嫉妬の時代
今夜は珍しく、この店に見知らぬ女性客が訪れている。
居心地が悪そうなS氏に比べ、まったく平時と変わりないM女史が彼女にチラチラと視線を投げながら、隣のS氏に耳打ちをしていた。
S氏
「……マスター、ごめん、帰るよ。」
M女史
「えー!? なんで、なんで!?」
S氏
「用事を思い出したから。じゃな。」
M女史
「ああ! 待ってくださいよ! マスター、わたしも帰るね!」
さっさと店を出たS氏を追って、M女史も退場した。
D女史
「……お邪魔しちゃったかしら?」
マスター
「いえ、お気になさらず。」
D女史
「マスターは、ウェブサイトとか御覧になる?」
マスター
「はあ。多少は。」
D女史
「あたし、SM小説とか読むのが好きなの。
けど、精神科を齧ってる身としては、色々あって素直に読めないのよ。」
マスター
「……大変ですね、」
D女史
「SMと一口に言っても色々あるし、虐待モノは勘弁願いたいのよ。」
マスター
「……違うんですか?」
D女史
「例えばDV……暴力を受けた被害者がそれでも相手を許すのは、大抵、暴力を振るった加害者が、暴力を振るった直後に本当に反省したかのように平身低頭で謝るからだと言われているわ。
泣きながら許してくれとすがりついたり、ね……。」
マスター
「ははあ……。それなら、確かに許そうと思うかも知れませんね。」
D女史
「そして、しばらくは大人しく優しくなるの。サイクルが出来上がるのよ、暴力期と反省期と平静期の三つを繰り返すようになるわ。
それがDVの大きな特徴なのだけれど、小説ではあまり見られないわ。
ひどい暴力を振るうと言う事を聞くようになる……それは幻想よ。」
マスター
「いつかの事件で、一家八人を軟禁状態にして、殺し合いをさせた事件がありましたよね。ああいうタイプは?」
D女史
「あれは特殊な例。あの犯人が特別にマインドコントロールが巧い男だっただけよ。麻原被告とか古くはヒトラーなんかと同じね。
だけど本人の中に落とし穴があるの。極端に自己陶酔が強いから、自身の権力が崩壊を始めたら、通常の数倍は精神的に苦しむことになるのよ。
切迫障害、常に権力に囚われる者は、常に死に怯えるようになる。
……クールで、カッコイイ犯人像なんて、有り得ないのよ。」
マスター
「ああ、他の常連の方も同じような事を仰ってましたね、そう言えば。
そういう被告は、決まって廃人同様になる、とか……。」
D女史
「人が人に攻撃性を発揮するのは、これは嫉妬の発露だと言われているわ。……つまり、相手が自分より優れているために、自分よりも下に引きずり落として、自身の優越感を回復させようとする心理ね。
つまり、それだけ自己評価が低い事の現われでもあるのよ。他人に拘るという事は、自分には自信がないのよ。
自信に溢れる人間は、『人は人、自分は自分、』と思うものよ。」
マスター
「……。」
また難しい話の好きなお客か、と諦め顔のマスター。
D女史
「それを小説として書き記す心理は、これは投影ね。
作者は大きな劣等感を抱えているのかしら?
現実には自身の無力感に苛まれているのかしら?
嫉妬が行き過ぎると、人は無気力になったり、自堕落になったり、およそ生産的な行動を取らなくなるものなの。」
マスター
「嫉妬……ですか? それは怖いですねぇ。」
D女史
「嫉妬と一言で言っても、一般にイメージされる醜い感情だけではないのよ。相手が自分よりも優位に居たり満たされている、と感じた時に平静とは違う感情を抱く……それを嫉妬と定義するの。」
マスター
「恨みつらみで……ではないんですね?
メラメラと炎を燃やす、というイメージが一般的ですけどねぇ。」
D女史
「ええ、違うわ。嫉妬にも二種類があって、破壊的嫉妬と建設的嫉妬の二つ、エンビー型とジェラシー型とも言うのだけど……。
嫉妬を感じた後の、自身の内での対処によって、分けられるのよ。」
マスター
「ジェラシーが建設的なんですか? ネガティブというか、暗いイメージが強いですけど……エンビーというのは、あまり聞きませんね。」
D女史
「心理学ではエンビーが、ネガティブで暗い、陰険な感情なのよ。
エンビーとは、羨望という意味なの。」
マスター
「ほお、なるほど。」
D女史
「人間が人間として思考して行動してゆく限り、嫉妬の感情は行動の基本となって、その人間の思考形態に関与してゆくわ。
恋愛、家庭、仕事……何を取っても、人との関わりなくして、行動は有り得ないでしょう?
嫉妬に対する行動によって、あらゆる面での反応形質が決まるのよ。
人間は、ありとあらゆる相手に対して、少なからず嫉妬を感じて、対処してゆく生物なの。それは動物がテリトリーを固持するのと同じよ。
人間は動物より複雑な社会を築いているから、彼等ほど単純にはいかず、ルールが複雑になるけどね。」
マスター
「動物は嫉妬をしないという考え方もあるそうですね?」
D女史
「さあ? 動物の身にならないと、それは解からないんじゃなくて?
