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雛の恋  作者: 霜月璃音
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夏蛍の章

 それから季節がめぐり、夏がやって参りました。姫様はこの季節、お庭の遣り水の辺りを飛び交う蛍を眺めるのがお好きでした。短い間に精一杯自分が生きた証を残そうとする姿がいじらしい、と……。

 今日は、数匹の蛍がふわふわと御庭を漂っております。姫様はそれを眺めながら、そっと溜息をこぼされたのではないかと私は思いました。と言っても、姫様の桜の花びらを二つ押し当てたようなふっくりと美しい唇は、艶やかな扇の影に隠れてしまっておりましたが……。

 ふと、庭の前栽の辺りがゆれて、御庭を飛び回っていた蛍が消えてしまいました。そしてその陰から、一人の男が姿を現しました。三日月の夜でしたので、はっきりと誰かはわかりませんでしたが、直衣を召していらっしゃいますから、男の方だろうと判断できます。

「いつぞやと同じく、夏の香りに惹かれてやって参りました。どうぞご容赦下さい」

 その声は、菅原高遠様のものでした。今日は今年初めての蛍が見えた日で、姫様も大層お喜びになっておりましたのに、せっかくの蛍が身を潜めてしまったのですから、私はこの男に怒りを感じておりました。

「ふわりふわりと当てもなく彷徨うように見えた蛍が、こちらの御庭に誘われていくのを見たものですから」

「今年初めての蛍でしたからね。姫様もこちらからご覧になってましたよ」

 しかし今はどうでしょうか。彼が庭に現われたその時から、蛍は一度も飛んではいません。つまりは、侵入者のせいで姫様のお楽しみが奪われてしまったと言うことです。

「これはこれは、まことに無粋なことをいたしました。お詫びにこの高遠、姫君のために一曲献じたいと思いますが、よろしいでしょうか」

 さほど鈍くはないようでございます、私の嫌味にきちんと気付いたのですから。当代一の名手が笛を吹くのを間近で聞けるとあって、御簾の内の侍女たちは色めきたちました。姫様が頷くのを確認してから、私は高遠様の御言葉に答えて差し上げました。

「どうぞ」

 正直私は、高遠様の笛の腕がどれほどのものか、存じておりませんでした。ただ、当代一と謳われる笛の名手です、きっと姫様のお気に召すだろう、と。そうすれば、せっかくの蛍が見られなくなったこともお忘れになるのではないかと考えていたのです。

 しかし高遠様の笛の腕は、私の予想を遥かに超えるものでした。何と申しましょうか、その激しさは春の嵐のようであり、その優しさは夏のそよ風、その寂しさは紅葉を揺らす秋の風のようで、その厳しさは冬の木枯らしのようでありました。高遠様の笛には、聞く者の心を浮き立たせ、また、鎮める力がございました。私たちは高遠様の笛によって、春の野辺を駆け、夏の空を眺め、秋の山を歩き、冬の大地を踏みしめたのです。

 ふと笛の音が止んで私たちが我に返りますと、なんと、先程身を潜めてしまった蛍たちが、高遠様の笛の音に誘われて再び姿を現しました。ゆらりゆらりと儚げに揺れる蛍火が、高遠様の葵の色をした御直衣の辺りを漂います。それを眺めた高遠様は満足気に微笑まれました。そして、続きを吹かれます。蛍たちはまるで、高遠様の笛の音に合わせて舞っているようにも見えました。

 そしてさらに驚いたことに、人に聞かれるのを嫌い、人前では楽器に御手を触れることもない姫様が、高遠様の笛の音に合わせて琴を弾かれました。姫様も大層な琴の弾き手でいらっしゃいましたので、私たちはしばし、極楽浄土にでもいるかのような心地で御二人が奏でられる世界に身を浸しておりました。


「今宵はこれにて御許しを。姫君の琴の音の素晴らしさに、この高遠、普段よりも緊張してしまいました」

 高遠様はそうおっしゃると、笛を懐にしまわれました。それから私は、姫様から高遠様への御言葉を賜りました。

「姫様は高遠様との合奏を大層楽しまれたようです。御礼に何か差し上げたいとの御言葉ですが、いかがでしょうか?」

 私がそう御尋ねいたしますと、高遠様は首を横に振られました。それから、まだ御庭を漂っている蛍火に目を向けられます。

「私の方こそ、このように刺激的な合奏は久々のことでございました。今でもまだ、姫君の琴の音に遅れまいとしていた震えが残っております。どうぞご容赦下さい」

 高遠様はそうおっしゃると、また依然と同じように御簾の内に向かって深々と礼をされて、歩き去ってしまわれました。

 その高遠様の後ろ姿を見送られる姫様の御手は、青白い三日月、儚げな蛍火に照らされて、微かに震えていらっしゃいました。

 今思えば、あの合奏の時に御二人の心は通じてしまったのかもしれません。しかしそれは、儚く悲しい恋の道でございました。

葵……紫と水色を重ねて、灰色がかった青の色を出す重


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