秋風の章
姫様が愛でられた蛍たちも姿を消してしまい、御庭の桜の枝もその葉を燃えるような紅に変える秋がやって参りました。遣り水の上に浮かぶ銀杏や紅葉の葉が色とりどりの錦のようで、はらりと舞い落ちる葉の儚さにも風情が感じられます。
「まあ、姫様。素敵ですわ。まるで雛あそびのお人形のようです」
侍女の一人の言葉に、私は思わず眉を顰めました。姫様に対してお人形のようです、などと言うのは、はなはだ無礼なのではないかと思ったのです。
しかし私はそれと同時に、その侍女の言葉にひどく納得してしまったのです。人のものとは思われぬ程の美貌に、時折どこか儚い、寂しげなご様子でいらっしゃる姫様の印象は、私の中で雛あそびのお人形とぴたりと重なってしまったのです。
姫様はそんな侍女をとがめる様子もなく、ただぼうっと、御庭を眺めていらっしゃいました。その視線の先に何があったのかは、私のような者にははかり知れません。
今日は、女御として入内されることが決まった姫様のための、御道具や御衣装を用意しております。金銀艶やかな御衣装に扇、華やかに彩られた貝合わせの御道具に、気品漂う御道具の数々。どれも当代一の名工に作らせた、贅の限りを尽くしたものでございます。一つひとつ手にとって確認する度に、私たちは思わず感嘆の溜息をもらしてしまいました。
そろそろ全ての御道具の確認が終わるかと思った頃でございます、ふと姫様が小さく息を漏らされて、軽く瞼を震わせました。そしてその視線の先には、菅原高遠様の御姿があったのです。
「こちらの姫君が入内されるとお聞きしてやって参りましたが、果たしてその噂は真実なのでしょうか? 思うところもありまして、どうしてもその噂を信じられないでおります」
そう切羽詰まった声音でおっしゃると、高遠様はじりりと一歩、こちらに足を踏み出されました。その足元で、砂が鈍い音を立てます。長かった秋の夕暮れも終わり、次第に辺りを薄暗闇が包み始めました。
「高遠様がお耳にされたように、姫様の入内が決定いたしました。ただいま、陰陽師に吉日を占わせております」
私の言葉で、高遠様がぴくりとその身を震わせました。それから、拳を強く握りしめ、俯かれます。その直後でした。
バサッ!
「な、何をなさるのですか、高遠様!」
なんと高遠様は、あろうことか乱暴に廂に登って来ると、勢い良く御簾を払いのけて、母屋の中に入っていらしたのです。まさか高遠様がこのような暴挙に出られるとは私たちも夢にも思っていなかったので、その時はひどく動揺してしまい、咄嗟に姫様の御姿をお隠しすることもかないませんでした。
そして高遠様はそのままずんずんと無遠慮に奥に進まれると、あまりの恐ろしさに震えていらっしゃる姫様の御手を乱暴にお取りしたのです。
「あの夏の夜の合奏をお忘れですか? 姫君! あの溶け合うような楽の音を、よもやお忘れではありますまい!」
高遠様の剣幕に押されて、私たちの中に動ける者は一人もおりませんでした。姫様はかたかたと震えながらも、扇で御顔を隠していらっしゃいます。涼しい双眸に今日は怒りを滲ませて、高遠様は姫様の御手を固く握りしめたまま続けられました。
「私にはあの時、はっきりとわかったのです! ああ、この方こそ、私の運命の半身だと! 私と姫君は比翼の鳥であり、連理の枝であるはず! 姫君もそう感じられたはずでございましょう?」
そしてその直後、高遠様は姫様の御言葉を受けて硬直されました。姫様はこうおっしゃったのです。
「……私はお人形です。どうぞお忘れ下さい……」
なんと哀しく辛いお返事でございましょうか。この時の高遠様のご様子からは、心の臓を抉られるかのような激しい痛みというものを、容易に窺うことができました。私は恐る恐る、姫様の御顔を盗み見ました。おそらくは姫様も、高遠様と同じく、苦渋に満ちた御顔をされているのではないかと思ったからです。なぜなら姫様も、高遠様と深い縁で結びつけられているはずだということを、感じ取っておられたはずだからです。高遠様とお会いしていらっしゃる時の姫様の御顔を拝見すれば、滅多に表情が変わることはなくとも、長年おそばで御仕えして来た私にはわかるのです。
しかし驚いたことに、姫様はこの時、無表情でいらっしゃいました。普段から御顔を綻ばせたり、歪められたりということはまずなさいませんが、それでも私には、微細な変化を読み取ることができました。それなのに今日は、本当の無表情でいらっしゃったのです。
高遠様はしばらく、途方もない怒りに身を震わせていらっしゃいました。これ以上の暴挙に出られては非常に困りますが、かと言って、人を呼んで姫様や高遠様の御名前に傷をつけるのも困ったことです。私たちがなすすべもなく、黙って御二人のご様子を眺めておりますと、やがて高遠様は、乱暴に姫様の手を払われました。
「あなたと言う方は……!」
そう激しく哀しく一言呟かれると、高遠様はくるりと背を向けて、御姿を消されました。先程の一言には、高遠様の万感の想いが込められていたように、おそばでお聞きしていた私には感じられました。
しばらくの沈黙があり、虫の音が辺りに響き始める頃に、私たちはようやく、おそろしい出来事から解放されて、我に返りました。その時には姫様はひどく落ち着いていらっしゃって、いつものように何か物憂げに御庭を眺めていらっしゃいました。
「あの……」
姫様の侍女の一人が、このことを左大臣様にご報告すべきか否かを私に問いました。この方はまだ年若いせいか、そのようなことを姫様の前で平気で問われます。
「他言はしないで下さい。いいですね?」
そうです、何事もなく高遠様もお帰りになられたのですから、誰にも何も告げるべきではありません。ただ私たちが、ここでの出来事を胸の内に秘めておけばよいだけの話なのです。
姫様は相変わらずのご様子で、御庭を眺めていらっしゃいます。高遠様がいつもいらっしゃる場所を、ずっと……。
虫の音はいよいよ盛んになり、まるで高遠様の想いに答えようとするかのようでございました。
姫様がおっしゃった御言葉には、一体どのような意味があるのでしょうか。高貴な方のおっしゃることは、私のような者には推し量ることもできません。そう、その視線の先にあるものが推し量れないのと、同じように……。
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