人間にはあるけど、動物にはない、そんな考え方は傲慢よ。ただ……人間はそのために、他の動物ほど安定しなかったけれど、発達はしたわ。
安定してしまうと進化はストップするのかもね。」
マスター
「難しいですねぇ。(苦笑 」
D女史
「あら、ごめんなさい、抽象的だったわね。
嫉妬というものを人間特有の感情とするのは、動物のように本能に支配された行動以外のことを人間が行う事に関係して、その矛盾を解決するために考え出された事なの。
動物はリーダーの覚えがめでたいからって、仲間に嫉妬して足を引っ張ったりはしないわよね? それをこじつけたものなの。
けど、人間と動物の違いと言えば、脳の容量の違い……それに尽きるとわたしは思うのよ。それ以上の理由は、何もありえないとね。
動物だって、脳が肥大化すれば人間同様になるわ。」
マスター
「シンプルですね、」
D女史
「そう。嫉妬の話に戻るわね。
破壊的嫉妬というのは……他者が優れていると思う時、その特性を妬み、決して相手を認めようとしない事なの。失敗すれば喜ぶし、突出すればイイ顔をしない。行き過ぎると攻撃を加える。負け犬根性ね。
虐待小説で見る暴力衝動もこれに当たるわ。
建設的嫉妬は逆に、他者の優れた特性を見た時に、その劣等感をバネに自身も奮起してその他者に追いつこうと努力するの。幕末などに志士達がアメリカなどの列強に追いつこうとしたでしょう? あれね。
その姿勢を取れるか否かが問題ね。
他者を認めて自身の劣等性をも認められる者を建設的嫉妬、他者も自身の劣等性も認めない者を破壊的嫉妬と区分するの。」
マスター
「破壊的な方が、相手をけなしたり邪魔をしたりする行為で、建設的な方が、ポジティブに捉えて自身の成長のバネにする行為ですね。」
D女史
「他者の不幸を喜んだり、足を引っ張ったり、陰口を叩くのは、破壊的嫉妬の現われで、例えば、恋愛で別れた相手の不幸を願うようなものね。
さらに興味深いのは、ネットに措いての匿名性なの。」
マスター
「ネットでは正体が知れないという不安がありますからね。」
D女史
「ええ、でもそれだけではないの。
発信者には匿名という事で、反撃の回避という心理が働いているのよ。
例えばハンドルネームで書いているにしても、ネットから離れるなり、HNそのものを変えるだけで、責任からは逃れる事が出来るでしょう?
HNを使う事も、本名を晒すのは危険だという理由で、一見、正当化しているけど、自身の行動に無責任でいられる事が最大の理由なのよ。
ネット発信が爆発的にヒットした要因ね。物事には正逆両方の面が必ずあるものだから。
本当のところ、直接本人には反撃されない……自身への攻撃を避けたいという卑怯な心理が隠れているの。2chのような完全な匿名も、通常のHNも、そういう意味では大差ないのよ。
だから、暴虐不尽な行動が増長されるし、エスカレートしてくる。
正体を晒さないから、現実の生活にまでは及ばない、いざとなればネットから離れるだけのお気楽さで責任を回避出来る、というワケね。
そういう心理がさらにネガティブな精神構造へと導いていくのよ。建設的嫉妬は、自身の劣等性を認めなくてはならないけど、破壊的嫉妬は相手を攻撃する事によって、自身の内面を傷付ける必要はなくなるから。」
マスター
「ああ……、以前、常連の方が仰った事は、それだったんですね。
超自我とかなんとか……苦しんだり辛い目に遭った人間の方が、脳は発達する、とか仰ってましたよ。」
D女史
「あら、そうなの? 一度、お話ししたいわ。
苦労しない人間が成長しないのと同じに、逃げてばかりのそういうネット人間も、精神が幼いという事は言えるでしょうね。
生身の人間同士がぶつかって、苦しみ抜いてこその成長だから。
わたし、ネット小説を読んでも、その作者の精神的葛藤を考えてしまうのよ……。こういう作品を書く裏側では、作者自身になにが起きているんだろうか? って。
認知の再構築とも言うんだけど、嫉妬の念をもう一度自身の中で消化して、無害なモノに変えようという心の働きがあるのよ。
暴力的作品を作る多くは、その心理が働いていると思うの。他者の間に起きた事にしておいて、自身の経験とは切り離そうというのね。
それによって、自身の問題を解決するための糸口にするのよ。」
マスター
「一種の癒し行為ですか?」
D女史
「そうね、そうかも知れないわね。
だけど、読む側がそれに気付いていない場合はどうなるかしら?
