる。
いつもならモノレールに乗って帰路につく僕だったのだけれど、
気分転換に歩いて帰ることにした。
下から見上げる世界。
そこでは街の灯が暖かかった。
住宅街では、玄関で子供が花火をしてはしゃいでいる。
花火の光と玄関の灯りが交差する。
それを眺める老婆の表情が、深く印象に残った。
僕が観測する光景と、その老婆が観る世界は違う・・・。
視覚は、網膜の受容体に存在するレチナールの分子構造変化が介在して行われる。
視神経を伝わり、脳の視覚野で処理されて初めて、感知することができるのだ。
そして、脳の記憶部位などの様々な連携処理を受けて、感情を含めた情景として成立するのだ。
だから僕と老婆が観る世界は完全に異なる。
でも、老婆の表情を観て、僕の心に生まれた感情は、無色ではなかった。
暖かい赤。
慈愛の紫。
そんな色が混ざり合う交差点は、こんなありふれた場所にもあったのだ。
観測する世界の共通部分。
だからこそ、世界には彩りが存在する。
視覚的に見ることと、観ることはイコールではなかったのだ。
それに気づくことで、ありふれた中の交差点に至ることができると、僕は思うのだ。