人間というのは、不平を言ったり非難したりして、世間の反応を見て正しいかどうかを判断する、という面があるわ。
批判されれば「間違っている」と思い、共感を受ければ「正しい」と思う。
これだけ暴力的表現が溢れていれば、それを正しいと受け止めても不思議ではないのよ。麻痺してしまうのよ。
世間がその暴力をどう受け止めるかで、決定される。」
マスター
「暴力的表現自体ではなく?」
D女史
「暴力を表に出す事は必要よ。存在を隠蔽する事は不可能だし、無意味だわ。ただ、その暴力をどう位置付けるのかが問題なだけ。
虐待小説で堪らなく嫌なのは、それなの。
暴力を肯定してしまっているでしょう? 暴力で解決される事など何一つないのが現実なのに、それを完全に無視しているわ。」
マスター
「昔は勧善懲悪はセオリーでしたよね、そう言えば。
テレビ番組でも、悪は最後に必ず罰を与えられたものですけどね……。
今はそういうのは流行らないんですってね。」
D女史
「諦めの心理というのよ。これも実は負け犬根性の破壊的嫉妬。
セレブに憧れることもそう、叩き上げとか、努力して這い上がった人間をダサいと思う心理も、みんな、負け犬根性から来るのよ。
自分はそれに到達出来ないと、諦めているわけね。
元から金持ちには敵わないだとか、元から美形には負けるとか……。
努力しないで頭が良いキャラなんて、たくさん見つかるでしょう?」
マスター
「暴力で抑え付けられたら、どんなに足掻いても負けてしまうと、諦めているわけですね。」
D女史
「ちょっと違うわね、例えば虐待小説で被害者が暴力の言い成りになり、負けてしまうのは、実は自身の諦めを肯定して欲しいという心理なの。
主人公が暴力に屈して負けてしまえば、読む側は自身の中のネガティブな感情、他人の不幸を喜ぶ心理を満足させるのよ。諦めを肯定させて満足するの。
別れた元カレが不幸になって喜ぶ心理と同じことだわ。」
マスター
「ああ……イヤな女性ですね、(苦笑 」
D女史
「そう。最近、そういう傾向の小説が多いでしょう?
なんだか、不安だわ。そういうネガティブな感情を持つ人間が多いって事なのかしら?」
マスター
「そこまで考えて読んでいる読者はいないですよ、(苦笑 」
D女史
「それが怖いんじゃないの。
破壊的嫉妬に囚われたままだと、やがては現実社会でも同様の価値観で動くようになるわ。妬みの強い人間にね。
他者を非難する事が得意で、自分を批判する事がない、それは幼児期の子供の心理よ。成長が阻害されるのよ。」
マスター
「自分に都合の良い解釈ばかりするようになる?
最近起こった、女性監禁事件の犯人も、そんな人間性らしいですね。」
D女史
「元は普通だったと思うわよ? 誰にも少なからず嫉妬の念はあるの。
その嫉妬を、どう処理するかだけなのよ、問題は。
破壊的嫉妬で動いた結果が、監禁事件の犯人であり、麻原であり、ヒトラーなわけでしょう? 怖いことなのよ。
虐待小説なり、調教ゲームなりを好むのは、それは個人の自由だけど、そういう反作用を理解しているのかしら、と考えてしまうわ。
自分の心の奥を知っていてこそ、楽しむ事の許される分野ね。」
マスター
「……大人だけの、ですか。」
D女史
「いいえ。
自身の正体を知っている者のみの、です。
劣等感を知り、そういう小説に義憤を抱く者は正常だわ。被害者に同情し、憐れみを持ち、怒りを感じたり……、楽しむ反面でそういう意識があるならいいの。どうにかならないのか?とね。
どこかで遣り切れない悔しさを持つ……それなら大丈夫なのだけど?」
マスター
「バロメーターですか、」
D女史
「そうよ! 人を羨んで、努力を諦めている人間が群がるのかも!」
マスター
「……一気に敵を増やしましたね、今……。(苦笑 」
D女史
「あら、そう?
だから、書く側は最後に罰を与えるべきなのだと思うの。犯人にね。
それは至極当然の結末だと思うし、暴力で人間は屈服しないというリアリティーでもあるわ。そんな旨い話は有り得ないのよ。
それに、自身が破壊的嫉妬から抜け出て、もっと建設的な……前向きな姿勢に戻るための儀式にも成り得るわ。
諦めを払拭し、努力を肯定することが、本来正しい精神の有り様よ。
人を羨んで、努力を諦めた、ヒガミ根性の人間になりたくないなら、そうするべきよ。」
マスター
「……手痛いご意見、有り難う御座います……。」
マスターは会話を切り上げ、グラス磨きに没入するために背中を向けた。
D女史
「あら! わたし、まだ喋り足りてないわよ!?
付き合いなさいよ、マスター! ちょっと、聞いてちょうだいって!」
マスター
「はいはいはい、聞いておりますとも。はい。」
いい加減ウンザリなマスターの表情にもお構いなしに、D女史はその後も、閉店まで延々と講義を続けたのであった……。
いちおう、これで全部です。
まぁ、エンビィと創作物については、繰り返し行為の問題という事を突っ込んでないんで、ちょっと弱いかなぁ。
武道とか、何度も繰り返すことで身につける、アレのことね。
とりあえず、終了です。
追記:
「朱に交われば朱くなる」ということ。
それとは別に、攻撃性という部分で晒しスレがふと浮かんだものの、あれも完全にエンビーとは別で、むしろ正義感に関連する。




